功利論的倫理学上の道徳的な問題点・オメラスから歩み去る人々(1)[2012年12月17日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a7ac5aa81426402b9c7185b14429dee4
というブログの中でギリシャ神話に登場する「シシュポスの神話」のことについて書きました。そこではアーシュラ・K・ル=グィンの短編小説「オメラスから歩み去る人々」の中で語られている10歳に満たない男女とも区別がつかない独りの精薄児(小説ではそう記載されている)が監禁されている暗黒の牢獄がシシュポスの神話のまさにその舞台地獄のタルタロスに相当するのではないかと書きました。
このシシュポスという主人公は本によっては「シーシュポス」「シシュフォス」とも書かれている場合があります。人の名は発音の仕方や聞く側の印象で、日本語の場合カタカナ表記されるときには微妙に異なる書き方になっています。
したがってこの神話が登場する時にはこの主人公の名の書き方によって参考しているギリシャ神話の訳本がわかりまた、書いた方がこの人物をどのような経過で知ったかがわかります。
わかると言っても、個人的にどうしてこんなに呼び方に違いがあるのかと疑問に思っただけのことで、どうでもよい話です。
「偶然と必然」について思考探索していると絶対に避けて通れない一冊の本があります。生物学者J・モノーの『偶然と必然』(初版1972・みすず書房)の生物学者のモノーは、生物学における進化論も含めた科学的な考察の中に「偶然と必然」を語り、諸学問の中で生物学の視点から見る「偶然と必然」の思考志向が一番すぐれている、すなわち人間の運命も含めた人間学とでも呼称してよいかわかりませんが、それを語るには最も優れていると語っています。
不思議な存在としての生物、造形物としての人工物かそれとも自然物かの違いの判断基準として、二点を上げます。
「規則性」と「繰返し」
です。したがって自然物はランダムな構造形態ですが、人工物にはこの二点があるというわけです。(フラクタル図形はどうなるかは
『偶然と必然』に書かれている話ではないのですが、ユークリッド幾何学の世界の直線や曲線、これを念頭に月面を見ます。今話題中の火星の表面でもいいのですが、そこにもしもこの「規則性」と「繰返し」の基準が認められるもの、そのように見えるものが存在していたら人はどう思うでしょうか。宇宙人が作ったものに相違ないと思ってしまうのです。規則正しい曲線も、平行線も当然にそう思っていまいます。
こんな話をするつもりはなかったのですが、話を戻します。このJ・モノーの『偶然と必然』という著書のひらきの1ページ目には、デモクリトスの「宇宙のなかに存在するものはすべて、偶然と必然との果実である。」という言葉とともに上記のギリシャ神話のシシュポスの神話の言及文書が掲載されています。
正確には「シシュフォスの神話」であって、あの実存主義者(本人は否定)のフランスの小説家アルベール・カミュの『シシュフォスの神話』の最後の部分が書かれています。
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人間が自らの人生をふり返ってみるあの精妙な瞬間、シシュフォスは自分の岩のほうへ戻りながら、いまや彼の宿命となった、この脈絡のない行動のひとつひとつを思い起こす。
しかもその宿命は、彼自身によってつくられ、記憶によって注意深く結ばれ、彼の死とともに封印される。このように、彼はあらゆる人間的なものの起源が人間的たらざるをえないことを確信し、夜は果てしないことを知りながらも見ることを望む盲人のように、つねに前進をつづける。ふたたび、岩は転がりおちる。
私はシシュフォスを山の麓に残しておこう! 重荷は、かならずやまた、現われるであろう。だがシシュフォスは、神を否定し、岩をもち上げることを飽くまで忠実につづけるように教える。彼はまた、すべてよしと判断する。これからは主人のいないこの宇宙も彼には不毛なものとも、空虚なものとも思われない。この石の小粒なひとつひとつが、夜の帳りの閉じこめたこの山の鉱石の燦(かがや)きのひとつひとつが、彼だけのためにひとつのせ界を形づくっている。山頂をめざす戦いだけで、人間の心を満たすには十分である。われわれは、シシュフォスが幸福であると想像しなくではならない。
アルベール・カミュ・・・・・『シシュフォスの神話』
カミュは本当にこう言っているのか、確認したくなるのが普通で、訳本ですが新潮文庫『シーシュポスの神話』(初版1969・清水徹訳)のp210~p217に書かれている短文に上記の部分がありました。翻訳者が異なるのですから当然なので、対比のために紹介します。
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人間が自分の生へと振向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、かれ自身の運命となるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変るのを凝視しているのだ。こうして、人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終りがないことを知っているこの男、かれはつねに歩みつづける。岩はまたもころがってゆく。
ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう! ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。空を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。<以上>
フランス語の原文は解りません。同じ個所が別の日本語に訳されています。
宿命=運命
空虚=不毛
が特に私の場合は印象的です。
宿命と運命は異なるものか。空虚は不毛のことなのか。
そのよう問いが出てきます。そして翻訳する側の持つ人生観とも関わるこの二語、訳す側から見れば日本語でフランス語の表現をどう意味理解し当てはめるか。
原文で読めない素人であれば当然訳本を読みます。私などは典型的な例かもしれません。ですから文全体から各文字の意味の関係性のなかから作者の思いをくみ取るしかありません。
したがって「カミュは宿命というがそれは運命ではないか」ということになると、日本語のこの二語にニュアンスの違いを感じる人は指摘したくなるかもしれません。
訳文には訳者の素養がつきまとう、それをしっかりわきまえて自分の理解としなければなりません。
訳文を読んで、「論理的に誤り」と指摘する自称賢者がいたとします。
その賢者は知恵の理解し、智慧で理解していないと、私は思うのです。古くから小国で尊い教えがあるとします。その小国はいまだにオメラスの都のようです。小説オメラスの都とは異なり、その支配の構図が功利論的倫理学上からの視点で見ると逆転しています。
格差社会ではありますが日本の国に生きる者として見ると、少数の富める者が多数の日当100円にも満たない労働に従事する人々を支配して国際援助に頼るのを恒なる状態している。そんな国があるとしたら、その「尊い教え」は意味をなさないのでは、と思うのが普通です。
しかしこの国ではその教えが、国民が救われる絶対的な教えなのです。与えられた運命・宿命に従順であることが美徳であるのですから。
苦しい貧しいは心の作用、そのような分別をもってはならない。欲張らず、怒らず生けるものの幸せを思いましょう。
これは決して誤りではありません。受ける側の素養が如何に必要かということです。違いの分かる唯一の自由意志を働かせるべきです。その自由を奪ってはならないということです。
私有意思を尊重しすぎると日本のような状態にはなりますが、選挙をして1日で形勢が逆転し、株価も変われば、円安にもなる。
ブログにも紹介した、野内良三先生の必然性は、法則性、繰返し、恒常性でした。
この三基準をそれぞれ自分で思考してみると、恒常性に無常観も見えてくることを書きました。上記のオメラス、小国にあくまでも仮想で物語です。
ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』が話題を呼んでいます。ジャン・ヴァルジャンのように過去の犯罪に端を発した身の上の責任は追跡者によっていつまでも付きまとう。あおの「ああ無情」です。
オメラス、小国にあくまでも仮想ですが無情観が漂います。しょうが無いではなく、情がないように思えるということです。
カミュのシー主ポスの神話について、2つの訳文を紹介されていますが、最初の方は誰の訳なのでしょうか?2つを比較すると、意味が結構違ってきます。原文がわからないのですが、ちょっと気になったので、もしよろしければ教えてください。
大変失礼しました。小生文才なく非常に理解しずらい文章を遂行せずに書いています。したがってこういうことにもなるわけですみません。
J・モノーの『偶然と必然』みすず書房の最初のページに書かれています。
J・モノーの『偶然と必然』みすず書房の最初のページに、シーシュポスの神話の訳文が紹介されているのですね。ちょっと図書館ででも確かめてみたいと思います。
貴殿のブログにコメントさせていただきました。
モノーは、私のブログに掲載した範囲での引用でそれ以上はありません。
必然という問題に対してこのシーシュポスの神話が気になっていたのだと思います。
この神話ギリシャ神話の訳本を数多く見てみましたがそれぞれに微妙に異なっています。
シーシュポスも最後はこの無限地獄から救い出されるまで言及するものもあれば、永遠回帰で終わるものもありました。
新潮文庫版の訳文しかなさげだったので、
もっと他にも確認したいところです。
自分自身で原文に当たってみるのが一番でしょうが、
フランス語を習ったことがないもので。
ドイツ語、フランス語、ギリシャ語を習いたいのですが今からでは遅く辞書を頼りにやってます。
カミュの「シーシュポスの神話」ですが私も他の訳を見つけたいと思います。コメントありがとうございます。
カミューは好きです。哲学者というより詩人ですね彼は。