あるサイトを見ていましたら「有無実存」という言葉を目にしました。老子、道徳経とも言われますが、その第十一章に基づく言葉のようでした。内容をとやかく言うの話ではないのですが「老子、お前も実存か!」と思ったわけです。
ギリシャ哲学から始まる存在にその語源がある現実存在をつづめた「実在」という言葉というよりも哲学的思考が老子の世界にも適用されるという話です。現代の「実存」の考えの中で「無」というものが出てきます。本来的な自由とはその無から立ち現れ出てくるものそれを老子の第十一章にみたようです。今から4年ほど前にこの老子の第十一章をもとに「やまと言葉」の「うつろい」という言葉を探究したことがあります。
『老子』の「無」「空」を参照しながらの「うつろい」考です。
一年程前に【「うつろい」という最後の言葉】と題し、やまと言葉の「うつろい」を『道徳経・老子』の「無」「空」を参照しながら欠いたのですが、ここに至り「心の身体化」の感慨も重ね記録に留めたいので再度修正し掲出することにしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『道徳経』11章「三十幅共一轂。当其無、有車之用。・・・」は、『老子』(金谷治著 講談社学術文庫)では次のように意訳されています。
粘土をこね固めて、それで器ものはできている。
しかし、器の中心のなにも無いくぼみがあってこそ、
器ものとしての効用がはたせることになる。
戸口や窓をくりぬいてそれで家はできている。
しかし、家の中心のなにも無い空間があってこそ、
家としての効用がはたせることになる。
だから、なにかが有ることによって利益がもたらされるのは、
なにも無いことがその根底で
その効用をとげているからのことなのだ。
次は、加島祥造さんの「伊那谷の老子 朝日文庫」加島さんの自由訳です。
土をこねてひとつの器を作る。
中がくりぬかれて、うつろになっている。
うつろな部分があって
器は役に立つ。
中までつまっていたら、当たり前のことだが、
なかに空間があるから有用なのであり
そこがぎっしり詰まっていたら、使いものにならない。
その空間、その空虚が、部屋の有用性なのだ。
我々が役立つと思っているものの内側に
空のスペースがあり、この
何もない虚のスペースが
本当の有用さなのだ。
加島さんのこの訳は、1995年淡交社刊版に掲載されたものということで、2000年の「タオ 老子 筑摩書房」では、
土をこねくって
ひとつの器をつくるんだが、
器は、かならず
中がくられて空(うつろ)になっている。
この空の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
なんの役に立ちやしない。
同じように、
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。
もし部屋が空(から)でなくて
ぎっしりとつまっていたら
まるっきり使い物にならん。
うつろで空(あ)いていること、
それが家の有用性なのだ。
それで分かるように
私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚のスペースこそ、
本当に役に立っているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで注目したいのは、「無」のはたらきです。加島さんは漢文を訳すのではなく、英文学者でもある加島さんは、英文訳されたものを自由訳で翻訳しています。
語られている内容ではなく、さらに使われている言葉に注目したいと思います。
その言葉とは、「うつろ」という言葉です。この言葉は古くから使われている「やまと言葉」です。
金谷さんが、「なにも無いくぼみ」「なにも無い空間」と表現しているところを加島さんは、「くりぬかれて、うつろになっている。」「うつろな部分があって」というように「うつろ」という言葉を使用しています。
「うつろ」という言葉を一般的な古語辞典でみますと「うつろ:空・虚・洞 中がからっぽなこと。また、その所。」と書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回は「うつろ」という言葉に注目していますので、次にほかの方の論説を紹介します。その方は松岡正剛さんです。
千夜千冊で有名な松岡正剛さんは、2006年9月に日本法相出版教会から「日本という方法」を出されています。
2004年6月から7月にかけてNHK人間講座で8回にわけて放映された「おもかげの国・うつろいの国」の時のテキストと語りをもとに書かれた本ですが、その第1章「日本をどのように見るか」の中のに「うつろい」についての次の記述があります。
<「うつろい」>
・・・「うつろい」は「移ろい」と綴るので検討がつくでしょうが、移行・変化・変転・転移などを意味します。
意味はそうなのですが、ここに「うつ」という言葉(語根)が使われていることに重要な消息があります。「うつ」には、「空」「虚」「洞」という漢字をあてます。一番多いのは「空」。うつろ(空・洞)、うつほ(空稲)、うつせみ(空蝉)、うつは(器)、いずれも「うつ」の同根ボキャブラリーです。「うつろい」はこの「うつ」から派生した。つまり、空っぽとのところから何かが移ろい出てくることが「うつろい」なのです。・・・・・・(なぜこんな意外な言葉が生まれたのかということについては、第5章に書かれています。)
<以上>
松岡さんは、、このように「うつ」の同根ボキャブラリーとして「うつろ」という言葉も紹介されています。
古語辞典によれば「うつ:全・空・虚 ①全:体言の上について 全部、すべて、の意を表す語。例うつ剥ぎ・うつ抜き ②空・虚:体言の上について 空虚、からっぽ、の意を表す語。例うつ蝉、うつ木、」と書かれています。
松岡さんは「日本という方法」の中で、日本の独創的な「編成文化」を説明するに当たり、この「うつ」という「やまと言葉(注:松岡さんはこのような表現はしていません)」に注目し、副題に「うつろいの国」と記述しています。これ以上松岡さんの書籍には言及しませんが、引き込まれる一冊です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『道徳経』(金谷治著参照)では「無」という漢字を使用していますが、加島さんは英語訳の『道徳経』を日本語へ翻訳するときに、「うつろ(空)」という言葉を使用しています。
加島さんは、上記の著書『伊那谷の老子』の中で、ひとりの英語翻訳者が「無」を次の四つの言葉を使用していることを紹介しています。
(1)the center hole(中心の穴)
(2)emptiness(空)
(3)the inner space(内なるスペース)
(4)non-being(非在)
とその英語表現を紹介しさらに次のように解説しています。
<『伊那谷の老子』註釈から>
このように、自由な態度で「無」をはっきりさせようとする。もちろん定石どうり、「無」を”nothungness”としているものもある。しかしそれよりも、各自勝手な翻訳の方が目立つ。
たとええばnon-being,non-existance(非在)、the space where there is nothing(何もないスペース)、what is non(ないもの)、the empty innermost(空なる内奥)、などであり、まだある。
別に学問として言うわけではないからこれ位にするが、これだけでも彼らがいかに「無」を噛みくだこうとしているか察せられよう。
「無を噛む」という比喩は矛盾した表現で滑稽だが、しかしこういう英訳者たちの努力はかえって、私たちのように「無」を鵜呑みにしてきた者にとって、ひとつのスリルなのだった。私は「無」に対して東洋的な漠としたなにかを感じつつ、あとは西洋思考にかかわってきた。そういう私にとって、英訳者たちのこうした訳し方は新鮮な場面をきりひらくものと感じられた。筋が通っていて、見通しがきいた。
たとえば彼らの多くは「無」を、エナジーに満ちた空間だととらえている。彼らの合理性思考からすれば、「無」はうつろな空間だが、「タオ」のサイドからすれば、その「何もなさ」こそすべてを生むもとであり、むしろエナジーそのものを指している。
<以上p147~p148>
ここに至り英訳者の人たちの多くが、
「無」を、エナジーに満ちた空間
と認識している点に注目します。エナジーとはエネルギーのことで、この言葉の語源はアリストテレスの現実態(エネルゲイア)からきたものです。可能態(デュナミス)とともに存在に対する考え方です。木材の潜在能力、至っては机となる存在を秘めている。これがスコラ哲学になると「存在するものごとは、もともとある本質が外に立ち現れたもの」というような思考になり、本質(エッセンティア・essentia)であり、元来成り立たせているそのものとなる「ありよう(有様)」のこと。
現れ、実現し、顕したもの=エッセンティアの立ち現れたもの=エクシステンティア
後の現実存在=実存(existentia)ということになるわけです。
老荘思想は、道教と密接な関係にあるのですが、道教学者の福永光司先生によると「道教は古代中国の土俗的でプリミティブなものから出発している。」とのことです(『混沌からの出発 』五木寛之・福永光司 中公文庫P63)。
「うつろい」という言葉に視点を戻しますが、古代のわが国への渡来人には、その中国の土俗文化をもつ人々が多くいたわけで、その後島国日本の独特の風土・気候紀行に影響され独自の文化が形成されてきたと思われます。すなわち「やまと言葉」の言語としての形成には、大陸の土俗的な思考の発想に、新たに新しき島国の風土・気候に影響された、身体化された心を感じます。
それは弁証法的な止揚ではなく重なりの内の形成のような気がします。
上位への高揚ではなく、当然否定・肯定の世界ではなく「うつろい」そのもの編成替えを感じます。
「無」を、エナジーに満ちた空間
という発想形式からは、働きの主体に名を与えているように感じます。
この思考の発想を継承すれば昨日の「ある」という「在る」「有る」「生る」の存在認識の言葉をどうしても
「である」「がある」
にしなければ落ち着きません。
老子(道徳経)の「無」を実存で考えるのを否定するものではありませんが、日本的発想の「ある」は「あるがまま」の方が落ち着く感じがします。