ニーチェに再燃というわけでもないのですが、世間に影響され易き身の上、留め置かまし初老魂で一筆啓上したくなるわけです。
ある仏教系サイトに「1881年、ロンドンにパーリ聖典協会が設立されて」という言葉を見て私がすぐに思い出す哲学者がフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日)な訳なのです。
以前「ブッダVSニーチェ」に言及したことがありますが、ニーチェの思想に「ブッダのことば」(原始仏教典)が大きな影響を与えていることは言及するまでもないことですが、植民地時代にインドを中心としたアジアからもたらされた仏教経典が何であったかは「ロンドンにパーリ聖典協会が設立」でも明らかです。
多くの思想家はこれに飛びつくわけですが、なかでもニーチェは刺激を受けたわけです。
「シシュポスの神話」訳文から学ぶ[2012年12月27日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c6eb99b122d2f70b44881affa17a4c95
ブログ内で私は、
<その賢者は知恵の理解し、智慧で理解していないと、私は思うのです。古くから小国で尊い教えがあるとします。その小国はいまだにオメラスの都のようです。小説オメラスの都とは異なり、その支配の構図が功利論的倫理学上からの視点で見ると逆転しています。
格差社会ではありますが日本の国に生きる者として見ると、少数の富める者が多数の日当100円にも満たない労働に従事する人々を支配して国際援助に頼るのを恒なる状態している。そんな国があるとしたら、その「尊い教え」は意味をなさないのでは、と思うのが普通です。
しかしこの国ではその教えが、国民が救われる絶対的な教えなのです。与えられた運命・宿命に従順であることが美徳であるのですから。
苦しい貧しいは心の作用、そのような分別をもってはならない。欲張らず、怒らず生けるものの幸せを思いましょう。
これは決して誤りではありません。受ける側の素養が如何に必要かということです。違いの分かる唯一の自由意志を働かせるべきです。その自由を奪ってはならないということです。>
ということを書きました。従順なる民、尊い教え、ニーチェの第二の弱さと結びついたニヒリズムこと「仏教」を教えとその植民地の民を表わしているわけです。
したがって従順なる民は、末人その者なわけです。ルサンチマンにさえなれないのです。ニーチェは原始仏教典から何を感じたのか。仏教徒はニーチェに言わせれば「受動的ニヒリズム」「疲労したニヒリズム」だったわけです。
ニーチェは仏教を愚弄しているわけではありません。仏教好きな人はご存知かと思いますがニーチェは西洋における最も仏教徒らしい仏教徒と自認していたのですから。
ニーチェの『権力への意志』から次の言葉を紹介します。超訳でも私の意訳でもなく、そこには翻訳者の素養だけが頼りの訳文です。
290 極端な立場が解消されるのは、ほどよい立場によってではなく、これまた極端な、しかし逆の立場によってである。かくして、神に、また本質的に道徳的な秩序によせる信仰がもはや維持されるべくもないときには、自然の絶対的な無道徳性に、無目的性や無意味性によせる信仰こそ、心理学的・必然的な欲情である。
ニヒリズムは現今あらわれている、というのは、生存の不快が以前にもまして増大したからではなく、禍悪のうちに、いや、生存のうちにある「意味」が、総じて信頼されえなくなったからである。一つの解釈が徹底的に没落した。しかしそれは解釈そのものとみなされていたので、あたかも生存のうちにはいかなる意味もまったくないかのごとく、あたかもすべてのものが徒労であるかのごとく、思われるのである。
この「徒労!」が現代のニヒリズムの性格であるということが、立証されのこされている。私たちの以前の価値評価にたいする不信は、こう問うまでに高まっている、「すべての<価値>は、喜劇をながびかせるための、しかしけっして大団円に近づくことのない好餌ではなかろうか?」と。
「徒労」をともなった、目標や目的のない持続は、思索力をこのうえなく半身不随にする。とりわけ、愚弄されていながらも、愚弄されないようにするカがないことがわかっているときには、なおさらのことである。
私たちはこの思想をその最も怖るべき形式で考えてみよう。すなわち、意味や目標はないが、しかし無のうちへの終局をももたずに不可避的に回帰しつつあるところの、あるがままの生存、すなわち「永遠回帰」。
これがニヒリズムの極限的形式である、すなわち、無(「無意味なもの」)が永遠に!
<以上『ニヒリズムの克服 ニーチェ箴言集Ⅰ』初版1967・原佑訳・人文書院p167~p168>
「無」をニーチェは「無意味なもの」としています。原さんがそう解釈するしかなかったということでもありますが、私自身もそれがもっともなはなしであると思います。
ニーチェはどのように植民地の仏教典を知り得たかですが、研究家ではないのでここでも本を参考にします。
ニーチェは『スッタ・ニパータ』を、あるインド人の英訳によって読みました(1875年12月13日の日付けのある、カール・ゲルスドルフ宛のニーチェの手紙)が、それの語句10-13には、「この一切は虚偽である」というリフレーンが見い出されます。「一切は虚偽である!」あるいは「一切は空しい!」という文句によって表現されるニヒリズムを超えて進み、彼はニヒリズムを克服しょうとしました。そのために、ニーチェはニヒリズムである仏教を、ヨーロッパ仏教を必要としました。<以上『ブッダVSニーチェ』初版2001・湯田豊著・大東出版p241から>
以前英文学者で伊那谷の老子加島祥造さんは語られていた、外国人の英語翻訳者が「無」を次の四つの言葉を使用していることを紹介しました。
(1)the center hole(中心の穴)
(2)emptiness(空)
(3)the inner space(内なるスペース)
(4)non-being(非在)
そう語りさらに加島さんは次のように述べています。
<『伊那谷の老子』註釈から>
このように、自由な態度で「無」をはっきりさせようとする。もちろん定石どうり、「無」を”nothungness”としているものもある。しかしそれよりも、各自勝手な翻訳の方が目立つ。
たとええばnon-being,non-existance(非在)、the space where there is nothing(何もないスペース)、what is non(ないもの)、the empty innermost(空なる内奥)、などであり、まだある。
別に学問として言うわけではないからこれ位にするが、これだけでも彼らがいかに「無」を噛みくだこうとしているか察せられよう。
「無を噛む」という比喩は矛盾した表現で滑稽だが、しかしこういう英訳者たちの努力はかえって、私たちのように「無」を鵜呑みにしてきた者にとって、ひとつのスリルなのだった。私は「無」に対して東洋的な漠としたなにかを感じつつ、あとは西洋思考にかかわってきた。そういう私にとって、英訳者たちのこうした訳し方は新鮮な場面をきりひらくものと感じられた。筋が通っていて、見通しがきいた。
たとえば彼らの多くは「無」を、エナジーに満ちた空間だととらえている。彼らの合理性思考からすれば、「無」はうつろな空間だが、「タオ」のサイドからすれば、その「何もなさ」こそすべてを生むもとであり、むしろエナジーそのものを指している。
<以上p147~p148>
これは中国の古典『老子』についての話で、原始仏教における「無」なり「空」の話ではありません。
なぜニーチェは「無」を「無意味なもの」と感じたのでしょうか。見たのでしょうか。
「nothing」(何もない)
インド文化圏における「ゼロ」の誕生が大きな影響があると私は思います。アラビアとの交易における商取引のバランスシート上の「ゼロ」、それがその根源です。
これが原始仏教典の中に織り込まれているのは確かでありますし、しかしインドの東方の学びの学徒は、そういう「ゼロ」以外の「nothing」の概念を持っていたということです。
大乗仏教典に何が語られているのかを知ろうとするとき、また原始仏教典を知ろうとするとき、あるのは現前の現象しかありません。そこからの意味理解はすべて自分にかかってきます。正しいとか正しくないとかで語ろうとする老師がいるとするならば・・・・言わないでもそこにいる人々は「立派な人」と崇めることになるのです。
私の知る老師は唯一本指を立てるだけです。そうです爪の先の垢を見ろというわけです。
「1881年、ロンドンにパーリ聖典協会が設立されて」
この言葉に刺激され書いてしまいました。
断っておきますが私は原始仏教典が人一倍好きです。それを現在日本列島に生きる自分ものとする努力をしている発展・編成替え途上人です。