人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あなたの神の本願

2024-04-11 10:13:59 | ガイダンス
親鸞上人は、おそらくわが国の仏教宗祖の中でもっとも親しまれ、その歎異抄も仏教書の古典の中でもっと読まれているものと思われますが、その眼目であろう、“弥陀の本願“という教えは、果たしてどのくらい受け取られているでしょうか?
“法蔵菩薩が四十八願を成就した“、とかいうお話は、あくまで方便として説明的に説かれたものであり、いくらそれを観念的に信じていても、今、ここに生きている自分に受け取られていなければ何にもならないでしょう。
私はもう本願という言葉を思い浮かべるだけで、ひしひしと、“私でなく、あちらの方が私と一如となるべく働いて下さる“のを身に覚えて、喜びでたまらなくなりそうです。
しかし、私がこれに触れたのは、仏教の方面には疎かったためか、親鸞上人の教えではなく、小池辰雄先生の“キリストの本願“を通してのものだったのです。
いや、それにしても小池先生は(キリスト者だから当然なのでしょうが)、親鸞さんについてのまとまった論考のようなものは、私の知る限り残してないと思われますが、本当にこの日本の精神風土に息づいている、本願の消息を先生なりに体現されているなあ、と感じずにおれません。
それで、私などは逆に親鸞上人が伝えた本願というものがどういうものだったのかを学ばされるようなのです。
勿論、キリスト教には本願などという教えはありませんが、新約聖書のロマ書にある「御霊自ら言葉にあらわせるない切なるうめきをもって。私たちのために執り成して下さる」という使徒パウロの言葉に同質のものが伝わって来ます。
思い、為そうとする自分からは、神的なものにつながることは出来ない...それを超えて、つながろうと促してやまないものがある...
全託するという...これがあるから全託せざるを得なくなるということなのです。
もはや、そこでは神や仏は信じる対象ではありません。対象化していては本願というものは分からないでしょう。
これは、極めて実存的なことなのです。(この実存的という言葉も私は小池先生を通して初めて触れたのでしたが)...それはどこまでも私やあなたの問題であるはずでしょう。
本願というものは、弥陀のものでも、キリストのものであってもいい!...あなたの神の本願なのです。
この意味では、普遍的なものとも言えるでしょう。
要するに、すべての人のためのものが実は...“親鸞一人のため“(歎異抄)、という訳です。
ところで本願というのは、英語で何て言うのか?...アプリケーション?...(敢えて間違えそうだから英語で書かないが)“私が信じている神や仏の原初的な願い“?
何ともシステマチック、間延びしていて他人行儀だこと!
もう、本願の一言でその息吹きが伝わるではありませんか?
この国に生まれて幸福だなあ、とつくづく思います!...




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