土田ヒロミさんによる、福島をテーマにした作品展が2箇所で開かれている。
■ 『フクシマ』 (銀座ニコンサロン)
人がほとんどいない家、山、道、野。
作品には、日時、緯度、経度、標高、放射線量が付され、ものによっては、写真の中に薄い字で線量や「FUKUSHIMA」の字が重ねあわされている。そして、まったく同じ場所での定点観測としての複数の組み合わせもある。
■ 『フクシマ2』 (photographers' gallery)
ふたつの部屋。
片方では、3方向に向けられたモニターで、「森」、「野」、「街」と題された映像がずっと流されている。やはり人がほとんどおらず、たまに、崩れた家や、除染作業の重機や、警察のパトカーが見える。森には牛がいる。
もう片方では、写真のスライドショー。BGMとして東北民謡が流されている。やはり、美しい自然風景の中に、時折サブリミナルのように浮かび上がる「FUKUSHIMA」の文字。スクリーンの手前には、除染後の廃棄物を意識したのであろう、黒い風船が多数置かれている。
これらの作品群をどう捉えるべきか。
もちろん、鑑賞者に、被災地に関する事前情報があることを大前提としている。そして、線量や日時の情報も、黒い風船も、「FUKUSHIMA」という写真内の文字も、とても俗であり、スペクタクルである。
しかし、写真家は、そのことを明らかに意識した上で、方法論として出してきたのだろうと思える。そのことを意識に置いて観ても、やはり、息を呑んで、写真や映像を凝視してしまう。ひょっとしたら、「FUKUSHIMA」が、山中の「HOLLYWOOD」という文字を思わせることは、半分は、方法論を自覚していることを示さんとしてのものかもしれない。
●参照
○『土田ヒロミのニッポン』
○鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
○鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』