
昨日のブログでは番組内で語られた大まかな話を綱目的に書きましたが、今回の3時間に及ぶ若い人たちとの対談の中で今回はなされた新しい文明哲学を後世へ引き継ぐ話が最後にありました。
それは大震災で亡くなった多くの人たちとの対面の中で何か大きな後世への引継ぎ事項があるのではないかとの疑問、それは戦中派の梅原先生の体験とも重なり、生き残った者としての責任である旨の話がありました。
【小林勝平さん(23歳)】
(東日本大震災から)自分はこの一年間振り返ってみると大震災における多くの犠牲者に対して私たち日本人はこの一年間すごく急ぎ過ぎて「何かしなければいけない」ということについて焦っていたように感じています。私たちは震災での死者に対してどのように対面していけばよいのか梅原先生にお聞きしたいのですが。
【梅原猛】
私の生まれは仙台で母の里は石巻の渡波(わたのは)というところなのですが、非常に被害が大きかったところで人ごととは思えません。それは目も当てられません。私はあれを見た時に戦争中のことを思い出した。
私は戦争中直接戦わなかったけれど名古屋の大空襲に遭った。最初に名古屋に空襲があった時に三菱重工業というところに勤労奉仕をしていた。そしたら最初の空襲でB29が来た。命中率が非常によく100%工場の中に(爆弾を)落とす。
人波きて見上げると死骸が鉄骨の所に引っかかっているんです。本当にもう死ぬと思っていた。私はその時に少しサボって友達の所でおしゃべりをしていた。それで友人の入る防空壕へ入った。
僕が入るべき防空壕に直撃弾がぶつかり、(そこに入った)人がみんな死んだ。防空壕に座ったまま青白くなってみんな死んでいた。それが頭のイメージとしてどこかにあるんです。私は死というものをまともに見た。そこから私の精神が始まった。
だからあまり戦争のことを語らなかったが、僕らの世代は生き残ったのが一種の罪悪じゃないかと・・・どこかに勇敢に戦った人が死んで自分たちは勇敢に戦えず生き残ったと、そういう気持ちがずっとある。
そして広島と長崎に原爆が落ちて戦争が終わったと・・・。そういう広島長崎の死んだ人に対する後ろめたさみたいなものが私のなかにずっと今残っている。これは戦争中の世代と私よりも上の世代ではないと分からない考え方ですよね。
どこかに後の人のために伝えてもらいたいと思うなあ。今度のときに思い出したのはその風景・・・空襲があって死骸がうずたかく積もっていた・・・丸焼けになった死骸がうずたかく積もっているんです。それと同じようなイメージだった。
私はどうしたらいいか。ほんとうに悲惨で目も当てられないけれど、私は自分ながらのことをしたらどうだと・・・やっぱり今の文明はどこか間違っている。
私は新しい哲学をつくるという・・・逆に勇気をもらった。それが鎮魂だというふうに思っている。
今日若い人が、東さんのような若い人が来てくれているんだがね。思想というのは「一粒の麦死なずば」という・・・一粒の麦なんです。
それをやっぱり後の人はその麦を育ててやる。その麦はずっと後の世にも残ってくれる麦であるかどうか、それは疑問ですよね。
私はやっぱりその残っていく麦はそれなりの磁力を持っている・・・それがやっぱり一粒の麦を撒いて、それから人の思想は育っていく私は今思っているのです。
私の撒いた一粒の麦がやっぱり若い人に受け継がれて、それが形を変えてもいいから育ってほしいと痛感します。どうもありがとう。
そして対談を終えた若い人たちの感想が述べられます。
“震災以降個人的にも死に対して考えることが多くなったので梅原さんの言葉を重く受け止めました。死者から見られているという意識をもって私たちも生きて行くというか・・・いろいろな人が死んだ・・・過去の延長線上に私たちがいて、ということですね。”
“梅原さんの語り口が力強くて、お歳にもかかわらず一つ一つの言葉を力強く私たちに語ってくださた姿が印象的でした。力強さ、バイタリティーのようなものを感じられたので今後活かしていけたらと思っています。”
最後に、
【東浩紀】
僕たちがいまいる土地そして今ぼくたちは日本語を話していますが、言葉というものが1000前、1500年前から長くつながって来ていて、そしてこれから先に受け継いでいく資産であって、そのような文化文化の中に僕たちは居るんだという実感をさせられました。
全体の話を伺っていてヒントになる言葉がいっぱいあり、それを受け取って僕がこれから梅原さんが撒かれた一粒の麦を育てることで、日本社会のこれからを僕たち自身が考えて行かなければならないという思いをすごく深くしました。
と語っていました。
梅原さんは脳死臨調の委員でもあって臓器移植に賛成するも唯一脳死を死と認めない立場に立つ意見を堅持した方です。上記の通り死というものに対して特別な想いがあるのです。
早くに両親との別れがありそんなことも重なっているのかも知れません。これまでに書かれた著書の中に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の話があります。
参考に紹介します。
<怨霊を信じる心が、日本人の心の美しさを支えていた>
何度か紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治の半ばに来日して赴いたのは、島根県の松江でした。ここで日本の人々に触れたハーンは、日本は素晴らしい国だと感動します。「日本人のなかには、持って生まれた宗教心や道徳心がある」というのです。
彼は父親がアイルランド人で、母親がギリシア人です。彼自身は一神教であるイギリスで育ちましたが、ギリシア人という多神教信者の血が流れています。そしてアイルランドも多神教のケルトの宗教の名残があります。その彼が多神教の日本へきて、「まさに、ここにギリシアがある」と喜んだのです。
日本は天皇崇拝を唯一の宗教とすることによって多神教を失うことになりますが、彼はまだ多神教の失われていない日本を見たのです。
彼がとくに感動したのは、海を渡って隠岐島へ行ったときです。ここでは、どの家にもカギがかかっていません。イギリスでは考えられない話ですから、「この国には犯罪一つない。素晴らしい心の国なのだ」というわけです。
その後、ハーンは、熊本で暮らしたあと、東京へ移ります。そこで彼が感じたのは、都会へ行くほど、よい日本人がいなくなるということです。近代化によって、日本人の心の美しさが失われてきていることを感じたのです。 そして彼は、日本人の心の美しさを支えていたのは、死者の霊を信じる心ではないかと考えるようになります。死者の霊が生きている者にしょっちゅう語りかけてくる、そんな民間信仰が、日本人の心の美しさを支えているというのです。
ただ彼は、東京では東京帝国大学の英文字の教授でしたから、明治政府としては困るのです。せっかく高い給料を出して西洋人を雇ったのに、近代化を否定されたのでは意味がないというわけです。それで明治政府とうまくいかなくなって、最終的に大学を辞めることになります。
当時の日本人は、ほとんど近代化万能主義で、日露戦争に勝って喜んでいました。そこへ西洋からきたハーンが、近代化に対する懐疑を投げかけたのは、じつに皮肉な話です。
私自身、ハーンと同様、そうした諸々の霊への信仰のなかで、日本人の道徳というものは養われていたと思います。その信仰を失ってしまった日本人は、いったいどこへ行くのでしょうか。このことを考えるとき、私がいつも思い出すのは、先に紹介したドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です。
現代というのは、宗教を失った無神論の時代である。無神論の時代には、道徳が成立しない。だから殺人も許される。親殺しも許される。そんなカラマーゾフ家の次男イワンの思想の行く末をドストエフスキーは描きました。ただし、『カラマーゾフの兄弟』は未完に終わっています。ドストエフスキーは、「神もあります、不死もあります」と考える三男アリョーシヤの思想を中心に小説を完結させたいと思っていたようですが、ついに書かれなかった。
私は、そのことが現代の思想的状況を象徴していると思います。いま、近代主義の欠陥はあらわになり、その恐るべき帰結がかなりはっきり見えてきたのに、まだ救いの方向は明らかになっていない。むしろ、宗教も道徳も失ったイワンの世界の暗い行く末に時代がどんどん近づいている。いまの日本は、まさにそうです。
<『新しい哲学を語る』(梅原猛・稲盛和夫対談集PHP)p133~p136から>
稲森和夫さんとの対談の中で話されていることです。今から10年ほど前の話になりますが日本人の宗教観の変化を見ることができます。
私は、今回の大震災の発生の中で「魂の行くえ」に関心を持ちました。それは現代人の無神論にもつながり、また死者との関係性の希薄です。
そこで今朝は時々紹介する群馬県上野村に住む哲学者内山節先生の最近書かれた『ローカリズム原論』(農文協)から「死者との関係性の希薄」に係わるとて参考になる話を紹介したいと思います。
<「建物だけではなく集落の営みすべてを残す」から>
現在の中之条町に旧六合村(くにむら)というところがあり、そこに赤岩という集落があります。かつて、群馬県は養蚕が盛んでした。生糸は明治の主要な輸出品だったために景気がよく、豊かでしたから、明治十年に赤岩が大火に遭ったとき、どこの家もいっせいに建て直し、立派な養蚕農家を造りました。いまでは文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区」として指定されています。
おもしろいのは、その集落では「すべての決定は集落の寄り合いで決める」という昔ながらのルールをかたくなに守っていることです。寄り合いの決定というのは、日本では伝統的に全会一致です。村は永久に住んでいくところですから、多数決だと禍根が残る。禍根を残さないためには全会一致になるわけで、だから時間がすどくかかるのです。ですから、たとえばいま、勉強会で赤岩に見学に行こうかと企画し集落の人に案内を求めたら、受け入れるかをめぐって集落の人たちが議論をするので、決定までに少し時間がかかることになります。ただ、勝手に行くのは簡単ですが・・・・・。
国が指定する重要伝統的建造物群保存地区というのは建物だけの指定です。日本では一〇〇ヵ所ぐらい指定されていますが、私がみるかぎりほとんど失敗しています。建物の指定だけだとその建物に人が住まなくなるのです。土産物屋や民宿にはなっているのですが、それを使った人の営みがなくなる。すると、そのなかでよい建造物だけが残って、あとは廃れて新手の観光地のようなものになっていく、ということが起こります。赤岩はかなり遅れて指定されたため、このあたりのこともよくわかっていて、土産物屋も、茶店も、民宿もつくってこなかった。今度、できることはできるのですが、土産物屋も茶店も集落経営にし、民宿は個人で客をとらない。集落で受け付け、客を配分する。すなわち「競争をさせないという原則を貫く」方針を寄り合いで決めています。
文化庁の指定は建物だけですが、県もバックアップし、村が保存条例をつくり、建物以外の指定もしました。まず指定したのは集落を包む自然の領域でした。村は「自然と人間の社会」なのです。保存区域の対象物としては自然、田畑、寺や御堂の性か、人々が生活の営みに必要な作業小屋なども入っていて、村の営みすべてを保存対象とし、文化庁の不備を補ったというかたちをとっています。そのなかには柳田国男がいっていた死後の世界をも含んでいます。
柳田説によれば、日本の土着的な発想は、「死後の魂の行き場は人々が生まれて生きて死を迎えた場所だ」というものです。死ぬと家の縁側からみえるくらいの範囲の山に魂は帰る。そしてその山の森で過ごし、森のなかで魂を浄めていく。赤岩集落の場合も、自然空間の保全は、同時に死者たちの世界の保全、神仏世界の保全であり、ここにも昔から伝えられてきた、自然と人間を一体的にとらえる発想があるのです。・・・・・以下略
<以上上記書P28~p29から>
これは今現在の群馬県内の風景です。とても参考になる話だと思い掲載しました。
トラッグックさせていただきました。少し私なりに考えたことです、ご参考までにご覧下されましたら有難く思います。
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私はこう見えても、あの世を信じ既に亡くなった母や父、そして昨年亡くなった兄が死の直には迎えに来るのではないかと信じています。
私は養子の身ですが自分の部屋には両親と兄の位牌が置いています。
脳科学的に人間の極限状態におけるサードマン現象が証明されており、無記の世界ですが直前には現れ出でると確信しています。
サードマン現象・守護天使とも呼ばれる不思議な現象(前編) http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/1c96fe859b57f61b54960c8da04ca409
だからいつでも死ねるということではなく、逆にできるだけ自分のしたいことをしたいと思っています。職業人でまた立場もあり公に活動できないのがネックになっていますが、後わっずかで足かせも取れます。
本格的な利他的な生を求めたいと思っています。
梅原先生が実体験から死者について、永劫回帰とともに命の連続性に言及していました。従って犠牲者の死を真剣に見つめる必要があります。また核物質の濃縮そして核分裂・・・あたかも生けるが如くの無機物です。この無機物が何かものを言っているならば、きっと日本人には聞くことができると思うのです。
自然の一部で本来なら人間と共存していたものを濃縮させることで、また核分裂させることで自然の怖さの一つの啓示になってしまいました。制御できるかできないか、今現在何をしているか鎮魂の行為に変わりはなく、自然の怖さは消えることがありません。
必要の要だから、電気が不足するからの論理でことを進めようとする心は誤りではないか。海を川を汚すのは誤りではないか。極端な遺伝子操作は誤りではないか。
「私たちが生きるその目的は何かと改めて考える機会としてこの震災を捉え、本来の生きる目的のためにこの試練があったと思えるようでありたいと思うのである。」
「「私たちが生きるその目的は何か」「本来の生きる目的」この解は既に人類共通の普遍的ものとして示されているのではないか。と思うのです。
しかしこの「普遍」というものは欺瞞性を帯びる時があり難しい言葉です。
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