思考の部屋

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ハーバード白熱教室・Lecture12 道徳性の最高原理・訂正版

2010年05月19日 | 哲学

 今回は、カント哲学を理解するには最適な内容であるとともに、現代の、自殺問題等大きな問題を考えるには最適な授業になると思います。

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Lecture12道徳性の最高原理
 ※文中の「意思」という言葉は、「意志」を使用している関係書もありますが、NHKのテロップ解説は「意思」となっていますので、そのように表記しています。

サンデル教授
今回もカントをとり上げるが、今週で君たちも、基本的にカントを理解し、彼が何をしようとしていたかわかるようになるだろう。笑っているね、でも本当にそうなる。

 カントはその著作『人倫の形而上学の基礎づけ』で二つの大きな問題に取り組んだ。

一つ目は、道徳性の最高原理は何か。
二つ目は、どうすれば自由は可能になるか。

この二点だ。

 さてカントの、密度の濃い哲学書を理解する、一つの方法は、互いに関連している二つの事柄の対比や対象、あるいは二元論を整理しながら読んで行くことだ。今回はそれらについて話したい。

これからカントの提起した、「道徳性の最高原理は何か」という問いに答えて行く。この問いに対するカントの答えにたどり着こうとする中で、カントの設定した三つの対比、あるいは、二元論を覚えておくことは、役に立つだろう。

 一つ目の対比は、私たちの行為の動機、つまり、何に基づいて行動するか、ということに関係している。

 カントは道徳性をもたらす動機はただ一つだけで、それは義務だと言った。その場合、正しいことを正しい理由でしていることになる。

 では他にはどんな動機があるだろうか、カントはそれらを傾向別に分類した。


   カントの3つの対比
道徳性
 1.動機   : 義務 VS. 傾向性
自由
 2.意思の決定:自律的 VS. 他律的
理性
 3.命法   :定言的 VS. 仮言的


 私たちの動機が、自分の欲望や好みを満足させること、あるいは、何らかの利益を追い求めることである場合、私たちは傾向性に従って行動していることになる。

 さてここで、君達の意見を聞きたい。義務や善意の問題について考える上で、カントの主張について、何か質問のある人はいるかな? それともみんな納得しているのだろうか。どうかな? 君。

男子学生 本当に道徳的な行動は、存在するのでしょうか? いつも何にかしら自分勝手な動機があるのではないでしょうか?

サンデル教授 人は多くの場合、自己の利益のために行動するだろう、カントもそれを認めている。しかしカントが言っているのは、私たちが道徳的に行動する場合、つまり私たちの行動に道徳的な価値がある場合、その価値を与えるのは自己の利益や傾向性を超越し義務に基づき行動できる私たちの能力だ、ということだ。

 何年か前、私は単語を正確に綴れるかどうかを競う、スペリングコンテストの記事を読んだ。そこには優勝したアンドリューという13歳の少年のことが書いてあった。

 彼が勝利を決めた単語は「エコラリア」だった。「エコラリア」を知っている人はいるかな?
 
学生 花

サンデル教授 いや、花の種類ではない。それはエコーのように聞いたことを反復する傾向のことだ。

 いずれにしても、実際は、彼は綴りを間違えていた。だが審判が聞き間違えたために、彼は、全国スペリングコンテストの優勝者になってしまった。

 しかし彼は後で審判のところへ行って、「本当は自分はスペルを間違えたから賞に与えしない」と、言ったんだ。彼は道徳的な英雄とみなされ、ニューヨークタイムズ紙にも載った。

スペルを間違えたスペリングコンテストの英雄(笑)
(写真付新聞記事)これがアンドリューと自慢下な母親だ。

 しかし、ここからが重要だ。彼は後でインタビューを受けたとき、自分が真実を告げた動機を、こう説明した。

 審判の人たちは、僕がとても誠実だと言いましたが、僕は自分がいやなやつだと思いたくなかったのです。

 さあ、カントはなんと言うだろう。

バッコ それが綴りを間違えたことを告白しようと決めた決定的な理由だったか、それともほんの一部の理由だったかによると思います。

サンデル教授 面白い意見だ。誰かこれについて他に意見がある人? カントの原則はあまりのも厳格で要求が厳しすぎるのか? カントはこれについて何と言うだろうか。

ジュディス カントは行為に道徳的な価値を与えるのは、義務から生じた純粋な動機だというのではないでしょうか。この場合、彼は、複数の動機をもっていたかもしれません。自分をやなやつと思いたくないという動機の他に、義務から正しいことをするという動機も持っていたかも知れません。

 一つ別の動機を持っていたからというだけで、彼の行為に道徳的価値が欠けていることにはならないと思います。義務が絡む動機は、行為に道徳的価値を与えるものだからです。

サンデル教授 ジュディス、君の説明はカントに忠実だと思う。道徳以外の別の気持ちや感情を持つことが行為を支えるだけで、動機そのものにならないかぎり、それは問題ない。ジュディスはこの動機の問題についてとても的確にカントを弁護してくれた。ありがとう。

さてここで三つの対比の話に戻ろう。ある行為が道徳的価値をもつためには、傾向性からではなく、義務のためにそれを行なわなければならない。

 というカントの意図はよくわかった。しかし前回の講義で触れたように、カントの厳格的な道徳の概念と、特に厳しい自由の理解の間には、つながりがある。そしてそれは二つめの対比、さらには、道徳性と自由のつながりに通じる。

 二つ目の対比は、自律的と他律的という、人の意思を決めることのできる、二つの異なる方向をあらわしている。

 カントは人が自由なのは、自律的に意思を決定するときだけだという。

 つまり自分に与える法則に従うときだけだ。わたちに自律としての自由の能力があるなら、押し付けられる法則ではなく、自ら与える法則に従って行動できるはずだ。

 しかし、私たちが自分自身に与える法則は、どこから来るのだろうか?
 それは理性だ。理性が人の意思を決めるなら、その意思は、自然の支配や傾向性あるいは、状況から独立して判断する力となる。

 だからカントの厳しい道徳性と自由の概念に関係しているのは、特に厳しい理性の概念なのである。では理性はどうやって意思を決めることができるのか、二つの方法があり、これは、三つ目の対比につながる。

 カントは理性は、二種類の命令を出すと言う。そして理性の命令をカントは命法と読んだ。命法とは、しなければならないことだ。

 命法の一つは、おそらく最も親しみがあるもので、仮言命法だ。仮言命法が使うのは、道具的理性だ。

 Xが欲しいなら、Yをしろ。

 これは、目的に対して手段を選ぶ理性だ。
 
店の評判をよくしたいのなら、噂が立つからもしれないから、客のお釣をごまかすな。

 これが仮言命法だ。

 もし行為が、単に別のなにかの
 手段としてのみ善いのであれば、
 命法は仮言的である。

 行為が、それ自体において善いと示され
 それゆえ、それが理性と一致している
 意思のために必要であるなら、
 命法は、定言的だ。

 これが仮言命法と定言命法の違いだ。定言命法は、それ以外の目的に言及したり、依存することなく、定言的に、つまり無条件に命令を出すという意味だ。

 これらの三つの対比の間に、つながりが見えてきただろう。自律的な意味だ自由になるためには、仮言命法から行動するのではなく、定言命法から行動することになる。

 カントはこれら三つの対比を用いて、私たちを彼が考え出した定言命法まで導いた。

 しかしここでひとつ大きな問題が残る。

 定言命法とは何か? 
 道徳の最高原理は何なのか?
 それは私たちに何を命令するのか?

 カントは定言命法について、三つの定式を挙げている。その中の二つについて、君達の意見を聞きたい。
 
 ※注意:番組では定言命法の定式は二つまで解説され三つめは解説されていません。

 一つ目の定式を彼は、「普遍的法則の定式」と呼んだ。

定言命令
1 普遍的法則の定式
「同時に、普遍的法則となることを
意思しうるような格率に従ってのみ行為せよ」

 格率とはどういうことか、それは人がそれに従って行動する原則・原理だ。 例えば約束を守るとか、私には100ドル必要だとする。何としても。でもすぐには返せない。君のところに行って、守れないと判っていながら嘘の約束をする。

 今日100ドル貸してくれないか、来週返すから。

 この約束は、定言命法に合致しているから、カントはNoと言う。そして嘘の約束が定言命法と食い違っていると判断する方法は、それを普遍化してみることだ。
 
 そのこういの格率を普遍化してみるのだ。お金が必要な人が、全員が嘘の約束をしていたら、誰もそれらの約束を信じなくなる。約束というものは機能しなくなり矛盾が生じる。

 普遍化された格率は自らを掘り崩すのだ。このテストによって嘘の約束が、間違えであることが判る。
 普遍的な法則の定式はどうだろうか? 
 説得力があるだろうか?

 意見を聞きたい。君

キム 定言的と仮言的の違いについて、質問があるのですが、もし格率が・・

サンデル教授 定言的と仮言的の違い、命法だね。

キム はい、もし格率が自らを掘り崩すことが無いように、定言命法で行動するとしたら、私はYを欲しいから、Xをします。と言っているようなものです。
 私は世界が約束を守るように機能してほしいから嘘はつきません。ということです。

サンデル教授 約束の慣行を壊したくないから?

キム そうです、それは目的により手段を正当化しているようです。

サンデル教授 帰結主義者の理由付けのようだといいたいんだね。

キム はい。

サンデル教授 J・S・ミルも君と同じ意見だった。彼も同じように、カントを批判した。ミルはもしその格率を普遍化することで、約束を守る慣行がすべて破壊されるのなら、それが嘘の約束をしてはならない理由ならば、私は何らかの帰結に訴えなければならない、と言った。

 ミルは君のカントに対する批判に同意していたんだ。でも彼は間違っていた。(笑) でも君たちはいい同士だ。いい仲間だ。カントは、キムがちょうど彼を解釈したように、帰結に訴えるように解釈されることが多い。

 皆が嘘をついたら誰も他人の言葉を信頼しなくなるから世界は一層悪くなる。 だから嘘をつくべきではない。

 そのように解釈されがちだが、カントは厳密には、そうは言っていない。カントは格率を普遍化するのは、テストだと言っている。それは格率が提言命法にあっているかどうか調べるテストであって、厳密には理由ではない。

 格率をテストするために普遍化しなければならない理由は、自分の特定の要求や欲望を他の皆のものに対し、優先させていないかどうか、見るためだ。

 自分の利益や要求、特別な状況が、他の人のそれよりも重要であるという理由で、自分の行動を正当化するべきではない。

というのが、定言命法の特徴であり、要求である。これが普遍化のテストの背後にある道徳的直感だ。

 では、カントの二つ目の定言命法を説明しよう。多分これは、普遍的法則の定式よりも直感的に取っ付け易いだろう。それは目的としての人間性の定式だ。

定言命法
1.不変的法則の定式
2.目的としての人間性の定式
3.相互配慮の定式(※番組では解説されませんでした。定式の内容は、『道徳的に正しい定言命法は、秩序ある共同体の形成に資するものでなければならない』ということだそうです。サイトハーバード白熱教室ノートを参照しました。)

カントは二つ目の定言命法の定式を次のような、一連の議論で紹介している。

定言命法の根拠は、特定の利益や目的にあってはならない。
なぜなら、そうするとそれが目的の持ち主にだけに関係するものになってしまうからだ。

しかしながら、存在そのものが、
絶対的な価値を持つもの、つまり、
それ自体の中に目的を持つものが
あると仮定すると、そのもののみ
定言命法の根拠が見いだされる。

では、この、目的をそれ自体の中に持っているもの、とは何か。
カントの答はこうだ。

人間、及び一般的に理性的な
存在すべては、目的自体として
存在し、誰かの意思を、恣意的に
使用する為の手段として
存在するのではない。

ここでカントは、人と物と区別している。

 理性的な存在とは人間であり、人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値をもっている。理性的な存在は、尊厳をもっており、彼らは、敬意と尊敬に価する。

 この一連の推論で、カントは定言命法の第二の定式にたどり着く。

君の人格にもほかのすべての人の
人格にもある人間性を
単に手段としてのみではなく
常に、同時に目的として扱うように
行為せよ。

 これが目的としての人間性の定式だ。理性的な存在としての人間は、自分自身の中に目的があり、単に手段として自由に使用することはできない、と言う考え方だ。

 私が君に嘘をつき、君を私の目的、つまり、100ドルを得るという欲望の為の手段として使うとすると、私は君の尊厳を尊重するのを怠り、君を操っていることになる。

 ここで自殺に反対する義務の例を見てみよう
 殺人と自殺は、定言命法に逆らっている。何故か。

 もし私が、誰かを殺害したら、その人の命を何らか目的で奪っていることになる。私が雇われた殺し屋だからにしろ、激怒か激情の為にしろ、私には何らかの利益や特定の目的があって、その人を手段として使うことになる。

 だから殺人は、定言命法に違反している。カントにとって自殺は、道徳的にいって殺人に等しい。例え自分の命であろうと、誰かの命を奪うのは、そのその人を使うことになるからだ。

 私たちは理性的な存在を使い、人間性を手段として使うことで、人間を目的そのものとして尊重することに失敗しているのだ。そしてこの理性の能力や尊敬に値する人間性は、尊厳の根拠であり、そのような人間性と理性の能力は、私たち全員の中に無差別に備わっている。

 自殺は、自分自身の人格にある尊厳を侵害することであり、殺人は誰かの命を奪うことで、その尊厳を侵害することだ。道徳的な観点からは、どちらも同じことなのだ。

 そしてそれらが同じであることは、道徳法則の普遍的な性格に関係している。 私たちが他の人の尊厳を尊重しなければならない理由は、彼らの個人的な、特徴とは関係ない。

 だからカント派の尊敬はそういう意味では、愛とは違う。
 同情とも違う。団結や仲間意識や利己主義とも違う。

 愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的な特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。

 したがって自分自身の人間性を侵害するのは、他人の場合と同じように、好ましくないことなのだ。

質問か反論は。どうぞ。

パトリック カントの誰もが、自分自身のなかに目的があるから、人を手段として使うことはできないという主張が気になります。僕達は毎日その日に何かを成し遂げるために、自分自身や周りの人たちを目的の手段として使わなければなりません。
 
 例えば授業でいい成績を取るためにレポートを書かなければならないとします。僕は自分自身を、レポートを書く手段として使わなければなりません。食べ物を買うには、僕は店員を手段として使わなければなりません。

サンデル教授 そうだね。それは事実だ。パトリック、君は何も間違ったことはしていない。君は他の人を手段として使うことで、定言命法に違反してはいない。

 私たちは自分達のプロジェクトや目的、利益のために他人を使うとき、彼らの尊厳を尊重するやり方で接すれば、何も問題はないのだ。そして彼らを尊重すると言うことの意味は、定言命法によって与えられる。

 納得しただろうか。カントは道徳性の最高原理に抵抗し難い説得力のある説明を与えていると思うだろうか。その質問には次回、答えることにしよう。

終了。 

 


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