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自縄自縛日記

シンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」

2014-01-19 10:16:00 | 政治

上智大学に足を運び、シンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」(2014/1/28)を聴講した(午前の部のみ)。

なぜ間接民主制やメディアが機能不全に陥っているのか、また、経済的・社会的格差や狭隘なナショナリズムが拡がっているのか、といった問題意識によって開かれたものである。

※以下、発言要旨は当方の解釈に基づくもの

■ コリン・クラウチ(ウォーリック大学名誉教授) 「(社会)民主主義の問題について:ヨーロッパからのひとつの視点」

【要旨】
新自由主義は市場の力が経済社会を支配すべきという考え方なのかもしれないが、実のところ、新自由主義的な政策を標榜する政党が、国政において多数派になることは少ない。米国共和党は、キリスト教や右派と組まないと政権運営できない。英国保守党も、反自由主義的な力と組まなければならない。日本の自民党については、新自由主義があまり多くの支持を得ておらず、ナショナリズムとおかしな関係を組んでいるように見える。
民主主義のダイナミックなエネルギーは、いまや消えてきている。その代わりに、政治が、政治エリートによって決められている。これは長期的利益を損なうものだ。
○公共サービスの民営化によって、確かに市場が生まれるが、それは真の市場ではない。オカネを払うのは直接の受益者ではなく政府である。
○民主主義に対抗するものは企業の富であり、企業は市場だけでなく政治を通じて権力を発揮している。すなわち、新自由主義は、政治との関係が深いという点で、アダム・スミスが信じたような姿とは異なっている。
グローバリゼーションには、もちろん、メリットもある。しかしその初期段階においては、不平等を悪化させる。
○先進国において、グローバリゼーションにより、製造業が衰退し、発言力を持っていた組織的な労働力も弱まってしまった。ポスト産業社会には、まとまった力としてたたかう経験がない(マイノリティ運動などを除いて)。ならば、どのようにして民主主義的な力を組織化して企業の力に抗するべきなのか。
○いまの若い層は、選挙やそのための動員、政党支持など、従来タイプの民主主義を受容しなくなっている。新しいタイプの民主主義の再定義が必要である。もっと非公式的、柔軟的でなければならない。そのためには、市民が「お互いに必要」だということを認めないと、企業の大きな力に対抗できないだろう。

【講演を聴いて】
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』)は、強者の権力独占やナショナリズムとの結託を、ここでクラウチ氏が説くような新自由主義の弊害というよりも、さらに、新自由主義の本質として丹念に説いている。
○弊害にしても構造的なものだとしても、陰謀論への押し込めは何も生むことがない(それは結果論である)(『情況』2008年7月号、「ハーヴェイをどう読むか」)。
○政治エリートによる政策実現のスピードアップ(同時に、異なる意見の切り捨て)は、日本においては、意図的に進められてきた。1994年、細川政権での選挙制度改革を主導した小沢一郎が指向した二大政党制は、それにより権力を得る政治集団の決定力を増やすためのものだった。小沢にとっては強い政治的リーダーシップの創出こそが狙いであったのであり、彼の中では「政治の主役は有権者ではなく政治家であり、民意の代表は二義的な問題に過ぎない」。一方、細川護煕は「穏健な多党制」を指向しており、二大政党制を過渡的なものとして捉えていた。しかし、のちにこのことを悔んでいる。(中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』
○何十年もかけてじっくりと進められてきた「政治エリート独裁」を、いまになって簡単に変えうるわけはない。
○クラウチ氏による「別のかたちの民主主義」は、アントニオ・ネグリスラヴォイ・ジジェクが口走り続けるのと同様に、まだ抽象的なものではあるが、ここに問題解決に向けた突破口であることがコンセンサスになっている。(これも、マルチチュードと口走るのは簡単ではあるが。)

【参照】
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』2008年7月号、「ハーヴェイをどう読むか」
中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』
アントニオ・ネグリ講演『マルチチュードと権力 3.11以降の世界』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)
スラヴォイ・ジジェク『2011 危うく夢見た一年』
スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』
スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』

 

■ エイミー・グッドマン(デモクラシー・ナウ!ジャーナリスト) 「サイレンスト・マジョリティ(物言わぬ多数派):蜂起と占拠と抵抗、そして希望」

【要旨】
○民主主義は、企業によって運営されていない独立系メディアによって機能する。
○米国でも、KKKによって、氏の活動したパシフィカ・ラジオが爆破されたことがある。これは、独立系メディアの持つ力を認めていたことに他ならない。個人が自分自身の経験を語ることこそ、もっとも説得力を持つものだ。
○日本への原爆投下後、その被害状況を対外的に発信することについて、ダグラス・マッカーサーが反対した。だが、広島には投下1か月後にオーストラリアのジャーナリストが苦労して入り、実状を報道した。また、長崎にはシカゴのジャーナリストであるジョージ・ウェラーが入り、ルポを書いたが、米軍に検閲され、その内容は本人の死後まで公表されることがなかった。
○NYタイムスのウィリアム・ローレンスは、軍からのオカネと圧力を受けて、放射能の影響を過小評価する文章を書き続けた。しかし、彼は実状を知っていただろう。彼の受けたピューリッツァー賞は剥奪されるべきである。
ノーム・チョムスキーは、「メディアは合議を形成する」と言った。イラク戦争でのメディア上の世論もそのように形成された。メディアは、ほんらい、民主主義の中で草の根の人々に声を与えなければならない。
○「デモクラシー・ナウ」は、さまざまな実績をあげてきた。エジプト革命においてタハリール広場に集まった人々の声をインターネットで発信したこと、米国のオキュパイ運動を発信したこと、東チモール独立運動に対するインドネシア軍の虐殺行為(サンタクルス事件、1991年)を発信したこと。
○サンタクルス事件においては、スハルト大統領は、米国と相談のうえ事を起こした。インドネシア軍の兵士訓練や武器供与も米国によってなされたものだった。取材活動のとき、オーストラリア人がインドネシア軍によって殺されたが、自分は「オーストラリア人か」と訊かれ、「アメリカ人だ」と答えた。これが生死を分けたのだろう。しかし、オーストラリア政府も、自国のジャーナリストが殺されたにも関わらず、インドネシアに抗議をしなかった。東チモールの石油利権などがその理由だっただろう。

【講演を聴いて】
○大手メディアの報道姿勢が問題視されている現在、とても重要な活動。
○(あまり知らないのだが)日本では、企業のスポンサーを排して良心的な発信を行おうとする活動が、経済的に立ちいかなくなるケースがあった(JanJanなど)。この日の午後の部では、現在の状況について発言がなされたはずで、後で可能なら読んでみたい。

【参照】
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』(オキュパイ運動)

 

■ 中野晃一(上智大学グローバル・コンサーン研究所所長)

【要旨】
○現在の政治経済は、政治的な「非自由主義」と、経済的な「自由主義」とによって駆動されている。特に後者については、本来の自由主義ではないという点から、括弧付きで呼ばれるべきものだ。
○日本は英米とは異なり、近代化を国家がリードして行った(国家保守主義)。そのプロセスにおいて、国家の介入が批判されることは希薄であった。すなわち、日本のリベラリズムの歴史は浅い。
○1980年代後半から小沢、橋本、その後小泉といった政治家によって進められた「政治改革」においては、建前としては、政府の説明責任や民営化が押し出された。しかし、結果として権力の集中を生んだ。
○この20年間で、国会における左派の割合が激減している。保守国家の独裁体制である。しかし、日本人はこのようなことに無知である。
○また、貧困の拡大、企業の力の拡大、軍事活動の拡大といった問題が顕著になってきている。
○大手メディアもそのような動きを許容したのだといえる。
○今後重要な2つのコンセプトは、「自由」と「連帯」である。「自由」は、クラウチ氏の言うように、いわゆる「自由市場」にはない。また、「連帯」については、ナショナリズムにハイジャックされたアイデンティティの政治に組み込まれることがないようにしなければならない。


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