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NHK教育の「100分de名著ニーチェ『ツァラトゥストラ』」も3回目となりました。哲学者の東京医科大学教授西研先生の解説は、ニーチェの世界を知りたいと熱く思う思う人にとっては西先生流のニーチェ論によって西先生の体系で整理でき、素人なりにも自分流のニーチェ論を原文(翻訳本ですが)を読み合わせながら構築できるのではないかと思います。
学問としての理解として、または人生観、自己理念として何がしかの道を開いてくれるように思います。
今回のテーマは「永遠回帰とは何か?」です。別の哲学者では「永劫回帰」とも呼ばれています。この言葉と仏教でいう「輪廻転生」が非常に似ていると思う人は私ばかりではないと思います。
ニーチェは仏教について語る場合もあります。19世紀のドイツの哲学者、当時伝えられた仏教をどの程度理解出来たかはわかりませんが、文学博士の湯田豊(ゆだ・ゆたか)先生が10年ほど前に『ブッダVSニーチェ』(大東出版社)という本を出されています。
前回は、これまでの価値観にとらわれず創造的に生きようとする存在、「超人」について語られました。
この超人になるために説かれるのが「永遠回帰」・・・番組はナレーション、紙芝居、西研先生のパホーマンス等で楽しく番組は進みます。
ニーチェ哲学の神髄といわれる永遠回帰とは「人生の輪っかが何度も何度も永遠に巡ってくる」というの運命を受容するという哲学で、一見拒否的な考えを持ちそうに思えて全くの正反対なものに思考が逆転する(ポジティブになる)哲学であることが西先生によって語られます。
西先生は風貌のトーリユニークな先生で、いきなり「永遠回帰」をイメージする曲として中島みゆきさんの「時代」を歌われて、実際の授業も楽しそうです。歌い終わり、
【西研】
自分の人生が寸分たがわず何度も何度も繰り返すという「永遠回帰」を理解すると「超人になれる」
自分の人生が最悪であってもそれを受け入れることで「超人」となれる。その秘訣が「永遠回帰」という考え方。
と説明され「ツァラトゥストラ」の中の有名なシーンがアニメで紹介されます。
「ツァラトゥストラ」「第三部幻影と謎」から
【ナレーション】
ある夜、ツァラトゥストラは幻影を見ます。荒涼とした断崖のほとり・・・そこには、若い牧人が横たわりのたうちまわっています。
牧人の口からは黒く重たいヘビが垂れ下がっています。
力まかせに引いても、引きずり出すことができません。
【ツァラトゥストラ】
その頭を噛み切れ!
【ナレーション】
蛇を噛み切りその頭を吐き飛ばした牧人は、高らかに笑いました。
【ツァラトゥストラ】
牧人は、もはや牧人ではない。もはや人間ではない。ひとりの変容したもの。光に包まれた者である。
以上のわけのわからない話ですが、次のように説明されます。
蛇が口に入っている姿=ニヒリズム
永遠回帰の思想は、自分自分の最悪が巡ってくる。
ニヒリズム=「すべてのものは無価値である」とする考え方
何をしても意味がない、そんなに頑張ってどうするのというような考え方に囚われた生き方をする人々のことであり、ニヒリズムに陥るとその最悪が巡り巡ることになるということです。
「ヘビを噛み切る」ことで「永遠回帰」を受け入れることになる。
永遠回帰を受け入れて最悪の事態も含めた自分の人生も肯定して、超人になった話と説明されるのか何のことかわかりません。
永遠回帰とは、万物のエネルギー保存の法則の元、「永遠に時間がたてば、また元の状態がやってくる」
という考え方で、直接同じ人間が生まれ変わるという一般的に考えてしまうようなものではない、法則的な意味の理解であることです。
このことについては、仏教の「輪廻転生」と同じで、いろんな捉え方があり生まれ変わることを意味すると説く人もあれば、そういうものではない死後の世界などはないと説く人もいます。
エネルギー自然の法則のようなもの、私もそのように思っています。
今回の「永遠回帰」の受容については何か聞かに分けてアップしたいと思いますが、この番組で、「自分の人生、運命の受容」という意味ですばらしい話が合ったのでその話を紹介したいと思います。この話はテキストにも紹介されていますのででそれを引用したいと思います。
<引用>
・・・・・ふと友人のKさんの言葉を思い出したのです。Kさんは、1980年代の初頭、ぼくがまだ二十代のときに出会った人で、「骨形成不全症」という病気を抱えた女性でした。発育不全で身体は小さく、骨が弱くて脆(もろ)いために骨折を起こしやすいので、彼女はいつも車イスにのって移動していました。
以前は看護体制の整った施設で暮らしていたのですが、そこではさまざまな人たちとつき合う「関係の悦び」が得られにくい。当時は「障害者よ、街へ出よう」という「自立障害者」運動が盛んな時期でしたから、Kさんも公的扶助などを受けながら、ボランティアの人にお願いしてアパート暮らしをするようになったのです。
しかしトイレも介護を受けないと一人ではできないので、夜眠るときでも必ずだれかが付き添っていなければなりません。彼女は二百人ほどの名前をリストにしたノートをもち、今日はこの人、明日はあの人というように、自分のおなかの上に電話機を置いて電話しながら、介護のスケジュールを埋めていたのを思い出します。
Kさんはこの「自立障害者」運動のなかで、たくさんの障害者や健常者と出会って友だちになりました。彼女は大学生ではありませんでしたが、車イスを押してもらって大学のゼミにも顔を出し、そこでぼくもゼミ生の一人として彼女と知り合いになつたのです。
その彼女が、あるときこんなことを話してくれたことがあります。
「障害者の仲間の間では、こんな話があるんです。『もし天使が降りてきて”あなたの障害をすっかり治してきれいにしてあげる ”といわれたら、そのときはどうする?』って。
私は『このままでいい、障害をもって生まれたこの身体をもう一度選ぶ』というつもりだよ」と。それを開いた二十代のぼくは、「ほんとかなあ? それはちょつと無理があるんじゃないかな」と思って、彼女にもそういった記憶があります。
でもだいぶ後になつて、あらためてこの「永遠回帰」の思想-----「マイナスな生の条件に対しても”われ欲す ”といえるとすれば、どんなときだろう」と考えてみたとき、彼女の「このままでいい」といった理由がわかる気がしてきたのです。
彼女にとっていちばん大切だったのは「関係の悦び」だったのだと思います。
<以上引用テキストp70~p71>
との話を聴き、震えを覚えました。「永遠回帰」の考え方は、運命の受け入れ方の意味で考えると仏教徒の私にはとても理解しやすいものです。
逆に考えると更なるニヒリズムの増幅のように見えます。西先生は「関係の悦び」と理解していると言います。この理解の説明も大変勉強になりました。
この番組の中では話されないことですが、ニーチェは、仏教を更なる増幅と見ています。しかしこの「永遠回帰」の考え方をするとおやっと思われる仏教徒の方が日本では大半ではないかと思います。
なぜか、それはニーチェが言うところの「仏教」が知り得た当時の仏教とは異なるからです。
ニーチェの考え方は私自身の仏教観と非常に重なるところがあります。番組紹介からあらぬ方向にずれてしまうのが私の常ですが。
ニーチェ哲学を理したいとおもうのか、なぜ今の日本人に受けるのかを考える上でも重要な点が隠されているように思います。
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西研が言えば立派で、僕が言えばちゃちですか。
その彼女に対して、「それはちょっと無理があるんじゃないかなあ」だなんて、たとえ20代の若造でも、よくそんなことがいえるものです。
お前には「立ち止まって考える」ということができないのか、よくそれで哲学やっていると言えるものだ、と思います。
僕だったら、「え?」と意表を突かれて「負けたなあ」と思います。そういう若い時の経験がないわけではない。
「関係のよろこび」だなんて、笑わせてくれる。彼女ほど「関係の悲しみ」や「苦しみ」や「重さ」を知っている人もいない。
永劫回帰を欲する、じゃないのですよ。「受け入れる」、と彼女は言っているのですよ。受け入れているからそれ以外の生のかたちは考えられない、と言っているのですよ。
この西研とかいうアホに教えてやってください。
生きることはどんなに悲しくしんどくても、人はそれを受け入れる。おまえらみたいな俗物の「悦び」なんかなくとも、それでも人はこの生この世界を受け入れる。だから人類は地球の隅々まで住みついていった。
福島の人もチェルノブイリの人も、自分たちが作った野菜を食べる。だから我々東京都民も、それを買って食べてやろうじゃないか、という。
西研とか言うアホな哲学教授より、福島県民やチェルノブイリの農民のほうがずっと「運命を受け入れる」すなわち「永劫回帰」ということをよく知っていますよ。そしてそれは、「無常」という問題でもある。
僕は、「人間とは何か」ということはそういうところから学ぶのであって、ニーチェだろうと西研だろうと知ったこっちゃないですよ。
これを読んだ仏教徒の人々も、文句があったら言ってきてください。
コメントありがとうございます。
西先生の「関係の悦び」をテキストで知った時に、「・・・・・」点がありました。これまでに逆境や絶体絶命に遭遇した人たちの克服、受容の姿と言葉に接し「関係性の悦び」のみで終わっていいものかと疑問に思っています。「関係性」という言葉、人対人の関係のみに限定することは早計で、自己対他者(人、世間、世界・・・・運命)の拡張的な志向性で思考するべきものと思っています。
私はいろんな諸学者、先生方の言葉をお借りします。私自身と重なる部分もあれば、これはという部分もあります。
これは別の方のコメントに対しても書いたのですが、重なる部分が、共鳴するところで私の考えということになります。最終的には己を寄り処という考えですので、それは別題のブリグで書く必要があると考えています。
とりあえずNHK好きな私です。NHK番組を題材する場合には余計なことを書かないことにしています。
<永劫回帰を欲する、じゃないのですよ。「受け入れる」、と彼女は言っているのですよ。>
この「受け入れる」という言葉というよりも、「存在一般関する根源的原理的会得」こういう難し表現があります。本当は日本の哲学者に恐ろしいほど深い人がいます。
偶然は偶然ではない、最近九鬼周造先生を読み始めたら、大震災があり、この番組がありです。これはある種の「関係性(上記の私の書いたもの)」であると思っています。そして貴殿のコメントも。
コメントありがとうございます。
まずは、ニーチェの名言的なもので
「神は死んだ」とありますが
あれは、信じるものがなくなったとき人はどうなるかってことですか?本当に自分なりの解釈です。。。。
では、永遠回帰 または永劫回帰ってよく輪がどうしたのって言いますが、あれではさっぱり意味が分かりません。
本当に分かりやすくお願いします。
私もプロではありません。哲学好きというよりも思考好き、考えるということに力点を置いて生活しています。
さて「神が死んだ」という有名なニーチェの言葉、大きな哲学の流れの中では、反哲学の時代に入ったということになります。
理性的な人間というとデカルトに時代はまだ神的なものでしたが、教会の権威がなくなるニーチェの時代に入ると理性は人間中心に考えるようになります。
善き生き方をするには理性的でなければならないといえば人間性を高めることを主眼とし、神に祈り実現するものではないのです。
ニーチェの場合は価値の転換を喜びの道をすすめという話になるように人間を主人におきます。
泳法回帰、永遠回帰は、どうしても輪廻転生的に魂は救われない繰りかえしの視点で考えてしまいますが、思考の視点を、そう考えた場合に今の我はどうあるべきか、今の立場が永遠に繰り返すことになるとするならば、今の私を善きものに置かねばならない・・・そう考える視点に置くことだと思います。
これは人生経験からもいえることで、今の自分を変えない限り、いつまでも同じことの繰り返しです。永遠回帰はそういう意味の回帰なのだと思います。
<信じるものがなくなったとき人はどうなるかってことですか?>
といいますが、人間は呼吸するときに空気を意識していません。空気があることを問うことはありません。
空気がないときには苦しみの中で死ぬしかありません。では神は空気と同じかというと実体論的に人間の叡智を超えた存在ですので、人間の創造の範疇に元々ないのです。
神はおられるといった時には、神は離れるものだということです。
あるが見えないものそれが空気で、身体はこれを取り込めるように作られている。
何が信ずるに値するか、今の自分を感じ自分の理性を思うしかありません。より善き生き方をするために、今価値転換が必要ならばするしかない、しかも自分の力で、意志の力で・・・と考えたらよいと思います。
質問に対すること絵になっていないかもしれませんが、哲学は自分で考えてみるということだと思います。その点宗教は教えですので信じるしかありません。
したがって「神が死んだ」と言われて本来の哲学(反哲学)を取り戻したということにもなるわけです。
永遠回帰で、何回も何回も同じことが繰り返すとありますが、それについて、分かりやすく説明していただけませんか。
テレビでは、若干良いように扱っていたように思えたので気になってました。
当然私も素人ですからいろいろな解説本を頼りに理解しようとしています。現在進行形の、過程の中にあります。この「永遠回帰」の解説で一番難解に思いいまだに理解できないのが永井均先生の『これがニーチェ』(講談社現代新書)です。
「まだに理解できない」ということは、それだけニーチェの「永遠回帰」は難解だということです。
人生を変えようとして価値の転換を図り喜びを得ようとするとき、そこに立ち現れるのが永遠回帰。努力しようとしても効果がない。まるでインドのカースト制度の根源の思想のように見えます。
輪廻転生も永遠回帰も実体験で、持ち合わせている人はこの世には存在しない。
それなのにその言葉概念が存在するということは、その意味がある。意味の無い言葉が存在するわけはなく、これはアランの幸福論でも言えることですが、心の転換を図るための契機が必要です。それは他人に必要であるのではなく応じる個人に必要であると思います。
「何度も何度も繰り返すということは、いいことなのですか」と考えるとき、考える側には「今の状態が・・・」という前提が生じていると思います。
もしも価値転換を図る強い意志をもつならば、持つことに決意すれば「何度も何度も繰り返すということは、いいことなのですか」の「いいことなのか」が意味をなさなくなると思います。
したがって「永遠回帰」の価値ではなく「いかに価値転換を図り善きに生きるか」に目線を向けるべきではないかと思います。