人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

つながる

2022-02-15 11:50:26 | 求道、探究
宗教やスピ関連には数多の教えがありますが、私は例えばノンデュアリティなどで説かれる、"人は元々悟っているんです、元々神なんです..."などと説かれているものほど、その受け取り方次第でギマンとなるものはない、と思っています。
それでしたら、私はあまり縁がなかったですが、彼らがしばしば揶揄しているような、厳しい修行に勤しんでいる方にずっと尊いものを感じます。
そういう言説に接して一度もリアリティを感じたことはありません。言い換えると現実に意識がそういう方にほとんど向かわない、ということです。
微妙な言い回しの違いですが、"神はあなたの内に居るんです"、というように説かれるものは別です。"おおっ...意識が私の内部に向かう感じがして来た~っi"...むしろ"あなたは神の中に居るのです"、という方がもっとリアルに感じるかもしれません。
これは、ここに所与のまま、考えている私のままが"私は悟っている"、などとは感じられない、という当たり前のことを言っているのです。
内なる神だろうと、天にまします神だろうと、考えている私には分かりません。
それは、そう思う、信じ込むということだけで、自分の観念世界から一歩も出ない、ということなのです。
そういう精神の有り様である限り、それは、一コの自分の世界だけに意識が閉じられている状態であり、どこまでも自我意識から抜け出せない、ということです。(そして、"私が神だi"と思わせるものが何か、ということはよ~く分かりますともi...)
と、こういう言い方が出来るということは、意識が開かれる、自我を超えたものがある、ということが既に示されてあるのです。
自覚する、しないに関わらず、何人もこういう意識がある方に向いてしまう、開かれてゆくという感じは経験があるのではありませんか?
そして、この開かれた、超えられた状態にこそ、自己のリアリティ、実存というものが求められるのでしょう。
それは、言うまでもなく、そう在らしめるものがあり、そこに開かれるということであり、このことが"私は神の中に、神は私の中に..."、ということにつながるのです。
つながったi..."私はここに在る"...それは神なのか、霊なるものか、ある種の関係体か...一コの私だけからは、私は私でなくなる...そのものとのつながりあってこその私ではないかi
"オギャア"、と生まれた赤ちゃんがひたすら何かを求めるように泣き叫ぶのは、つながりを求めているのではないでしょうか?
このつながりに目覚めることが、あるいは悟りというものなのかもしれません。
これを抜きにした悟りなどというものは、自我に閉ざされたままの、その飽くなき増長というものでしかないでしょう。
だから先の教えにギマン性を感じてならないのです。私はああいう言説に多く見られるように、何故このもっとも肝心なことがなおざりにされているのかが、不思議でならないのです。
悟るとか神とつながる、と思いたい、信じたいのなら、思うだけでなく、祈ったらいいでしょう。
五井先生が「思いを祈りに昇華させる」としばしば言っておられたように。
"神なんか居ない、私が神だ"、と信じたい人は、きっとつながりを失ってしまうでしょう。
祈ることは、広く、深い意味でつながることに他ならないでしょう。
それは言葉にならない心の奥からの叫びのようなものでしょうか?
生まれ赤子のように...
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 最初で最後の祈り | トップ | 努力は報われないか? »

コメントを投稿

求道、探究」カテゴリの最新記事