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自縄自縛日記

フィローノフ、マレーヴィチ、ピロスマニ 『青春のロシア・アヴァンギャルド』

2008-08-16 23:18:32 | 北アジア・中央アジア

会期終了ぎりぎりに、『青春のロシア・アヴァンギャルド』(Bunkamura ザ・ミュージアム)を観た。ロシア・アヴァンギャルド好きなのだ。

何といってもカジミール・マレーヴィチ。いわゆるスプレマティズムの、空間に歪んだ矩形が構成されているものも悪くないが、農民たちを描いた作品群に眼が悦ぶ。ベビーカーを押しながら、「カッコいいねえ」「いやたまらないねえ」を連発してしまう。すべてを超越するかのように手足をなす円錐のすばらしさだ。イタリア未来派とも共通する、複眼で爆発を眺めるような作品もとてもいい。

グルジアの画家、ニコ・ピロスマニの作品をまとめて観られることも、あまりないことにちがいない。のちの画家が「発見」したのは、素朴さそのものよりも、そこからにじみ出る土着性だったのかなという印象だ。

それから、もっとも楽しみだったのが、幻の画家パーヴェル・フィローノフの作品だ。『11の顔のあるコンポジション』という作品1点のみだった。11の顔はシリアスでユーモラスなのだが、それ以上に、額が結晶化したような感覚、そして間を埋め尽くすミクロコスモスが圧倒的である。

「フィローノフによると、絵画芸術は「カノン(先見的なもの)」と「ザコン(有機的なもの)」に区別され、いまめざすべき芸術は、当然のことながら、後者すなわち宇宙と人間の一体性、そしてその有機的全体性の表現ということになる。それはどうすれば可能となるか。
 フィローノフは書いている。「私は直感する。いかなるオブジェも、フォルムと色彩という二つの述語しかもたないわけではなく、可視ないし不可視の現象、それらの流出、反応、連係、発生、存在、これまた無数の述語をもつ既知ないし未知の特質の全き世界がある、ということ」。非常にわかりにくい文章だが、フィローノフがここでいわんとしているのは、すべてのオブジェはその外観の背後にきわめて多様な存在の可能性をひめており、それらの可能性をもふくめた全存在が絵画という表象行為の対象となるべきだ、ということである。つまり、自然の、生命のエネルギー状態そのものを描きとること。」

(亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波新書、1996年)

 フィローノフは生前ろくな評価を受けず、社会主義リアリズム絵画しか認めないという当局の圧力を受けて右往左往した挙句、孤立し、1941年、ドイツ包囲下のレニングラードで忘れ去られ餓死した。

●リンク
パーベル・フィローノフ
ニコ・ピロスマニ


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