思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ルサンチマンから無我なる自我として生きること

2014年12月28日 | 哲学

 ニヒリズムという言葉を一つの話題とするときに、つきまとう言葉があります。その言葉とは「ルサンチマン」。過去ブログでも扱ってきてはいますが、ウィキペディアでは、ニーチェの『道徳の系譜』で多用される言葉として、次のように解説されています。

<ウィキペディアから>
『道徳の系譜』
 ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。
 ルサンチマンを持つ人は非常に受け身で、無力で、フラストレーションを溜めた状態にある。つまり、実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感している人である。そういう状態にあっては誰であっても、ルサンチマンを持つ状態に陥る。
 社会的に強者であれば、嫉妬や反感といった感情に主体的に行動することができるため、フラストレーションを克服することができ、そのため、仮にルサンチマンの状態に陥ったとしても、一時的なものでしかないとされる。
 反対に社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないことを正当化するようになる。社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行うようになる。こういった自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。
 こうしたルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにある。こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、だから反対に自分は道徳的に優れていると主張する。「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということになる。
 
 敵として想定される存在は、自分が無力だと感じさせる対象が選ばれる。例えば、貧しさに無力を感じるルサンチマンの敵は資本家や大企業となる。
 さらに、そのルサンチマンの敵が拡大すると、対象が社会全体になる。「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大解釈されるようにもなる。このような状況に至ると人は陰謀論や急進主義、刹那主義を受け入れ易い心理に陥る。また、人によってはそうした不満以上に「この世界では(自分は)報われない」という厭世観や自己の無力感を持つようになり、放蕩や自殺に至る場合もある。
 
 なお、ギリシア哲学研究で著名な田中美知太郎は、プラトンの対話編『ゴルギアス』でのカリクレスの主張―弱者たる多数派による法律に飼い馴らされた状態から、充分な天性を授かった人間(奴隷にしておいた主人)が立ち上がり、自然の正義が燦然と輝き出る、というもの―には、ルサンチマン概念の変奏曲の如きものが認められると指摘した(田中美知太郎責任編集『世界の名著 プラトン I』中央公論社)。

<以上>

 常に懐に怨恨,復讐の心を持ち、実存からの視線は常に他者に向けられ、また自らが置かれている場に注がれる。

 敵は現前に現われ、武装に走る。上記の解説にもあるように「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている」と解釈し武装に入る。また「このような状況に至ると人は陰謀論や急進主義、刹那主義を受け入れ易い心理に陥る」とあるように日常は悲憤慷慨と憂いが支配する。

 人によってはそうした不満以上に「この世界では(自分は)報われない」

 この言葉も解説としては、理解できる範囲です。

 「武装」という言葉を使いましたが、決して火砲等の武器をいうのではなく、おのれ自身の頑とした思想、哲学を持つという意味で、言葉の暴力に走る輩の主張に近いかも知れません。

 浅野裕一著『儒教 ルサンチマンの宗教』(平凡社新書)という本の題目を目にしたときにある疑いが生じます。著者自身が他者への発信としてその背後にルサンチマンがあるのではないかと。

 主張には根拠がある。ロジックで語られる説得力が増します。

 来年の大河ドラマは『花燃ゆ』ですが、吉田松陰は『講孟箚記』の

 巻の一「孟子序説」のはじめの次の言葉を思い出します。

「経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おもね)らぬこと要(かなめ)なり。・・・・」

と、松陰先生は「経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、 道は明らかにならぬし、学問をしても益がなく、かえって有害である」と語りはじめます。

 聖人と呼ばれる人物の思想形成には何があるのか。出自は如何に。天下、国家の統率者や指導者としての完成者であったのか。

 松陰先生の言葉はこのことを示唆しています。突然松陰先生の話に移行してしまいましたが、上記の『儒教 ルサンチマンの宗教』は若干過激ですが、何か似たところがあります。

「孔子という男の惨めな生が、すべての始まりであった。
「貧にして且つ賤」の一介の匹夫が抱いた、天子にならんとする妄執・・・そして挫折と怨恨。

 このような過激な言葉で語られる「ルサンチマンの宗教として儒教」です。

 「巧言令色鮮し仁」「剛毅木訥仁に近し」

という昔学んだ言葉が浮かびます。

 「巧みな言葉を用い、表情をとりつくろって人に気に入られようとする者には、仁の心が欠けている。」

 「意志がしっかりしていて,飾りけがないのは道徳の理想である仁に近い。」

 有名なこの教示の言葉は大いなる納得で理解していたのですが、魯国に生まれた孔子、その後の生き様、生涯はどのようなものであったのか、を知るにつけ実存的虚無感からの怨念転化の表現に聞こえてきます。

 私のような優秀な人間を登用しないのは、天子の側に徳が無いからだ。

 話のうまい人間は、どうも信用ならない、と懐疑的に思うのも然りなのですが、「巧みな言葉を用い、表情をとりつくろって人に気に入られようとする者」と誰が解釈しているのか。

 他者に向ける批判の眼の何ともおぞましい、妬みと嫉妬であろうか。

「自我を捨てなさい。見えるものも見えなくなる。」

 自我というものがいかに分別心の根源であるかがわかります。色眼鏡で自己に前に立ち現れる森羅万象も含めた他者を見聞き体験し内に何ものかが生まれる。

 哲学者の山田邦男先生は、金子みすゞの次の詩から無我なる自我として生きることを語ります。


『わたしと小鳥とすずと』(金子みすゞ)

 わたしが両手をひろげても、
 お空はちっともとべないが、
 とべる小鳥はわたしのように、
 地面(じべた)をはやくは走れない。

 わたしがからだをゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴るすずはわたしのように
 たくさんなうたは知らないよ。

 すずと、小鳥と。それからわたし、
 みんなちがって、みんないい。

「人間は、みすゞが歌ったような幼児の世界にいつのまでも生きることができない。それゆえ、人間の理想は、そのような幼児の世界に大人として生きるということであろう。このことは、弁証法的に言えば、幼児の無我が即自的、大人の自我が対自的であるのに対して、この両者の止揚として即自且対自的に、無我なる自我として生きることである。・・・私たちの内には自分を超えたもの(無我・大きないのち)が自分(自我・小さないのち)として働いている。自分を超えたものとは自分以外のすべて、すなわち、自分の周囲の存在する人や物や社会や自然、あるいは世界や宇宙、さらに宗教で神や仏と言われてきたもの、そのような存在するものの全体である。」

<『<自分>のありか』世界思想社・「はじめに」から>

「無我なる自我として生きること」とあり「自我を捨てる」ことと真逆な気がしますが、表現をするには自我が無いと出来ません。だからと言ってルサンチマンの怨恨,復讐、怨念や執念などの囚われの我があると敗者の雄叫びにも聞こえてしまいます。

 我を捨て去ることで新たなる我へと止揚する。

「みんなちがって、みんないい。」

 金子みすゞさんの人生は悲哀に満ちていました。実存的空虚感が全身を覆ったことは確かで、この言葉には金子みすゞという結晶の表現を感じます。

 純なる結晶=無我なる自我として生きること

このように表現してもいいように思います。

 今回は、儒教を「ルサンチマンの宗教」と規定しているように見えるかもしれませんが、これはあくまでも人の思考の過程の現れとして道具化しています。

 人は何を語るのか。


説似一物即不中[2014年01月31日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/084c2a0f7039aca3b5ce6e9651a11979

の最後に、

 何が本当であり何が嘘か。

 嘘も本当もあったものではない。

 「説いて一物に似たるも即ちあたらず」

 「夢中説夢は諸仏なり」

 凡夫はそこで迷う。

 問答なんていうものは、もともと何も語ってはいない。

 語る身の内の保管場所が大事なのだと思う。そのために苦悩し参究することになる。

と書きました。

 ルサンチマンから我を捨てなさい、無我なる自我として生きること、という話を書きました。

 今年も今日を含めて残り4日ほどになりました。実存に始まり実存に終わる1年でした。


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1 コメント

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ご登録ありがとうございますm(_)m (八咫鴉@管理人)
2014-12-29 07:46:58
ルサンチマンとニヒリズム・・・・・。
ニーチェ「道徳の系譜」について語られていましたついつい読みふけってしまいました。

ルサンチマンと宗教(特にキリスト教)における僧職者階級の行動原理については、上記の「第一論文・善と悪ならびによいとわるい」について詳細が語られています。
後期ニーチェには珍しい論述形式。
かれの哲学書のなかでは、読者に理解しやすいかたちでまとめられている書だと思います(それでも最初は難しいけれど)。

じつはわたしも金子みすゞの詩に、ニーチェとのシンパシーを感じていました。
全く関係ない?はずなのにどうしてだろうか?
不思議に思っていました。

わたしもニーチェを知り、「ルサンチマンを意識することで自我を意識する」ようになりました。
「わたしはどう生きたいのか」
「わたしはどうあるべきか」
ニーチェを手引きに必死こいて考え抜き、今にいたります。

「わたし」を意識するようになると、なぜかと「わたしの誇りのために」守るべき自律道徳を定めるようになります。
道徳は元々あったものではなく、われわれが社会の利害のために作られたに過ぎない(イギリス功利主義的で、ニーチェの考えとは違いますが)。
道徳も解釈の一つであり、絶対的根拠はない。
それなのに、今のわたしはかつてよりも間違いなく節制した生活を送っている・・・・・。
自分のために幾つも規則・信条を作るようになったのです。
今振り返ると本当に不思議です。

「これこれは私の誇りを守るために禁じる・やるべきだ」

結果社会が決める道徳とかぶるものもありますが「守るべき根拠が強力になる」ので、個人的には「自我を意識することは大切」だと思っています。
「わたしがされたくないことは、他人にしてはいけない」ということも、自我について考えた結果生まれた発言だと思います(道徳として不十分な点はあるものの)。

おそらくは、自我を突き詰めて考え続けると「他人から見て」無我の境地に至るようなるのではないでしょうか?
いわゆる無我に生きる人は「自我を限界まで考え抜いた」人と言えないでしょうか?
「わたし」についてとことん考え抜き、「わたしと他者」の違いについても徹底的に考え抜いたからこそ至る境地。
おそらくは、金子みすゞも上記のようなプロセスを経たからこそ「みんなちがってみんないい」という感覚を「体験」したように思えるのです。

わたくしの考察はへっぽこですので理論として成り立っていないところはかなりあると思います。
しかし、きになる記事でしたので長々と書かせていただきましたm(_)m
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