思考の部屋

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カントの『『純粋理性批判』における現実存在について

2015年05月16日 | 哲学

 専門家でない私が哲学を勉強するとき、西洋哲学者の書籍は翻訳本を読むしかありません。勉励苦学し言語をマスターすればよいのでしょうが、そうもいかないのが人間の弱さ、私の弱さです。

 ということで訳本を頼ることになります。最近カントの哲学に言及するとき訳者の思いの訳の現れを思うことがありました。

 カントの『純性理性批判』と書物があります、手元に中山元訳の光文社古典新約文庫版と篠田英雄訳の岩波文庫版の二冊があります。中山訳の第6巻と篠田訳の中巻を開きます。 
 共に神の存在証明を語る部分です。

 中山訳は、

 第四節 神の現実存在についての存在論的な証明が不可能であることについて

 これまで述べてきたことから、絶対に必然的な存在者という概念が、純粋な理性の概念、すなわちたんなる理念であることは明らかである。この概念の客観的な実在性は、理性がそれを必要するということだけではとうてい証明されていない。・・・・略・・・・これについて奇妙で不合理な状況がみられる。すなわち与えられた現実存在一般から、ある絶対に必然的な現実存在を推論することは、現実に求められていることであり、正しいことのように思えるものの、知性がこのような必然性の概念を作りだすためのいかなる条件も、わたしたちには与えられていないのである。

 篠田訳は、

 第四節 神の存在論的証明の不可能性について

 上述したところから次のことが明らかになる、それは===絶対に必然的な存在者という概念は、純粋な理性概念即ち単なる理念である。この理念の客観的実在性は、理性が理念を必要とするということだけではとうてい証明され得ない、・・・・略・・・・ところでここに奇妙な矛盾がある、それは===与えられた現実的存在一般から何が或る絶対に必然的な現実存在を推論することは、どうしても必要でありまた正当でもあると思われているにも拘わらず。理性のあらゆる条件は、かかる〔無条件的〕必然性の概念を構成することを我々に頭から拒否している、ということである。

一部を取り出して語るの素人の軽薄さなのですが、まぁあえて感じるからそう書き残すのですが。両訳には「現実存在」という共通日本語訳を使う部分があります。

「現実存在を推論することは」

という部分です。個人的な理解としては、

・「本質存在(~である)」(esse essentiae)

・「現実存在(~がある)」(esse existentiae)

です。基になるのは今年の三月の半ばごろに引用した私は故木田元編『哲学キーワード事典』です。再度引用掲出しますが、その中で「実存」を次のように解説されています。

実存〔独〕Existenz 〔英・仏〕existence
 本来は中世スコラ哲学の用語であり、本質存在(essentia)対立概念だが、19世紀のデンマークの思想家キルケゴールが人間に特有な存在様式を表現する言葉として用いてからは、実存主義の中心概念となった。

① 本質存在と現実存在
 スコラ哲学、とりわけトマス・アクィナスは「存在」の二つの意味を区別する。事物の普遍的な性質をしめす「本質存在(~である)」(esse essentiae)と、その事物が現に存在することをしめす「現実存在(~がある)」(esse existentiae)がそれである。そのさい本質存在が優位を占める。ペガサスのような架空の存在は、本質存在だけしか持たないし、すべての被造物は偶然的存在でしかなく、みずからの現存在をいつでも失う可能性があるからである。
 
②略

③ キルケゴールの「実存」
 シェリングの思想に感銘を受けたキルケゴールは、この現実存在優位の思想を人間存在の考察に適用した。彼は背骨が曲がるというハンディを背負って生れてきた。この現実は理性の力をもってしてもどうすることもできない。こうしてキルケゴールは、人間それぞれがいやおうなく背負わされてしまっているおのれ自身の存在を Eeistenz と呼び(このばあい「現実存在とは区別して「実存」と訳す)、この実存からすべての思索を開始することを提案する。
 キルケゴールは「主体性が真理である」と主張し、具体的、個人的な自己が自由な選択と決断によって、いかに自己をつくりだしていくかという主体的実存を強調した。彼はすべての人に妥当する普遍的真理ではなく、「この私」にとって真理であるような主体的真理を求め、その実現過程を実存の三段階(美的、倫理的、宗教的段階)において展開した。彼によれば、最終的に実現されるべき実存とは宗教的実存であり、人は理性を越えた神の存在を信じ、神のもとへとみずから飛躍することによって神の自己となることができる。
 
④ 20世紀の実存以下略

となっています。

カントの『純粋理性批判』の

第四節 神の現実存在についての存在論的な証明が不可能であることについて

第四節 神の存在論的証明の不可能性について

は訳者の何が現われてそのように表現としての訳がなされているのか。

 「神がある」ということについての存在証明

 「神の」あるということについての存在証明

個人的に何を言いたいのか。結論的にはカントの『純粋理性批判』を理解していないのですが、あえて言うのですが

 本質存在(~である)

は語られ得ない・・・そこ二元性の現れが出ているのではないかと思うわけです。

 ある意味日本語の使い方は個人の理解を深める要素にもなる。西洋の言葉を訳すとは半端じゃないことだとあらためて思うわけです。

 「神」を語る者は何を信じ、何を思い、何を体感しているのか。

 存在を語るということは、実に自己自身を語る「もの」であり「こと」になるわけです。


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