思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「メメント・モリ」田辺元著を読んで

2014年03月01日 | 哲学

 田辺元先生は、「西田哲学は直観主義の哲学で、結局、神秘主義にいかざるを得ない。」と語り、終始西田幾多郎先生に批判的態度をもちつづけたようなのですが、個人的に晩年の『懺悔道としての哲学』『死の哲学』などを読みはじめると、語られる「絶対無即愛」や「新しき死の哲学が菩薩道を現代的に復興創造するわけである」などという言葉に愛娘の死に「死者への心づくし」を語る西田先生の心の言葉が、重なって仕方がありません。

 地方紙の「参加者募集」記事を見ていると「今回は田辺元先生を取り上げます。」という文字が目にとまりました。

 内容から田辺哲学を語る会があるということで、信州安曇野で田辺哲学を研究されている方がおられることにビックリ。そして「木曜日の午後1時30分に開催」という言葉にガックリ。その会は、毎月第1木曜日が勉強会とのこと、出席できない悲しさに落ち込んでいるところです。

 開催場所は、安曇野市堀金烏川の臼井吉見文学館。「臼井吉見」の名に筑摩書房を思い出し、手元で読んでいる田辺先生の論文が筑摩書房『現代日本思想体系23』であることに気づきました。

 筑摩書房『現代日本思想体系』は、絶版書ですが、今は。京都哲学撰書第3巻『懺悔道としての哲学・死の哲学 田辺元』(燈影舎)で読むことができ、前書(思想体系)の編者が辻村公一先生、後書(哲学撰書)は長谷正當先生が解説をしています。

 難解な田辺哲学をどうにかして理解したいと思う私にはお二人の解説は大乗の船のようです。

前書の中に、

 「懺悔道としての哲学」が更に徹底された先生の最後の立場すなわち「死の哲学」の要旨を淡々と語られた小品(1958年・昭和33年)である。ここに至って先生の思索は深い悲願に貫かれた大乗仏教の菩薩道に帰着する。

 という短いコメントの付いた田辺先生の「メメント モリ」という小論があります。勉強会には仕事の関係で出席できませんが、今朝はこの「メメント モリ」を取り上げたいと思います。

 「メメント モリ」は、ラテン語で Memento mori (死を忘れるな)。

田辺先生は、

 この言葉の深き意味は、旧約聖書の詩篇第90第12節の「われらにおのが日をかぞへることを教へて、智慧の心を得させたまへ」に由来するものと思われる。けだし人間がその短きこと、死の一瞬にして来ることを知れば、神の怒りを恐れてその行を慎み、ただしく神に仕へる賢さを身につけることができるであろう、それ故死を忘れないやうに人間を戒めたまへ、とモーゼが神に祈ったのである。その要旨はがメメント モリといふ短い死の戒告に結晶せられたのであろう。・・・・

 そして「今日のいわゆる原子力時代は、まさに文字通り「死の時代」であって、「われらの日をかぞえへる」どころのではなく、極端にいへば明日一日の生存さへも期しがたいのである・・・・」と「メメント モリ」は語られて行きます。

 この言葉に、原爆について科学者の責任を語る評論家の唐木順三先生の『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(筑摩書房)を思い出しました。この唐木先生のこの覚え書きの「あとがき」を見ると「臼井吉見」となっており田辺哲学がこの安曇野につながっても不思議ではないようです。筑摩書房つながりなんですね。

 田辺先生の上記論文が書かれたのは、1958年(昭和33年)、そして唐木順三先生の「科学者の社会的責任」は、1980年(昭和55年)、22年の隔たりがありますが原子力という課題が共通し、それについて深い思いを語る両者の論文に偶然にも接した不思議に個人的に意味を問われているように感じます。

 ここで唐木先生の名を出し田辺先生を離れてますが、唐木先生のこの『「科学者の社会的責任」についての覚え書』は絶筆の未完の書で、その最後の最後は、

 

 この「絶対悪」と物理学の進歩、未発見な未発明のことがらを見出す折の喜悦とは、どこで、どうつながりうるだろうか。湯川の場合、つながっていない。つまりは「懺悔」がない。懺悔が出てくる基礎、基底がなく、自己懺悔、自己啓発がない。無いと言いきれないとすれば希薄である。
 右の点が、遠くはアンシュタイン、近くは朝永振一郎と違うところ、一言に縮めれば「罪」の自己意識の問題である。・・・

の言葉で終わっています。

 ここに田辺先生と同じ「懺悔」という言葉があります。論文の内容からして田辺先生の「懺悔」が唐木先生の「懺悔」に重なるものではありませんが、重い言葉であることを感じます。

 西洋の文芸復興期にはじまる生の解放は、やがて生存における平等や権利、義務の倫理的感情の「生の哲学」として現れ、科学する者の自覚は「未発見な未発明のことがらを見出す折の喜悦」から実用主義的認識へとつながり現代の科学技術の発展につながっています。

 「生の哲学」が世界を覆い尽くしています。そこに大きな問題が横たわっていないか。両者の語りは過去の話です。

 「大きな問題」

 最近の世の中の動きに問われる事態があることを感じます。

 10年、20年、30年・・・・人の人生は長いのか短いのか。

 田辺先生の「死の哲学」は半世紀以上も前の語りなのですが、今に生きるべき主張のように思えます。

 歴史的過去は、反復学習で伝承されるのか。

 知識をいくら積んでも実にならない現実。懺悔がなかなか見えない。

 経験から作られる人間ですが、詩篇が語るように、光陰の如く短い。

 田辺先生の「死の哲学」は生と死の連関性の自覚において語られ心の変革を期待します。

 それは生(あ)るものが、成るものへの「いのちの仕舞い」(成仏)するものである自覚・・・のように私は思います。

 だからより一層、「ある」ことに力の意志が働く。

 田辺先生の「絶対無即愛」は、西田先生の「逆対応」に重なり決して隔たってはいません。深淵なる根源から流れ出る泉の水は、命の水として現れています。

 無くてはならない水

 「水」は比喩ですが、慈愛でもあります。

 誰からの慈愛であるかを悔悟すれば、他者に施さないではいられない。

 こう解すると「懺悔」も普遍的な倫理的感情になるのでは、・・・・

 前回は「今日の音づれ 何と聞くらむ」とコンコンと湧き出る泉の音を聞きました。

 今現在の私たちの社会に何が起きているのか。

 すすり泣く、嘆きの声がしているのではないか。

 悲惨な話に泣く者が多いであろうが・・・・すべては通り過ぎてはいないだろうか。

 ※「メメント モリ」という言葉については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では「メメント・モリ」で解説されていますので今回のタイトルは「メメント・モリ」としました。

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