人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

聖霊と現臨

2020-10-08 10:02:28 | 現臨、ハタラキ
私は今でこそ、"意識を向ければ、ぱっと現臨に捉えられる..."、なんてことを事も無げに言っておりますが、当たり前ながら、昔はそんな風じゃ無かったのです。
いやもう、そのことを考えると、ホントに不思議なことで、有難くて仕方ありません。
私はフツーの、思われたままを生きている人間です。これは勿論、昔も今もということですが、どっか思いを超えたものが開かれちゃっているらしい...
そのことを、最近昔から親しんでいる本を読んでいて、テキメンに感じさせられました。
それは、小池先生の主著「無者キリスト」という本ですが、その中でも、別のところでもしばしば先生は、聖霊というものについて「聖霊はキリスト.イエスという具体的な神人、受肉のキリスト.イエスと不可離の関わりをもっている霊である」と言い、他の諸々の霊と区別されねばならないものとしているのです。
私はこれに躓いたのでした。
その言葉通りに受け取ると、聖霊を受けるにはクリスチャンにならなければならない、ということになるでしょう。
しかし、先生は、"教派も宗派も超えて、この霊なる絶対次元に立ち返り、帰一せよi"、といったヴィジョンを掲げていて、その事とどうつながるのだろう、とか私は考えてしまったのでした。
仏教者に向けて、"十字架と聖霊は切り離せないi"、とか言ってもフツー通じないでしょう。
こういうこともあり、又、あのぶっ飛んだ祈りの事態に恐れをなしたこともあって、私は先生の集会に全的な心的姿勢で飛び込めないものを感じていたのです。
しかし...そんなこた、今から思うとどおってことないですね。
"聖霊が具体的なキリスト.イエスと不可離である"、ということを頭で理解したところで(大体理解など出来ないでしょうが)、どうなるというのだろう...
ただ、知識として信じるというだけのデモ.クリスチャンになって何になるだろう...
もし、聖霊というものが具体的なイエスと不可離であることが感得されるとしたら、それは具体的な個々と不可離なものでないとならないでしょう。
それは、私に直接目の当たりにされるものということです。
これは、心霊学的な、諸々の霊の事態とは区別されねばならないでしょう。それは、二元的に思い描かれている次元だから...
こういうことはもう、理屈じゃありません。
聖霊と言わんか、それは思いを超えた次元から切り込んでくる霊なるハタラキ...それはリアルなものです。
具体的にハタラくからリアルなのです。何を思うとか信じるとかいった、抽象的心理を超えて、現存在らしめるもの...だから、現臨と呼んでいるのです。
現臨してこない、聖霊というものは無いでしょう。
これはあくまで私の言い回しなのであって、言葉尻に囚われないで下さい。
小池先生には、先生の言い回しというものがあります。別に囚われる必要は無いのです。
私はクリスチャンでもなく、小池先生の忠実な弟子でも何でもない、ただの寄宿人にすぎません。
私が言っていることは、もしかして間違っているのかもしれません。
しかし、私はかく言わざるを得ないのですi
"ざるを得ない"...これは小池先生が口ぐせのように言っていましたが、この気合い...ちょっとは分かるようになったかもしれません。
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