Sightsong

自縄自縛日記

吉本隆明『カール・マルクス』

2012-03-21 01:09:24 | 思想・文学

吉本隆明が亡くなった。といって、さほど彼の思想に傾倒していたわけではない。

大学生の頃に解らないながら解ろうとした『共同幻想論』、それから面白かったのは、独自な宮沢賢治論、埴谷雄高論、沖縄論。洒脱で力がほどよく抜けたエッセイも好きだった。落合博満をこれ以上ないほど高く評価していたことも記憶に残っている。逆に、何でそんなことを言うのか理解に苦しむ発言もあった。

そんなわけで、積んだままだった『カール・マルクス』(試行出版部、1966年)を取り出して読む。

マルクスが「千年にひとり」の思想家として成し遂げたこと。それは共産主義への理論的な力を与えたことではない。何の変哲もない自己や社会から国家や法が理念として表象されたとき、そこには<疎外>が生じる。それは自然と人間との操作関係、市民社会の中での階級関係においても出現する。<疎外>とは、労働や階級のみを語るためのものではなかった。

何らかの関係性を創りだすとき、それは生来の自然なものではありえず、いずれ外部性が介在する。貨幣であれ、労働の商品価値であれ、そのような考え方の延長である。

こんなところだと思うが、これしきのことを言うために何頁を使っているのか。編集者のSさんが書いていて(>> リンク)、そうだよなあと共感してしまったことがそのまま当てはまる。しかも少なくない割合が、マルクスの本質を理解しようとしない左翼や学者への嫌悪・悪罵にさかれている。彼らの小癪なレトリックを批判している割には、自らが小細工を弄し続けているのである。

自分にとっての吉本隆明の魅力は、本質と思われる部分をざっくりと一刀両断する眼力と、その過程でのテキストを味わうことの快楽。ここにはそのどちらもない。

●参照
吉本隆明のざっくり感(『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』)
吉本隆明『南島論』