思考の部屋

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アンベードカル博士の「転生のない再生」

2009年06月07日 | 仏教

 インド仏教指導者・佐々井秀嶺さん来日し各地で講演会をされていることを知りました。山本宗補さんの雑記帳によると長野県の上田市方面も回られたようですが、山本さんによると相当の激務のようです。体調を崩さないように残り2週間頑張ってインド仏教の現状と活動を多くの日本人に知らせていただきたいと思います。

 近代のインド仏教の再構築者は、アンベードカル博士で佐々井秀嶺はその意を引き継いだ日本人(現在国籍はインド)で有名な方です。

 アンベードカル博士という人物を知り、「ブッダとそのダンマ」山際素男訳(光文社新書)を購入、インドのカースト制度の凄さに驚き、さらに故山際さんの著書で不可触民の現状を知ることができました。

 2004年12月にブログに書きましたからもう5年ほどになるわけで、その当時人口の1パーセントで1億人の仏教への改宗者で、今回もお話の中で1億人ということで変化がないと思われがちですが、比率と言うものは分母によってその状況が違います。変わらないということは増えているということで仏教誕生の地が再度しっかりと仏教が根付くことを期待しています。できるなら大船の仏教であってほしいと思います。
 さてアンベードカル博士の一番の目的はカースト制度の撲滅でした。これは根深い民族的な悪習でこれを破壊することは、死を意味します。「悪習」という表現をしましたが、それを当たり前に思う人々にとっては、絶対的な事実で己にはどうしようもないことなのです。

 人道主義者、非暴力闘争の生みの親のガンジーでさえカースト制度の撤廃は闘争目的には含めませんでした。それは彼がカースト制度の中に入るもので不可触民でなかったからです。ガンジーの闘争は、あくまでも日本の幕末期における攘夷運動と同じ外国文化の排斥にありました。ですから外国文化を勉強したいと希望する息子に対し相当のことを行い、息子は精神的な病気にかかり早死しています。

 アンベードカル博士の活動は、私は

① 不可触民のヒンズー教からの大量改宗
② 民族的な恥部、古代権力者の異民族に対する支配制度からの解放
③ 原始仏教への回帰

の三点が基本であったと思います。

 この活動は、現在は原理主義者のテロの危険性をはらんでいるわけで佐々井さんも大変だと思います。

 佐々井さんという日本人がこの活動を引き継ぐところに意義があるように感じます。再度大小のことをいっては生けませんが縁を持って活動を継承されることを願います。

 さてここでアンベードカル博士の輪廻転生観に言及したいと思います。上記の「ブッダとそのダンマ」という本に「転生のない再生」の話があります。この本自体が博士のブッダ物語を書いたものですから、博士がいかに転生という問題を考えていたかよくわかります。それはミリンダ王物語です。

 ギリシャ人のミリンダ王は尋ねた。「ブッダは再生を信じたのか?」ナーガセーナは然りと答えた。「それは矛盾していないか?」否、とナーガセーナはいった。「魂がなくても再生があるのか?」「もちろんです」「どうしてあうるのか?」「たとえば王よ、灯火から灯火に日を移せば転生というでしょうか?」「そんなことはもちろんいわない」「霊魂のない再生とはそういうものです」「もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ」「子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ」「記憶しているとも」「その詩句は教師から転生したものですか?」「もちろんそうではない」「転生のない再生とはそのようなものです、王よ」

とかかれています。博士はこの「転生のない再生」で「カースト制度」を乗り越えようと考えていたと思います。

 実に過激ではない柔らかいがしかし奥深い考察であると思います。

 「カースト制度」が根拠無き差別、人道主義の見地から許されざる悪習などとせずに実に穏やかです。

 今朝のブログ「マリア・ルス(ルーズ)号事件」を掲出しましたが、明治維新の政治家が如何に優れていたかわかります。

 アンベードカル博士がなぜ「原始仏教への回帰」を目指したか、それは植民地化されたインドから仏教経典が西洋に持ち込まれ仏教研究が盛んでそれが逆輸入されただけのことです。

 日本の仏教も明治維新後、宗教学的、哲学的に研究されるようになったので、もし博士が現代に生きていたならばきっと「大乗仏教への回帰」と、したと思います。

 対テロとの戦い。佐々井さんには改めてご健闘をお祈りします。
   
 写真は、私が一番好きな松本市蟻ヶ崎の曹洞宗正麟寺の観音様です。


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5 コメント

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佐々井秀嶺さんのこと (蓬太郎)
2009-08-08 22:07:32
こんにちは、貴ブログ拝読しました。小生も過日佐々井秀嶺師の講演を東京で拝聴しました。いろいろな人がブログなどで述べている感想と同様に、その声が印象的でした。ただ、その仏教について、アンベードカルの思想について浜で整理できていません。でも、佐々井さんには大いに共感しました。ところで、先ごろの佐々井秀嶺師の日本全国行脚の様子を追ったドキュメント『男一代菩薩道2』(フジテレビ・NONFIX)が8月13日深夜に放送とのことです。くわしくは同番組のホームページや、ネット上にいくつか出ている番組案内を参照ください。以上、取り急ぎ。
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分からんですわ。 (horrow)
2011-11-21 09:07:45
転生のない再生が全然理解できません。できたらお教え下さい。
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コメントありがとうございます。 (管理人)
2011-11-21 19:00:32
>horrow 様
日本語でよろしいでしょうか?
今の自分は転生しているか。このような命題を考えた時に前世記憶があるわけでもなく、あるともないとも答えられません。
 他人はそういう記憶を持って生まれた人がいます。またそのような話を聞いたといいます。
 私はそのような本をたくさん読みましたが、私自身にはそんなことはありません。
 しかし38億年前の一つに始まる細胞のゲノムの世界は間違いなく引き継がれていて今日の私をつくり上げています。
 これは明白な事実で誰にも共通した事実です。
 転生を信じる者は、意識の引き継ぎ、もしくは生まれるときに記憶は消されたという自分の意味付け、や他人の言葉に左右されます。
 あなたにも私にも明らかな事実は、意識は引き継がれていないという事実です。前世の記憶は引き継がれていない。
 そして過ぎ去った過去には手が届かないのですから、過去を吸い上げることもできません。
 できることは今現在のこの世に足跡を残し、引き継ぐすることです。私には子供がいますから間違いなく遺伝子は引き継がれました。その後はわかりませんがそれは間違いのない、生の引継ぎです。
 最近私は「魂の行くえ」について語っています。魂とは実体のあるものでは間違いなく人の心に引き継ぎられます。人とは自分以外の人たちにという意味です。
 私はギリシャ哲学が好きで訳本ですがその著書を読みます。間違いなく私の脳裏には哲人が活き活きと語ってくれます。
 死人に口なしどころではありません。
 お釈迦様も、イエスキリストも活き活きと語っているではありませんか。
 死して名を遺す。
 アンベードカルの言葉も今に残りますし、その著書を読めば逢うこともできます。
 「応えてくれない」と直ぐに考えてしまいますが、「答えてくれない」で考えるからです。
 語りに応えるのは自分である、ということです。これがわかる人は必然的に悪人にはなれない。そう「答え」で考える人はそのように考えますが、「応え」でわかる人は善悪を考えないあるがままの自分であり得る人です。
 そこには自ずと転生の意味が見えてくるかと思います。
 「悟り」などはない。
 「悟り」とはこういうものだ。
は答えです。
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Re: (horrow)
2011-11-24 14:04:27
ご回答ありがとうございます!
僕のブログが英語なのは、英語学習のためです。なんかまどっこしくてすみません   (--;) 
「転生を信じる者は、意識の引き継ぎ、もしくは生まれるときに記憶は消されたという自分の意味付け、や他人の言葉に左右されます。あなたにも私にも明らかな事実は、意識は引き継がれていないという事実です。前世の記憶は引き継がれていない。そして過ぎ去った過去には手が届かないのですから、過去を吸い上げることもできません。できることは今現在のこの世に足跡を残し、引き継ぐすることです。私には子供がいますから間違いなく遺伝子は引き継がれました。その後はわかりませんがそれは間違いのない、生の引継ぎです。」この説明がしっくりと来ました。

色々な教えがこの世の中には存在しますよね。そのなかで、批判にさらされることもしばしばですが、アンベードカルさんの教えというのは実に論理的です。彼が執筆して山際素男さんが翻訳した「ブッダとそのダンマ」、読みましたよ。自身が多神教のカースト差別に苦しんだだけに、仏伝の神話的な要素が極力抑えられています。オウム真理教のように今なお人々を苦しめる思想もあれば、アンベードカルさんのように人間の尊厳を守ることに人生を捧げる人もいます。皆、最初は解脱(あるいは苦しみからの解放)のために頑張っていたはずなのに(そうだと僕は信じたいのですが)、なんだか不思議です。

仏教の説く「解脱」の意味をもっと明確に示す必要があると思います。そうしたら、「最終解脱者」という甘い宣伝文句に誘われる若者も減るのではないでしょうか?宗教家だけでなく、僕のような一般人もこのことを考えていくべきだと思います。僭越ながら・・・。




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コメントありがとうございます。 (管理人)
2011-11-24 23:04:19
 解脱だとか、悟りとか言いますが、一体全体それは何?
 あるとするならば、想定範囲です。
 ないとするならば、ない。
 みなさんあるとして考えるから想定範囲に騙されます。
 超越的なことではなく、ごく当たり前の毎日があり、その中で強い意志で前向きに歩く自分を見つけるだけで十分な気がします。
 しかし十分といっても充分であって満たされるまで充足の努力は自ずと湧いてきます。それは欲望などの情念とみるか「自(おの)ずからとみるか」で大きな違いがあります。
 アンテナをしっかり立ててよい先生に巡り合うこと。よい先生に出会うには多くの認知目録を作っておくことです。
 いろんな本を読んでみることです。
 そして穏やかにみんながよい話だという話を聞くことだと思います。
 今後もよろしくお願いします。
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