Sightsong

自縄自縛日記

『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』

2009-04-08 00:51:51 | 中国・四国

この間赤坂で飲んでいたとき、記者のDさんに教えてもらった本。Chim↑Pom・阿部謙一・編『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(河出書房新社、2009年)は、アーティスト集団のChim↑Pom(チンポム・・・発音したくないが、それも視野に入っているのだろう)が、昨年やってしまったハプニングによる波及に関して、分析をよせ集めたものだ。分析といっても、印象批評のようなものが多い。

何のハプニングかといえば、この表紙に再現されている通りだ。突然、晴天の広島の空に、チャーターした飛行機で「ピカッ」という字を描いてしまったのである。私としては、酔いかけているところで、ああそんな報道があった気がするなという程度。しかし、ヒロシマでの行動であるから、新聞やネットでの感情的な、あるいは右に倣えのバッシングが燃え上がったという次第のようだ。これに対し、Chim↑Pomは謝罪をした。

多くの方が本書で述べていることは、かなり重複していたり、別の結論を提示していたりして興味深い。例えば。

― 蔡國強(ツァイ・グオチャン)がやはり2008年に行ったプロジェクト「黒い花火:広島のためのプロジェクト」では、原爆ドームの脇で黒い花火を打ち上げた。原爆被害を前提にした行動であることは共通しているが、蔡の場合には、予め被爆者団体に説明をし、意図を納得してもらっていた。それがなかったChim↑Pomについては責められるべきだ。あるいは、謝るくらいならこのようなハプニングの形をとるべきではなかった。
― 蔡が賞賛されるのは、それにも増して、国際的に評価されているアーティストだからだ。しかし、何かを打ち砕く力、しこりとなって持続する力は、Chim↑Pomの方が強い。あるいは、アートとしての昇華度は蔡を凌駕するようなものではない。
― スベって不快で脱力するような時空間の残り滓がChim↑Pomの存在価値である。その意味で、やったことも、あとで謝罪したことも、中途半端だった。

蔡のことはともかく、さまざまな考えがぽこぽこと湧き出てくること自体が、このハプニングの意義だったのかなと(結果的には)思える。アーティストの社会性といったところで、その言葉が矛盾そのものかもしれない。「やって良いことと悪いこととがある」という言葉も、そのバウンダリ内から外には出てこない。

それだけに、Chim↑Pom自らが、正直な言葉で被爆者団体との対話で得た感動などを綴るのはあまりにも予定調和、この本になくてもよかったという読後の印象。

ところで本質的ではない話。北京五輪開会式で、空に花火で描かれた足跡はテレビではCGが放送され、後で騙されたという雰囲気になった。この演出は張芸謀(チャン・イーモウ)が手がけたものだが、実は、美術監督を蔡國強が担当していたということだ。知らなかった―――のはむしろ当然で、ほとんどメディアで意図的に報道されてなかったらしい。その件について、本書にも書いている楠見清氏のブログ「I Get Around The Media 楠見清のメディア回游」にあれこれ推察があった。89年の天安門事件に衝撃を受け、犠牲者への鎮魂と祈りをアートを通じて表現した蔡でさえ、国威発揚につながってしまうのだ。


1996年の「キノコ雲のある世紀」プロジェクトを実践する蔡を表紙にした『美術手帖』(1999年3月)

●参照
燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展


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