熊本城の軒瓦--桔梗紋(熊本市HPより引用)
細川内膳家とは忠興の嫡男・忠隆の家系をさす。忠隆の孫に当る四代目・忠孝が内膳を名乗り、後代々の当主が内膳を名乗ったことからそう呼ばれている。
昨日土岐(明智)系図についてコメントしたが、ガラシャ夫人の血を間違いなく純粋に受け継いでいるのがこの内膳家である。そして家紋は桔梗紋である。
忠興は忠隆を廃嫡後二十年程会うことを避けていたが(?)、寛永三年に再会この折に九曜紋を定紋とすることを認めている。「肥陽諸士鑑」はずっと後の時代のものだが、ここには紋は「桔梗紋」が記されている。しかし「明智桔梗」とよばれる桔梗紋ではなく、いかにも桔梗の花を思わせる「陰桔梗紋(?)」である。熊本城の軒瓦も桔梗紋(加藤家紋--旧・尾藤家の紋)だが、内膳家の紋によく似ていて、我々がよく承知している桔梗紋とは少し趣を異にして入る。
【余談】 忠興は八代城を忠隆に継がせようとしている。しかし忠隆はこれを断っている。徳川家家臣となるべく忠利・光尚に尽力を頼んで進捗していたが、忠隆の死去(正保三年)に伴い頓挫してしまった。遣命により嫡男・忠恒(二代)、二男・忠春(三代)は家臣として仕える事になる。男系でガラシャの血は現在に受け継がれている。
細川内膳家とは忠興の嫡男・忠隆の家系をさす。忠隆の孫に当る四代目・忠孝が内膳を名乗り、後代々の当主が内膳を名乗ったことからそう呼ばれている。
昨日土岐(明智)系図についてコメントしたが、ガラシャ夫人の血を間違いなく純粋に受け継いでいるのがこの内膳家である。そして家紋は桔梗紋である。
忠興は忠隆を廃嫡後二十年程会うことを避けていたが(?)、寛永三年に再会この折に九曜紋を定紋とすることを認めている。「肥陽諸士鑑」はずっと後の時代のものだが、ここには紋は「桔梗紋」が記されている。しかし「明智桔梗」とよばれる桔梗紋ではなく、いかにも桔梗の花を思わせる「陰桔梗紋(?)」である。熊本城の軒瓦も桔梗紋(加藤家紋--旧・尾藤家の紋)だが、内膳家の紋によく似ていて、我々がよく承知している桔梗紋とは少し趣を異にして入る。
【余談】 忠興は八代城を忠隆に継がせようとしている。しかし忠隆はこれを断っている。徳川家家臣となるべく忠利・光尚に尽力を頼んで進捗していたが、忠隆の死去(正保三年)に伴い頓挫してしまった。遣命により嫡男・忠恒(二代)、二男・忠春(三代)は家臣として仕える事になる。男系でガラシャの血は現在に受け継がれている。