いまさら言うまでもありませんが、ソーシャルメディアの威力の凄さには驚かされます。 今週の月曜日に首相官邸前に人々が集まりは、原発反対の意思表明の姿、参加者側17万人、警視庁7万人、訳が付く話ですが参加種数について10万人の差はありますが、多くの人々が終結した事実は確かなことです。
ソーシャルメディアは、オンライン百科事典「Wikipedia」によると「誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディアである」とであることは以前にもブログに書きました。
そこに示されるメディアとは電子掲示板やブログ、ソーシャルブックマーク、カスタマーレビューなどのインターネットサービスと言われますが、すべてのメディアを含み、情報化時代におけるそのメディアの人々の共同結集集意志の醸成機能の能力のあることを明確に示したように思います。
ある特定の思想背景に基づく集団による反対闘争、反対闘争という過去の左翼集団の用語にはそぐわない集団の姿がそこにあるように思います。
機関誌『人間会議「Humanity Forum」2012夏号』は「ソーシャルメディアの本質」と題した特集号でした。この雑誌は「哲学を生活に生かし、人間力を磨く」という副題がついています。ソーシャルメディアをどう哲学的に生活に生かし、人間力をつけ磨いていくかという啓蒙書です。
高い理想と豊かな人間性に溢れる21世紀の世界に向けて地球上のあらゆる人が、知性と人間性を磨き合う「哲学総合誌」。哲学、宗教、科学、芸術など、様々な分野における第一線の方々による執筆、インタビューなどを掲載。
この夏号には「ソーシャルメディアの本質を考える」ということで、さらにその何を目てにとする雑誌なのかが次のように書かれています。
<ソーシャルメディアの本質>
テレビ離れ、活字離れが指摘される一方、タプレット端末や携帯電話でYouTubeやニコニコ動画などの動画サイトを見て、ニュースの情報源に直凄アクセスし、ソーシャルメディア上でリンクをシェアし、海外にいる友人とチヤツトするなどといったことはもはや当たり前となっている。米大手SNSのフェイスブックのユーザー数が9億人を超え、株式市場への上場を果たしたことでますます注目が集まるソーシャルメディア。
企業やブランド、自治体のフェイスブックページも増えている。ソーシャルメディアが暮らしやビジネスに入り込んでくることによって、コミュニケーションにもさまざまな変化が生まれている。
本特集では、世界中で活発化する新しいデジタル教育や政治運動、社会学や脳科学など、文理を超えたさまざまな側面からソーシャルメディアの本質を考えてみたい。
<以上>
ここに「政治運動」という言葉があります。しかしそこに描かれる思想的な背景には相対する極がありません。旧来の政治活動ならば互いの思想的な相異、いわゆる左派右派の相異がありまたそういうものを感じさせません。
政治運動、社会運動も相対するものの結論無き、不透明な理想闘争何も意味しないという時代になってきているということです。
人々は個々に幸せ感を持っている。3,11の東日本大震災を契機に「困っている人がいれば助ける」は大多数の人がもつ心の姿ではないでしょうか。瓦礫処理の問題はどうか、個人的に思うのは、本当は助けてやりたいが大多数の人のこころの姿ではないかと思うのです。それがいざ処理に関わる地域が顔を出すと個々の意志が編成し集団化し意図する意思が異なる意思の方向に、意志の力の姿に化けてしまうように思うのです。そう思うのだがそうしようと考えると集団の中の一員という意識が顔を出す。と単位その意識は萎えてしまいます。衰えてしまうのです。
自治体受け入れを決める住民参加の集い、いざ集まろうとしたときにどのような人が集まるのか。原発意見聴取会が開催され募集したところ70%余は反対の意向のある人だそうです(昨夜のニュース)。この割合はあるべき日本の姿を示しているか、そうだという人もいればそうでないという人もいるはずです。
積極、消極という意志の姿があります。
日本人はいまだに多数の消極者が多数の積極者になれない体質があるように思うのです。
ソーシャルメディアの果たす役割、これは現実に存在する話で力の醸成機能だと思います。それさえ知ろうとしない穏やかな人々、今更ながら力の意志というニーチェの言葉を思います。人びとの生活は旧態依然のままに永劫回帰状態になってしまいます。