思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

こころの時代~宗教・人生~「心に枠のない世界~鈴木大拙館をたずねて~」

2012年09月24日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 仏教哲学者鈴木大拙先生のことをブログに書くのは2009年10月の“「世界の中の仏教」 と「鈴木大拙の世界」” の以来のような気がします。

 昨日のEテレ“こころの時代~宗教・人生~”は、「心に枠のない世界~鈴木大拙館をたずねて~」と題し、鈴木大拙館名誉館長の岡村美穂子さんのお話でした。この「こころの時代」は毎週欠かさずに観ていますが、出会う現象の世界、実にその不思議を感じました。

 精神医学における実存分析のヴィクトール・フランクルの思想には、「本来の人間のあるべき姿を取り戻す」ということがあり、昨日の鈴木大拙先生を語る岡村美穂子さんの話しに非常に近いものを感じました。

 編集で1時間の番組、聞き手が金光寿郎さんですから長年秘書をされていた岡村美穂子さんから内容の濃い鈴木大拙先生にかかわる話を引き出されていました。「心に枠のない自由な世界」という題ですが、この題の中に本来の人間のあるべき姿を語る鈴木大拙先生の思想があるように思いました。

 岡村美穂子さんはお父さんの仕事の関係でしょうか、ロサンゼルス生まれで15歳ごろの高校生の時にコロンビア大学で開催された鈴木大拙講演を聞いたのがその後の鈴木先生との運命的なつながりにあったようです。その時はこの講義が精神科医のゼミ形式のもので生ることは知らずに全5回を聴講し、運命なんでしょう、直感で先生に終了後に話しかけ、先生に若い時からの自分の悩みを話す機会がきて、今日の「鈴木大拙館名誉館長の岡村美穂子」という立場を決定づけていることに運命という不思議な流れを感じます。

 岡村美穂子さんには、6歳ごろから人間不信という精神的な悩みを持たれていたようです。両親との関係、身の回りにいる動物は嘘をつかないが、「大人(人間)は嘘をつくもの」という疑念心です。
 
 日常の両親の夫婦喧嘩や明治時代の父親からは「なぜうちには男の子がいないのか」という言葉、女の子の岡村さんにはたまらない話です。

 女のことはどういうことなのか。

 女の人のどんな人生を送るのか。

 結婚し、子を産み、母親になる。こんな人生は嫌だ。

このように自分への不満や結論的には生きるのは面白くない、というニヒリズムの例題のような状態にあったようです。

 岡村さんが鈴木先生に出会われる運命的な流れなのですが、最初にお目にかかった第1回の講演における鈴木先生の仕草と態度がありました。

 この人(鈴木大拙)は、「真実と偽りの境目のない人」という印象。

と言う岡村さん、縁の始まりです。15歳の少女であった岡村さんは会いたいという衝動が湧いてきて最終回の閉会後に先生に会い、学校が休みの時に自宅に招かれる流れになります。

 その時に自分の悩みを語ることになったとのこと。生涯の悩み、問い。聞いてもらいたいときに聞く人が現れ、聞いてもらうときが来たということです。岡村さんの運命にはそういうものを感じます。

 その時鈴木先生は少女の手をさすりながら「仏の手だぞ」と言われたそうです。その後の感慨でもあるのですが「自分の手ではない、別次元の手だぞ」と語っていた、ということです。

 最近よく書く旧約聖書の詩篇の言葉、
 
「目を造った方は見ることをしないだろうか。耳を植えた方は聞くことをしないだろうか。」

と同じ次元の言葉のように思います。「仏の手だぞ」には、自分が作った手でもなく、親の作った手でもなく、さらに遡るところの親によって作られたものでもない手、視点を広げれば身体です。

 人間は「私の考え」という、自分の考えで凝り固まっている。「外から自分を見ている、それだけかな?」と言う鈴木先生の問い、「それで終わっていないか」という問い。観点の転回です。

 岡村さんの語りから、岡村さんが悟りの境地にある僧侶のように見えました。意識が業(ごう)を作る。動物と異なり人間は、自分の殻、枠を作る。主観、客観の世界でものごとを見、枠を作る。自分にあってはこれは崩さなければならないもので、「自分の手」は有限・無限の無い、同時にあるもの。鈴木先生による別次元の暗示です。

 岡村さんは、その後の鈴木先生の秘書経験、先生からの教えも含めその思想を語ります。悩みにともなう問い、自然に鈴木先生に悩みを吐露したのですが、そこに「問うことの大切さ」マタイの言葉「叩けよさらば救われん」の教えに重なり、全身でぶつからないと天の扉は開かれないとも語っていました。「わかる」とは「分かる」「解る」「判る」の二元的な分別による意識による理解です。

 鈴木先生の岡村さんへの教示の一つ、机をコツコツ叩いて聞いているのは誰か。私が聞いているのではなく、全身で聞いているのでもない。鈴木先生曰く「全宇宙が聞いている」。

わかる人がいて、わあるものがあって、わかる人はわかるものをつかだのではない。

 鈴木先生は岡村さんの二の腕をつねる。

 「痛い!」

 「その声はどこから出てくるのか?」

 「痛いからあるのではない。」

本願力

人間の分別を超えた自分がいることがわかる。

動かされている。何かに。分別以前の、言葉以前のブレの無い有りよう。

相対する有無の「無」ではない、そのままとしての「無」

実存主義のJ・P・サルトルの著書を読んでいた時の崖っぷちの話し、鈴木先生の「飛び込め!」

 鈴木先生の人生相談の話における「それはそれとして」の言葉が意味するところ、それは別次元への視点の転回で、そこに人間の「本来」の姿であり分別以前を示しています。。

「平常心」は、何もないという次元

ゼロ=無限

無限=ゼロ

色即是空 空即是色に、言いたいことの全てがある。

常に動いている、固まると平常でなくなる。

お寺での修業は何のためにするのか。スーッと生きるためであり、意識があるとスーッと生きられない。

涅槃は安らぎ

等の興味の尽きない話が多く語られていました。悩みの只中にいた少女が、出逢いの中でその意味を理解していく姿、まさに“記念館の名誉館長である岡村美穂子さんが、仏法の神髄が現れていると感じた大拙師のエピソードを紹介しながら、枠のない自由な世界を語る。”話しでした。

 心のメモとしての文章で、意味をなしていない個所もあると思いますが、仏教哲学好きな人にはとても参考になる話でした。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
法を求める (無相庵)
2012-09-24 20:25:48
〝心に枠が無い世界〟でグーグル検索し、貴ブログに出遇いました。
法を真剣に求め、そして法を発信されている方が此処にもいらっしゃるのだと嬉しく思い、メールさせて頂きました。
私も今日、昨日の岡村美穂子さんの『こころの時代』に感銘を受けまして、下記にコラム化するにあたりまして、検索した次第でございます。
http://www.plinst.jp/musouan/koramu122.html#1230
ありがとうございます。 (管理人)
2012-09-24 21:26:59
>無相庵様
 「無相庵」さんに立ち寄っていただき恐縮です。こころの時代の文書化サイトは知っていましたが、この平成12年は読んでいませんでした。
 今回の番組を文書化しようかとも思っていましたがそれも必要内容で内容は十分にサイトに残り伝承されるものと思います。「それはそれとして」という言葉は話題の転換、喧騒の一時否定、というよりも精神性の深みへの観念転回のように思います。争いはあるがその争いの現実の意味するものは何にか。
 現象からの意味の問い、それにどう応えるか。争いの原因追求ではなく、争いそのものが意味するところ。
 夫婦喧嘩ならば、そもそもの二人の出会いの偶然性の意味するところにさかのぼります。愛し合って結婚した、過去の事実、「過去は宝である」という実存分析のフランクルの言葉が深みを増し、鈴木大拙先生の思想も「自然(ジネン)」的な運命愛を語っているのではないかと思います。「それはそれとして」深みのある言葉ですね。
 コメントとありがとうございます。
分かり易かった。ありがとうございました。 (高橋秀治)
2013-01-05 14:17:48
心の時代にふさわしいテーマでした。
ありがとうございます。 (管理人)
2013-01-05 20:12:06
>高橋秀治 様
 文才がなく非常にわかりずらいと思います。申し訳ありません。
 鈴木大拙先生を関わりのある方から直接聞けるとまた人物像が濃さを増します。思想も当然理解に濃さを増すわけです。
 学びのチャンスは必ず訪れるものです、今後もアンテナをしっかり立て学びたいと思っています。
Unknown (きき)
2016-12-11 23:30:32
今日ラジオで岡村氏の鈴木大拙のハナシ聴いて
テーブル5回も6回も叩いてたから
鼻っ柱の強い人に違いない
コメントありがとうございます。 (管理人)
2016-12-17 04:15:05
>きき 様
 「鼻っ柱の強い人に違いない」
 と語る背景にはその比較において「鼻っ柱の弱い人」という発想があるのでしょうか。
 気が強い人という意味ならば、気の弱い人が居るわけで情熱の人冷たく死人のようではない活き活きとした彼女がいるように見えます。
コメントありがとうございます。 (管理人)
2016-12-17 04:15:20
>きき 様
 「鼻っ柱の強い人に違いない」
 と語る背景にはその比較において「鼻っ柱の弱い人」という発想があるのでしょうか。
 気が強い人という意味ならば、気の弱い人が居るわけで情熱の人冷たく死人のようではない活き活きとした彼女がいるように見えます。

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