Sightsong

自縄自縛日記

保阪正康『日本原爆開発秘録』

2015-07-18 03:33:16 | 環境・自然

保阪正康『日本原爆開発秘録』(新潮文庫、原著2012年)を読む。

あまり知られていないことだが、日本では、戦中に原爆の開発が進められていた(山本義隆『原子・原子核・原子力』でも言及されている)。しかし、それは開発と言えるような水準のものではなかった。むしろ、工学の領域に入る前段階の基礎研究といったものに近かった。ウラン235の濃縮も中性子の生成もうまくいかなかった。

開発に関わった科学者たちの水準が低かったのではない。陸軍が抱えた理化学研究所では、仁科芳雄をリーダーとして、湯川秀樹、朝永振一郎らが在籍し、東京帝大の嵯峨根遼吉らと連携した(長崎への原爆投下後、アメリカの科学者たちから嵯峨根宛てに戦争を止めるよう書いたメッセージが投下されたことは有名である)。また、海軍が抱えた京都帝大にはやはり湯川秀樹が在籍し長岡半太郎や仁科芳雄らと連携した。重なるメンバーもいるが、基本的には、仲の悪い陸軍・海軍それぞれで予算を付けて研究を進めさせた。

このように世界的にもトップ水準の頭脳がいても、もっと資本を投入し、国家を挙げたプロジェクトチームを作らなければ、理学から工学へと突き進み、「悪魔の兵器」を製造することなどできなかった。それが可能なのはアメリカだけであった(マンハッタン計画)。

しかし、仁科らは、日本軍が期待するような短期間で原爆の開発を行うことなど不可能だと知っていた。それを認識しながら、自由な研究活動と予算を確保できる体制を選んだということだ。広島への原爆投下後、仁科はすぐにそれを原爆であると悟ったという。しかし、陸軍に対し、このまま戦争を続けていてはさらに原爆が投下される可能性があることを、進言することはなかった。

理化学研究所には、陸軍から、国内でウラン鉱石を探索するよう指示があった。福島県の石川町では、ウラン鉱がある可能性など限りなく低いにも関わらず、中学生(現在の高校生)が足を血だらけにしながら、敗戦まで、採掘した石を運び続けたという。胸が痛くなる史実だ。

科学者たちは、原爆製造など日本では不可能と知りながら体制を利用して研究を続け、一方では、将来のエネルギー源としての可能性を口にしていたという。戦後の「原子力の平和利用」につながる芽を、ここに見ることができる。実態を理解できない日本軍は、とにかく敵国にダメージを与える大量破壊兵器の完成を切望し、さらに噂となって(マッチ箱程度のもので大都市を殲滅しうる、というような)、不利な戦局打開を望む世論とも同調した。そして、戦後、「原子力の平和利用」の名のもとに、実に奇妙な政治主導が行われた。「平和」という曖昧なイメージによって個々の問題を糊塗するあり方は、「大東亜共栄圏」と本質的に同じだというのが、著者の見立てである。

すなわち、戦前から戦後の原子力技術開発の変遷を見ていくことで、科学者、市民、軍の倫理意識が垣間見えるわけである。

●参照
山本義隆『原子・原子核・原子力』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
太田昌克『日米<核>同盟』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。