刹那生滅を時間論の視点から何故にそれを求めるのかと思考すると、心の奥深きにある探究の根源に視点を向けることになる。
するとそこに現われてくるのが「発菩提心」である。
正法眼蔵発菩提心には、「おほよそ発心得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。」と書かれている。
凡夫が善なるもを求めるとき、刹那生滅で解体する自己と生成される自己。そのとき解体されるものが悪で、生成されるものが善でありたい。
自己の同一性が解体されてこそ変化があるのであり、それは自己の連続性が解体されることを意味する。 しかし、身を含め見つめる眼の内にある己という存在は、実体としてあるように感ずる。 そこには連続性があるからこそ己があるのであり刹那生滅とは矛盾することになる。
そもそも矛盾などというものは、自己の思考を固定した時に成立する。頑なな我では自由な発想はできず、流動的な我(流動我)であってこそ刹那生滅を直観的にとらえることができると思う。
我は極小から無限大の幅をもつ。我が限りなき無限大に入ると森羅万象は全て内に入り、相依の世界を越えた無分別智の世界を観、限りなき極小に入ると森羅万象の内にある一点を観る。
するとそこに現われてくるのが「発菩提心」である。
正法眼蔵発菩提心には、「おほよそ発心得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。」と書かれている。
凡夫が善なるもを求めるとき、刹那生滅で解体する自己と生成される自己。そのとき解体されるものが悪で、生成されるものが善でありたい。
自己の同一性が解体されてこそ変化があるのであり、それは自己の連続性が解体されることを意味する。 しかし、身を含め見つめる眼の内にある己という存在は、実体としてあるように感ずる。 そこには連続性があるからこそ己があるのであり刹那生滅とは矛盾することになる。
そもそも矛盾などというものは、自己の思考を固定した時に成立する。頑なな我では自由な発想はできず、流動的な我(流動我)であってこそ刹那生滅を直観的にとらえることができると思う。
我は極小から無限大の幅をもつ。我が限りなき無限大に入ると森羅万象は全て内に入り、相依の世界を越えた無分別智の世界を観、限りなき極小に入ると森羅万象の内にある一点を観る。