(写真:青山俊董著『道をもとめて』主婦の友社から)
『道元 一遍 良寛』(栗田勇著 春秋社)という3名の有名な僧侶について書かれた一般的な本があります。この3名の中の一遍上人に注目すると必ず書かれる有名な歌があります。
この本の場合は次のように書かれています。
六字の名号には、念と声が一体化している。ひたすら口称念仏、一声の名号にすべてを収歛していくのである。そのとき、唱えている人間はどうなるのであろうか。
これについて、いかにもうがった説話が残されている。当時、法燈国師、心地覚心(しんじかくしん)という禅密兼修の人物が紀州の由良にいた。一遍はかれにまみえて、おのれの心境をこういう歌にした。
となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして
これにたいして、覚心にまだ不徹底であるといわれて、一遍はさらに次の歌を示した。
となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏
はじめの歌では、まだ声をきいている「我」「自意識」がある。それさえも消えさって、一声の名号のうちに摂取されれば仏も我もなく、ただ名号の世界が独存するばかりだというのが第二の歌である。 (p120から)
この歌からわかるとおり一遍上人は、念仏者でありながら少々異なる点があるように思えます。
このことについては「専修念仏とは違う念仏者 一遍聖人」(つらつら日暮らし) に詳しく書かれています。
今朝は何を取り上げようとしているか、なのですが、この一遍上人の二首の違いです。
「つらつら日暮らし」さんは、
>ここには「南無阿弥陀仏の声」と、「声を聞いている主体」という二見対待が起こっているからです。したがって、それを突かれた一遍聖人は直ちに「南無阿弥陀仏」という仏もわたしもないただ念仏の実相を示すことで、印可証明を受けました。<
と解説されています。私が”一輪の花”だなあと思うところはこういうところところです。
信濃教育会生涯学習センターでは、毎年有名な先生の講演会がなされていて、昨年行われた講演会で、西田哲学会、姫路獨協大学外国語学部教授岡田勝明先生が行った、演題「独りを生きる」~西田幾多郎と一遍・良寛・放哉~という講演会がありました。
私はそれに出席することができなく、残念に思ったところつい最近、その講演会記録を入手することができました。
その中に一遍上人のこの歌についての言及があり、改めてこの歌に”一輪の花”を感じましたので、今朝はこの話を紹介したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成21年度『生涯学習の記録』(発行 信濃教育会生涯学習センター)から
・・・・一遍が生きた時代、これはちょうど元寇の時代です。元が日本に攻めてくる。そして人々は非常な不安におののいた、そういう時代だったんです。ともかく元の人々は非常に残酷で恐ろしいことをする。ともかく捉えた捕虜のお腹を引き裂いて肝臓、つまりレバーを食べてしまう。
捉えた女性はみんな掌に穴を開けて数珠つなぎにして舟の廻りにしばりつけるとか。ともかく恐ろしい、そういう噂が全日本を覆っていたんです。単純に残酷と言えるかどうかわかりませんが、モンゴルの人々がすごく恐ろしいということは、ヨーロッパの人達も同じように噂していたわけですから、そういうすごく不安の時代です。そういう時代に一遍は生きていたわけなんです。
いったんお父さんが亡くなって跡継ぎがいないというわけで、出家したんだけれどまた戻ります。しかし8年後再び出家をする。その事情はよくはわからないわけですけれども、最初出家をしたときには、まだ幼い10歳に満たないようなときに、親のすすめで出家したわけです。
そして2回目の出家は確実に自分の意志で出家していたわけです。おそらく現実に生きるということの様々な人間の問題、それをひととおりおそらく経験をして、その上でやはり自分の生き方は、出家をするという、そういう生き方の中に自分の生き方の真実があるという思いを定めたと思われます。
良寛も同じように18歳のころ、見習いをしてそこから出家したということもありますから、そこら辺もちょっとなにか等しいような経験をしたと言えるのかもしれない。
そして1274年、これは蒙古の最初の襲来の年なんです。この年についに一遍は同行三人、つまり奥さん、娘、従者、この3人を引き連れて、伊予をいよいよ出発します。これも一遍という人のある種のやさしさと言ってもいいかもしれません。還俗をして結婚もして、子どももいるわけです。
自分はもう一回出家をするというときに家族を棄てなかったんです。奥さんも娘も一緒に連れて伊予を旅発ちます。そしていろんな経験をして、少しはしょりますけれども、次に熊野にやってきます。熊野でこれもちょっと面白い話しなんですが、一遍は名号札といって、「南無阿弥陀仏」と書いた、名号を書いたお札を、何万もの人達にも届けたいと、そういう願を持って、全国を歩き始めたわけです。
つまり念仏に目覚めてもらいたいというので南無阿弥陀仏と書いた札をいろんな人達に配って歩く。そういうことをしながら亡くなるまで全国を回っていたわけです。その熊野に入ったときにその念仏札を、ある僧侶に渡そうとしたらその僧侶が断ったんです。
僧侶であるのに断った。なぜ断ったかというと、まだ信心が起こらない、本当の意味で信心というものを自分のものにしていないので、南無阿弥陀仏というそのお札をもらったって形だけにしかすぎないから、そんなものはご遠慮しますよ、と断られてしまうわけです。
これが非常に一遍にとってはショックだったみたいです。ところがその日の夜に、夢にこの熊野の大権現、神様が夢の中に現れて、そして一遍に語りかけるわけです。その言葉が「一遍上人全集」という本の中に書かれています。一遍上人全集の聖絵、春秋社の全集の中のページ数です。(下記資料参照)
一遍のことに関して書いてあって、後ろにページ数をふってあるのは、岩波から出ている「日本思想体系」ですね。一遍のところのページ数ですので、もしもう少し詳しく、そこを見たいと思われる方はこの春秋社から出ている「一遍上人全集」とか、あるいは岩波から出ている「思想大系」の一遍の入っている巻のページ数を見ていただくと探すことができます。
そこのところなんですが、少し読んでみますと、大権現が言うには、「融通念仏すゝむる聖」、つまり一遍に向かって「いかに念仏をば悪しくすゝめられるぞ。」、あなたの念仏の勧め方は根本的に間違っていますよ。何が間違っているかというと、「御房のすゝめによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず。」、あなたが念仏が大事ですよ、念仏こそあなたを救う道ですよ、そういって勧められて念仏に目覚めるわけじやないんですよ。
ところがそう思って勧めている。そこが根本的に誤っているんですよ、というふうに夢の中で神様が語りかけるんです。「阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」というふうに熊野権現がお告げをしたというんです。
つまりあなたが勧めて、念仏をしようという気持ちが起こるんじゃないんですよ。一切衆生が救われるということは、もう決まっていることなんですよ。阿弥陀様の力で決まっているんですよ。あなたはその喜びを人々に伝えるだけでいいんですよ。
そこで本当に念仏に目覚める、なんていうことはあなたの力で成されるようなことじやないんですよ、ところがそこを思い違いしていますよ、と言われたんです。
これはたとえば、皆さん先生の経験があると思うのですが、自分が子どもに教えるわけじやない。根本は、子どもが自分で目覚めるんですよ。ところが先生にとっては、たいていは自分よりもずっと年下の子どもたちが生徒ですよね。だからつい教えるという気持ちになってしまうんですよ。
でも根本は自分の力でわかるんです。自分の力で伸びてくるんです。そこを私がお前に教えてやる、とやると、どうもうまく自分の言葉が伝わらない。何とかその人の持っている自分で伸びたい、自分でわかりたい、そういう気持ちをどうやって支えてあげるかということで、初めて教育ということが成り立つという、そんなふうにも読み替えることができるようなちょっと面白い参考になる話です。
一旦これで一遍はかなりいいところをつかんだと思うんです。さらに熊野に参堂していたときに、御示現にいはく「心品(しんぼん)のさばくり有べからず」。「さばくり」というのは是非善悪の修行ということです。是非善悪。つまり先ほど言いました、良寛で言えば是非を越えなさいよ、ということ。「心品のさばくり有べからず。此心はよき時もあしき時も迷なる故に、出離の要とはならず」。
人間の心というものは、自分の心でこれがいいとか悪いとか、人間は当然考えて当然色んな事をやるわけですよね。でも突き詰めて言えばこんな心、善し悪しを判断する心、これは出離の要にはならない。
それは、この是非を越えるときの力にはならない。一番根本は「南無阿弥陀仏が往生するなり」。そういうお告げを受けるわけです。これで一遍はつい・に自分の心に何か確かなものをつかんだというふうに考えるわけです。「南無阿弥陀仏が往生するなり」というのが根本だ。ですからお札の話ともつながっていく話ですね。
それでこの熊野から和歌山に行ったときにある禅僧のもとに立ち寄ります。このときに禅僧が一遍に向かって問いかけます。『無門関』というタイトルの禅問答を書いた本があります。いかにも禅的ですよね。門がないのに門がある。その門を越えてみよというのが「無門関」。禅問答がたくさん書かれているんです。
「無門関」の中で「念起即覚」という話があります。実は心の問題になるわけですが、その念起即覚という話を禅の師匠が話をして、一遍の心境を言葉にしてみろというわけです。そこでそれを受け入れて一遍は「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」。今自分の世界は「南無阿弥陀仏が往生するなり」という世界だ、念仏を唱えるその時に自分はもういなくなってしまって、南無阿弥陀仏の声ばかりが聞こえていますよ。声の響きが自分の世界ですよ、と言ったんです。
ところがこの禅宗の老師はまだ徹底していない、というわけです。そこで一遍ははたと気がついて歌を作り直します。「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀なむあみだ仏」と答えたんです。「南無阿弥陀仏の声ばかりにして」というのは、まだ自分とそれから阿弥陀仏と、まだ別なんです。
しかしもう完全に自分は消えてしまって、自分の命が阿弥陀様の命だ。阿弥陀様の命を自分が生きているんだ。もう声を聞くとかという仕方で離れていない。一つになっている。だから「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」、もうそこしかない、そこは徹底した世界ですよ、と言い換えて、それで印可の証をもらった。これでついにこの歌でもって、一遍は自分の世界を自分のものにしたと言っていいと思うんです。
※ 資料
「一念の信心をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給ふべし」と。僧云く、「いま一念の信心おこり侍らず。うけば妄語なるべし」とてうけず。‥「権現にておはしましけるよ」‥「融通念仏すゝむる聖いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」としめし給う。(聖絵18頁『一遍上人全県』春秋社)
熊野参籠の時、御示現にいはく、「心品のさばくり有べからず。此心は、よき時もあしき時も迷なる故に、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生するなり」と云云。我此時より自力の意楽をば捨果たり。(343)
「宝満寺にて、由良の法燈国師に参禅し給ひけるに、国師、念起即覚の話を挙せられければ、上人かく読て呈したまひける
となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして
国師、此歌を聞きて、「未徹在」とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾・薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん
となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」(319)
(鎌倉の法難1282)「汝徒衆をひきぐする事ひとへに名聞のためなり。制止にかゝへられず乱入する事、こゝろえがJ
たし」‥「念仏勧進をわがいのちとす。しかるをかくのごとくいましめられば、いづれのところへかゆくべき。こゝにて臨喜
終すべし」(聖絵41貢、思想体系347)
※ 無門関の『禅箴』に関しては、「或る禅僧の箴言(2)」(つらつら日暮らし)で『禅箴』が詳しく解説されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、「一輪の花」という言葉というよりも、その姿、立ち姿が好きです。青山俊董先生のお話等を聞き好きになったのかもしれません。
今朝の写真は、青山先生の著書『道を求めて』(主婦の友社)から拝借しました。拝借ついでではありませんが、尾の写真の頁にとても素敵な文章がありますので、今朝はとても長い話になりますが、その文章も紹介したいと思います。
野にあるように---いれさせていただく
利休様は茶花の入れようを、「花は野にあるように」と示された。私はこの一言に、人
間のこざかしい作為をかなぐり捨てで、大自然の前にひぎまずく利休様の姿を見る。
茶花は「活(い)ける」とはいわない。「入れる」という。「活ける」という言葉には、おのれ技を恃(たの)む人間が、花の前に立ちはだかり、花は人間の妄想の後ろに影をひそめてしまっている。
「入れる」というところには、入れる者の姿はなく、あるものは花のみ。それが野にあるように入れるという花の、願わしき婆なのではなかろうか。
「お花の入れ方を教えてくだきい」という人に私は言う。「お花に尋ねなさい」と。
不慮の事故で手足の自由を失い、ロに筆をくわえて詩や花を描きつづけている星野富弘さんの詩に「この花を描いてやろうなどと思っていたことを高慢に感じた。”花に描かせてもらおう”と思った」というのがある。
私も「花に入れさせていただく」、そんな思いで、花の前にひざまずくのみである。
花材 梅鉢草
花器 瓢形水滴
http://philosophy.blogmura.com/buddhism/ このブログは、ブログ村に参加しています。
※写真は、一輪の花ではない、と思いますか。