フランスにおけるイスラム過激派によるテロ行動を見ていると特定宗教の信仰や民族的な孤立的思想がいあかに危険性をはらんだ問題であることを思う。
最近はブログ上に「日本人論」を書くことが多くなってきているが、Eテレの「100分de日本人論」で展開された「日本人論」には、第三章「日本人の心のかたち」精神科医 斎藤 環さんから紹介される河合隼雄著『中空構造日本の深層』で指摘される日本人古層のもつ危険性は「近代の超克」にみられる自覚なき足跡を指摘しているように思える。
さてこの番組の「日本人論」については、既に3回ほどアップしていますが、引き続いて(1-2)をアップしたいと思う。
Eテレ「100分de日本人論」第一章第一章「日本人の美学」哲学者九鬼周造著『「いき」の構造』の番組冒頭で伊集院光さんが、
「いき」じゃないのは何となくわかるんですが、「いき」なやつはわかりにくい。
という話をされていました。
個人的な理解として、「いき」とは何かと言う概念規定の前に、落語修行の中から学び取った感覚的な「いき」「いなせ」の世界に、「いき」の範囲に該当するしぐさなり生きざまなのか、を問うたときに肯定の世界は分るが、否定の世界はわかりずらい、というようなことを語られるのですが、そのように即応するところに伊集院さんの感性の鋭さを感じ、学者以上の説得力を感じます。
否定の世界は見えやすいが、肯定の世界は見えにくい。
見えにくいとは概念の範疇化が3難しい、言葉として表現しずらいということなのだと思いますが、肯定の世界は感覚的に表現しやすいが、否定はしずらいのが、この種の世界観のとらえ方のような気がします。
「江戸特有の美意識」=西洋の概念では説明できないもの=あいまい
という図式が肯定・否定の狭間論争(あいまい)になるのですが、白黒はっきりできないところになぜ日本人は「快」を感じるのか本当に不思議です。「快を感じ」という表現よりも「善しとするのか」の方が個人の気持ちが入っているかも知れない。
さて番組の話になりますが、第一章の選者、講師松岡正剛さんは次の語りから入ります。
【松岡正剛】 芸者さんだとか遊女だとかそういう異質な日々を送っている人の中に、素晴らしい何んかこう・・「いき」を引き出してくる。彼(九鬼周造)は女性と男性の間の「はかなさ」とかあるいは小唄や浄瑠璃や近松や西鶴がもっているそういう「心の交情」・「揺れ動く姿」というものを本当にすごいと思っているわけです。
ここにも(『「いき」の構造』)にも書いてあることですが「失って初めてわかる本質」に九鬼は、観想を持つわけです。進歩するものではなくて、失ったらあいつは苦しむ、ぼくは今ずっと(高倉)健さんが亡くなって、失ってみる高倉健というものが何となくこう書き立てられたりしますよね、そういうものが日本人にはある、と九鬼は言おうとするわけです。
ということを松岡正剛さんは話されていました。「講演録は残さない」と第四章で取り上げられ『中空構造日本の深層』著者河合隼雄さんや評論家の小林秀雄さんも過去にそのように語られていましたが、個人的には会話という後戻りのできない表現世界には、本人のより本人に近い何かがあるように思います。熟慮、吟味からの表現は確実性においてはこれ以上のことは無いのでしょうが、個人的に番組等の講義の文立ては「善き」感動があったからこそ文立てをするのであって、今回の番組でも松岡さんの口から語られる「いき」の世界の解説は、松岡正剛書評『千夜千冊』で語られている以上の生(なま)性が現れているような気がします。きちんと論文形式で語るよりもよくわかる、ということです。
この番組も後日以前放送された『100分de幸福論』が別冊でNHK出版から出されていますが、この『100分de人生論』も同じように出版されるとのことです。
「あいまいさを語る表現の世界」
ロジックを離れた否定と肯定のさらなるアンバランス、言葉の範疇化の難しい世界、「感覚でつかめよ!」世界です。しかしそれをどうにか語ろうとする。
九鬼周造の『「いき」の構造』ですが個人的に手元にあるのは、岩波文庫と講談社学術文庫から出されている二冊があります。ネットサイトでは青空文庫でも読むことができます。
前回岩波文庫『「いき」の構造・他二篇』の序文の前ページのメーヌ・ド・ビランの詩について書き意味不明で藤田正勝著『哲学のヒント』(岩波新書)からその訳を引用しましたが、何のことはない、講談社学術文庫『「いき」の構造』は全注釈者藤田正勝さんで、しっかり注として訳が書かれていました。ずぼらな読み方に性格がでます。
さて番組にもどりますが、
〇 「いき」という美意識はどういう特徴も持っているのか?(内包的構造)
「いき」の特徴1「媚態(びたい)」
男女が相手を惹きつけようと見せる色気こそが「いき」の大前提
「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」をいみするのでもわかる。
しかし、男女の「いき」には緊張感が大事。いざ深い仲になってしまうと「媚態」は消え去り、「いき」ではなくなってしまう。
「媚態」の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の性(さが)極限に達せざることである。
近づきたいから生まれる「いき」、でも近づきすぎても駄目、この微妙な距離感に必要なのが「意気地(いきじ)」。
と、ナレーションと著書朗読で番組は進みます。
著書『「いき」の構造』は、
序文
・「いき」の内包的構造
・「いき」の外延的構造
・「いき」の自然的表現
・「いき」の芸術的表現
結論
という目次で構成され語られているのですが、上記の美意識の特徴は、「いき」の内包的構造に書かれています。「特徴」という漢字を使用していますが、原本では朗読でもテロップに「徴表(ちょうひょう)」という漢字が使われています。
普段使うこともない「徴表」という漢字、「ある事物を特徴づけ、他の事物と区別する性質」カタカナにすればメルクマールという言葉です。従って現代は特徴という言葉の方がすぐに意味理解ができます。時代における文章を感じます。
話しが飛んでしまいましたが、ここでは
媚態・意気地・諦め
「いき」の三つの特徴点が語られています。
「媚態」とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定(そてい)し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元論的可能性を基礎とする緊張にほかならない。(講談社学術文庫『「いき」の構造』p39から・以下引用同書とする)
こう書かれるとわかるようでわからないのですが、うなじの色っぽさが示されると本当によくわかります。
措定(そてい)という言葉、これも普段使われない言葉で「対象として選定する」という意味になります。
男女の「いき」には緊張感が大事
こういう表現の方がよくわかります。
「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強みを持った意識である(p42)。
が朗読され、第二の特徴「意気地(いくじ・いきじ)」の話になりますが、上記の「反抗を示す強み」語りは、著書では第二の特徴の中で語られていて、「媚態・意気地・諦め
」の三語は互いに関係性の中にあって「いき」が現われることがよくわかります。
ナレーション、朗読で次のように始まります。
武士は食わねど高楊枝。宵越しの金は持たぬという江戸っ子気質。吉原の太夫が金にものをいわそうとする男をはねつけるのも意気地のなせる伎(わざ)。その根底には運命を受け入れる「諦め」の気持ちがあると九鬼は言います。
この世は無常、未練はサッパリ諦める。
「思う事、叶わねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである(p45)。
「いき」とは色気を持ちつつも気高くサッパリとした心持でいること。
このように語られるとよくわかります。「いき」の徴表の「媚態」・「意気地」・「諦め」に三つを松岡正剛さんは三位一体論と言います。
概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」に二つは民族的、歴史的色彩を規定している(p47)。
この三位一体はなかなか難しい。
「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟、自由の擁護を高唱するにはほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達成せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有するのは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。「媚態」と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している(p48)。
・セクシーで上品な振る舞い
・追い求められない世界
・未練を断つ
・芸者の哲学
・中世期の遊女は自由営業、自己営業
等が番組では語られていきますが、そもそも「いき」はいつごろから九鬼は語っているのか。
参考にしている全注釈藤田正勝・講談社学術文庫『「いき」の構造』の解説によると、
パリ時代に書かれた草稿「『いき』の本質」では、「いき」が男女の性的関係を予想するものであることが明瞭に語られている。「いき」は静的関係を予想する意識現象で異性に対する一種の媚又は媚態である。自己に対して異性を置き、自己と異性との間に一種の関係をつける二元的立場である(p56)。
とあり媚態は、二元的的関係が一元化を目指す圧力により表出される現象とも言えそうです。
一元化は二元的関係の否定であり、逆に媚態の存在をおびやかすことになる(p57)。
従って性的関係が完結すると、媚態は衰退してゆくものであり、
媚態が媚態でありつづけるためには、一元化はあくまで「仮想的目的」でなければならない。「二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって『歓楽』の要諦である」(p40)と九鬼は述べている(p57)。
〇 「いき」の外延的構造
これが「いき」の内包的構造で、番組ではこのあと、芸者や遊女のどこに「いき」な色気を感じるかということで、「いき」の外延的構造の「姿はほっそり柳腰」「丸顔よりも細おもて」・・・「野暮」がおもしろく解説されていました。
ここで注目されるのは伊集院光さんの語るアメリカンポルノの直接的なエロスと日本人男性のもつエロス観の相異、実に見事解説に驚かされます。実に間接的なエロス観である日本人がわかります。
「項(うなじ)のエロス」
実に見事、西洋には無いに違いない。
・暗示性を大事にする
・覆いの美学
【松岡正剛】 そういうものから発して日本の中の美意識や振る舞いやもてなしの仕方、生き方に蓄積されたもの、それは役者さんでも落語家でも「あ、ええなぁ~」「よろしいなぁ~」「いきやなぁ~」と思えるところと「なんやぁ~、なにしてんやぁ」みたいなところの両方がありますね。
「かっこいい生き方」という話も出てきます。するとダンディーという言葉が浮かびます。外国にもあるダンディズム、しかし九鬼は明確に「結論」の中で異なることを指摘しています(p158-p159)。
中沢新一さんが微妙なところを歩いていくにはどうするか、の指南書でもあるといいます。指南書、実にそう思います。
次に作家の赤坂真理さんから「心中」の話が出されますが、私の思う「日本人の自殺志向」とう話も含めて次回にしたいと思います。