思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「実存」と「実在」・事実存在と本質存在について

2012年05月26日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 昨日のブログにこだわりの「実存」「実在」を書いたところコメントを頂きました。

 コメント内容は、

・「実存」という言葉が京都学派の九鬼周造の訳語ではないか。

・ ハイデッガーのExistenzの訳語

・ 実存」とは「事実存在」を略したものという理解が一般的。

・ 事実存在(Existenz)は、本質存在(Essentia)と対になるものです。

というものです。

 数日前のブログ、

「実存」と「実在」・歴史

の中で書きましたが、実存主義について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では次のように解説されています。
 
 実存主義(じつぞんしゅぎ、英語: existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。

 全く素人の私の理解不足で、

・現実存在(existentia)=実存

・本質存在(essentia)=実在

単純にこのような等式で考えればいいものをどうもいけません。目が覚めた思いです。

 “「実存」と「実在」・歴史”の中で京都学派の内山得立先生の著書に書かれた「essentia」の歴史があります。実存という言葉が今的な意味に使われる前の概念です。その際引用文が短かったので、改めて掲出します。


<山内得立著『随眠の哲学』(岩波書店)から>
 
 existentiaという名詞はexistereという動詞から転化したものであって、sistereにexを加えて作られたものである。-----まず自己の中に存在をもたず、他のものに内在することはinsistereと言われるが、他のものから離されて出て来ることはexsistereと名づけられる、それは他のものからsistoしたものであるから。sistoというラテン語は元来、そこに置く、又は据えられる(set up, fix)の謂であり、従って他のものからそこに現われてあることが即ちex-sisto,exstoであった。それ故にエクシステンチアとはそれ自らに於いて存在をもつものではなく、他から引き出されたもの又は他から出て来たものである。
 
従ってこの名詞の中には物の性質に関する考察と物の起源に関する意味とがふくまれている。Alexander de Hales(1245年歿)は言う、「existentiaという名詞は起源の秩序を伴った本質を意味している」。
 
 第二に、existereから由来して、第二次的で非本来的なフランス語のexisterの意味にとられたexistentiaa、例えばゲビロール(Gebirol)の『生命の起源(Fons Vitae)』の中に出会われる意味がある。しかしここでは「それはそれ自身現勢的に実在する(existere)が、偶有性はそれ自身は実在(existentia)とは考えられない。esseは質料の中にある形相の実在である」という言葉にも注意せらるべきである。

ここではゲビロールはまだ率直に起源の意味をこの語に含ませているのである。

 ジルソンによれば、このようなexistentiaやexistereの意味はトマスには未だ現われていないが、彼よりも少し後れて世にあったジル・ド・ローム(Gilles de Rome)はesseとexistentiaとの間に明晰な区別を設けて次のように言っている。

「あらゆる物はそれのessentiaによってensである。しかs被造物の本質は完全な活動であるとは言い得ないで、esseに対して可能態に於いてあると言われるのは何故であるか。そのわけは、本質はこの現勢的なものが実在するに十分でない・・・・・。物は本質又は本性がエッセによって補足せられて実在する。その点からしてそれ自らうけとられた存在(ens)と実在者(existens)とがどのように違うかは明らかとなる。」

こうして存在はその本質にエッセが付け加えられるおかげで実在する(existere)。そこからactu existereということが完成するのである。とにかくesse essentiaeとesse exstentiaとの論争が烈しく起ったのはこの頃のことであり、従ってexistentiaという語が頻りに出没するようになったのは十四世紀以後のことである。

ジルソンは終わりに次の如く語る。「フランス語ではexistenceという語は遅くまで受け容れられなかった。この間の区別を記載シュビオン・デュ・プレー(Supiond du Pleix)のみであるが、フランス語にはラテン語のexistentiaとぴったり一致する語がなかったのである。デカルトはexistenceという語を何の躊躇もなく使っているが(Discours de la Methode,Ⅳ)、それは十七世紀(一六三七年)のことであって、大分後の時代に属する。」

<上記書p40~p41>

とその歴史が語られています。

さてここで昨日の西田幾多郎先生の著書『デカルト哲学について』です。上記の引用の話の中に、

<デカルトはexistenceという語を何の躊躇もなく使っているが>

と書かれています。

 次にコメントにもありましたが「本質存在」という言葉についてです。西田先生は『デカルト哲学について』の論文なかで「本質」という用語次のように使っています。

1 故に自覚においては、存在が本質であり、本質が存在である(essentia=existentia)。

2 私は古来の伝統の如く、哲学は真実在の学と考えるものである。それはオントース・オンの学、オントロギーである。そこに哲学の本質があるのである。

3 自己自身の存在に他の何物も要せない、自己自身によってある真実在は、自己自身を理解するもので、自覚するものでなければならない。スピノザの如くそれ自身によって理解せられるといっても、既に理と事とが二つになる、本質と存在とが対立する。単にそれ自身によって理解せられるものは属性である、実体ではない。無限なる属性の基体としての神は、コンポッシブルの世界の主体、事の世界の主体でなければならない。

4 而しかして神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。一体、デカルト哲学において原因というのは、自己自身によってあり、自己自身によって限定するものとして、スピノザのカウザ・スイという如きものであると思う。本質即存在、存在即本質の根柢という意義でなければならない。それには先ず本質と存在との関係が究明せられねばならない。

5 デカルトは「第五省察」において再び神の存在問題に触れている。そこでは認識論的である。明晰にして判明なるものが真である。神の存在ということは、少くとも数学的真理が確実であると同じ程度において自分に確実である。然るに三角形の三つの角の和が二直角であるということが、三角形の本質から離すことができない如くに、神の存在ということは、神の本質から離すことはできぬ。

6 スピノザの原因というのは、すべてカウザ・スイの意義を有もったものと考うべきであろう。本質が存在を含み、その本質が存在としてのみ理解せられるものをいうのである。絶対現在の自己限定としてあるものは、すべて表現するものが表現せられるものとして、かかる性質を有ったものでなければならない。

<以上>の6か所に使われています。1番目には明らかに「本質が存在である(essentia=existentia)」と「本質存在」という言葉が使われています。

 ドイツ語では「実在=real」すなわちリアル的な意味合いの言葉としています。「本質=exiztez」で哲学にはこの言葉が使われ、一般後の意味は植物のエキスを意味するようです。

話しは込み入っていますが、「実在論」といったときに「本質論」という意味合いが日本語の場合には強い気がします。その本質もリアルでありながらリアルの枠では測れない名詞的ではない動詞的な世界、主語も含まれる述語の世界。従って西田先生の実在にはリアルを越えた奥行きの深さを思います。

 日本語の本質という言葉には、「やまと言葉」の動的な思考で考察すると、「うつし」の言葉には「本質の移動」「本質の変わらないもの」を見ることができます。これについては過去に書きましたのでここでは書きませんが「実存」「実在」そもそも「存在」なのですが本当に奥深きものです。

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