思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

世の中は何を問うているのか

2014年11月12日 | こころの時代

 昨日11月11日は第一次世界大戦の終戦日だったんですね。フランスとドイツとの国境線を挟んでの戦い、5月頃にEテレの歴史ヒストリアでこの時の戦いに負傷者の救護活動に当った日本日赤の医師や看護婦(今は看護師)さんたちの活躍が紹介されていました。

 今から100年前の話ですが、当時献身的な治療によって救われた兵士たちの子孫は、いまだにその時の事を忘れずにいることに驚きを感じました。

 命の危険にさらされながら遠い異国の地での奉仕活動、当りまえのことですが、このような番組を見なければ全く知らないで終わっていますが、つい最近も放送されていて改めて観るとまた別角度から、他者の為に何かをするという姿は、蚊帳の外、時代的にも全くの蚊帳の外の私にも、時代のそのときの訴えが聴こえるような気がします。

天使とは、
 苦悩する者のために戦う者である。
  (フローレンス・ナイチンゲール)

 20世紀は史上まれに見る殺戮の時代と呼ばれるほど、世界で戦争が行なわれ多くの人々が戦いで、兵士のみならず市民も、また民族も犠牲となりました。国家間の戦いは個人の痴話げんかの延長線上にあるのか。

 構造的には個人が多数集まり集団となりその地に住む。

 いつの間にか垣根が国境となり、勝手に他人の地を踏むことができなくなり、その内に生きるために発生してゆく国家間の利害関係から戦いは始まります。

 戦争とは一人の独裁者により、盲目的な、人間的な意思判断を鈍化させられた国民の何ともやりきれない行動であろうか。

 その後の時代に生きるものだからこのように考えるのですが、そのときのその時代に生きる人々は、理不尽な運命づくりに参加せざるを得ないのですね。

 昨日のブログに、

「いじめを止められる子は、自分のことが好きな子」

 言葉を書きました。この言葉からはみ出す人々が必ずいます。性善説、性悪説などを考えたところで時代に生きるとなると、どうしてもこの「必ず」があるように思います。

 死にたくないのになぜか死んでもよいと考える。他者を殺してはいけないのに殺してしまいたいと思い決意する人もいる。

 何とも言い難い、避けることの出来ない現実があります。

 松本市では10日から2日間核兵器廃絶を目指す国内外の自治体でつくる平和首長会議の国内加盟都市会議が開催されました。

 国家の姿勢が最終的な決め手ですが、決定機関がさらなる高みに登るほど必ず裏腹が現われてきます、個人の真面目さが鈍化してゆく、一人が拒否しても抵抗者、反逆者に貶められ、決定権の力は集積されればされるほど、あらぬ方向にその力を発揮します。

 参政権のある大人は全て「自分のことが好きな子」だったのだろうか。

 そういうことを考えると、というよりも想像してごらん、です。

 その決定の内情は、決して集約にはなっていないことが解かります。

 事の起こりは全て隣近所から始まります。コミュニケーション能力から始まります。

 天使とは、
  苦悩する者のために戦う者である。

 苦悩するものがこの世には必ず存在する。だから天使は現れる。

 考えた神を振りかざすのは、もう止めにすべきなのだろうと思います。

 生きる神の体得

 13世紀に生きた聖職者マイスター・エックハルトの次の言葉を過去ブログで紹介しました。

 <『神の慰めの書』(相原信作訳・講談社学術文庫)から>

 ・・・神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。私自身のみならず、一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。ただこれらのものはそれを知らないだけである。・・・

<上記書p294から>

 この言葉には心打たれる教示があります。

 国家は個人の延長線上にあるならば、神の国は実現できるはずに違いないのですが、神の国を主張することの恐(おそ)ろしさほど恐(こわ)いものはこの世にない、今生きる人は知らされています。

 世の中は、矛盾に充ち満ちている。


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