津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■TV番組から

2015-04-28 16:26:33 | 先祖附

一休みしようとTVを付けたら、熊本朝日放送でタイミングよく(16:10頃)「川尻の歴史」が放映されていた。

いろいろ画面を見ながら紹介する中でクイズが出された。
     Ⅰ 明治期に船着き場に造られたレンガ造りの建物の用途は?
     Ⅱ 川尻の船着き場から御船手に8番線(電線)が張られたがその使い道は?
     Ⅲ 某氏がお持ちの寺子屋の手本に書かれた、入塾の覚悟とは?  「  」が「  」の覚悟
     Ⅳ 20万俵の内5万俵を城下に運んだが(15万俵は大坂へ)その主たる運搬方法は?

Ⅰ これは公衆トイレである。初めてここを訪れた時素晴らしいデザインの小さな建物を見て、なおかつこれがトイレだとしって仰天したことを覚えている。

                          

                   メインサイト http://www.shinshindoh.com/yasumi-kawashiri.html 掲載

Ⅱ これは推測で答えたら正解。流れの速い川を流されずに電線をつたって船を横断させた。
Ⅲ これはまったく判らなかったが、「武士が戦場に臨む覚悟」なのだそうな・・・・・
Ⅳ これは馬(2俵)又は水運(約40俵)で運んだそうだが、川尻から広い処では20メートルほども水路を両岸から綱を引いて白川に至ったという。
  これにはいささか疑義を申し立てたい。
  かって ■白川--川尻間の水路開削中止  ■白川--川尻間の水路開削中止 (續) で書いた通りなのだが、「川尻町史」から引用したとしている。
  早速調べなければならない。
  
察するところ薄場橋の下流で大きく右折する流路の左岸から上の郷あたりを、旧道に添って川尻に至る水路がかっての水運路であったのではない
  かと考えているのだが如何・・・

 


 

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■忠利夫人千代姫様

2015-04-28 08:27:03 | 史料

 忠利が千代姫と結婚したのは慶長十四年(1609)の事である。忠利24歳、千代姫14歳である。千代姫は小笠原秀政と家康長男・信康女の娘であり、秀忠の養女として細川家に入った。秀忠から1,000石、忠興から5,000石の化粧料が与えられた。当時はまだ正室の江戸住まいは義務つけられておらず、千代姫は江戸から豊前中津へ下った。大名妻子の江戸居住が求められ、千代姫が小倉を出立したのは元和九年(1623)十月の事であり、14年に及ぶ豊前での生活であった。その間元和五年には嫡子光尚を出産している。

江戸へ旅立つ直前のあわただしい時期の面白い記事がある。千代姫の家臣に対する貸米・貸銀に関するものだが、出立するに当たり精算が図られたものであろう。
    九月十三日矢野利齊奉り
  一、御上様之御米、元十石、先年小林勘右衛門ニ借被下候ヲ、于近、元利共返上不仕候間、元分十石ハ、
    従 殿様御米ニて、被返進候間、来年ヨリハ、御上様御米ヲ相加へ、借付可申事
    同日、同人奉り                                               元利共ニ
  一、御上様御銀子、窪田善介ニ、先年借被下候ヲ、年々相調、残未進御座候ヲ、殿様御銀子ニテて、○
    御返進被成候算用ニして、来年ヨリハ、御上様御■■銀子ニ加へ、借付可申事           (福岡県史 近世史料編・細川小倉藩・三 p245)

小林勘右衛門の借米と窪田善介の借銀の残りは忠利が精算をし、千代姫の借米・借銀を完済した形をとっている。当然ながら両人は残分を殿さまに返すことに成る。その後も千代姫の財産は運用が続けられるようだ。というよりも厳しい財政状況にある細川家に於いては、千代姫の財産をも拝借を願わなければならなかったということでもある。
   

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