人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、真理は掴めない

2017-11-23 12:42:58 | 
今、天河の方(一度は行ってみたい)で大本の神、国常立之命がお出ましになるとか、なんとかで盛り上がっているようですが、かつて派手に、強固にノンデュアリティ説法を繰り拡げてしまった教師たちは、"究極的には真実は私も神も居ないんですけど、その顕れの次元としてはシカジカな次第でありまして"と、取り繕い説法に懸命な様子です。
先に非二元説法をワンサカ聞かされた方は、"今さら二元的神にお参りなんか、できっかよi"と不満を漏らすものも現れています。
一元とか二元とか、あたかもこちらに依拠する立場が決まっているかのような物言いです。
私のようなイイカゲンな人間には全くどうでもいいことに思えますが...
よくよく考えてみれば、神とか霊とか精神世界で語られるものなど、何も確証の得られない、掴みようのない事象ばかりです。
これらに纏わるものが何とこれまでトラワレの温床となってきたことでしょう。
神や真理らしき、何かこちらに掴めるものがあると思いこむようです。
それを掴んだと錯覚したところから、OOの教えとかメソッドとかの大風呂敷を広げ始めるのです。
肖りたいものは又それを掴むことに躍起になる...トラワレの連鎖反応...
自称正統派のドグマ、各種オカルト教説、陰謀論...肉食、糖質食、石鹸、メイド.イン.USA..."健康を害されますよー"と宣っている方がよっぽど神経症じみています。
消えてゆく姿のはずが、消えてゆかない妄念で頭は一杯...
私には健全な人間とは、そういうことに全く囚われていない、フツーに泣いたり、笑ったりして生きている人間だという、当たり前のことが最近よーく感じられてきました。
片寄った観念に囚われた人間は、当たり前の生き方が出来ない機能不全なのです。

ブッダは言いました。"この世に常なるもの、定まったものは無い"
イエスも又言った。"私自らは何も為し得ない、何も語り得ない。御心のままに為し、語るのである"
これら古聖たちの言葉こそ、今の精神世界の状況を黙示しているものと言えるでしょう。
こちら側から何か真理らしきものを掴む以前に、掴まえられてこそ明らかにされるものがあるのではないでしょうか?
一なる神だろうと、何神サマだろうと、言い表せないサムシングだろうと、そこに引き付けてやまないものがあるか、どうかということが肝心なことなのです。
このもの自体には何々教も一元も二元も無いのです。
このものにある時、自体何か帰属されるべき何ものもなく、自由自在でいられます。
覚者ぶって、究極の何かの教えを垂れる必要もなく、神社だろうと、モスクだろうとその原初的息吹が感じられれば、どこでも自由に行き来することが出来ます。
このものにあって、ある確信も生まれてくるでしょう。これを差し置いて何か思い描いた、厚かましい信仰、教説が主張される...こういうものが宗教、スピ界というものでしょうか?
このものに出くわすことをおいて、スピリチュアルなんてものは無いと言っていいでしょう。
今、精神世界、スピ的なものをめぐってその末期症状的なものと、原初的なものの示現との真っ二つの有り様が見せられているようです...。
マコトの神が顕れたなら、全てのなりすましの神は、黙るしかないだろう...
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