津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一年後は薬師寺

2015-04-22 22:04:25 | 先祖附
 
細川元首相の襖絵公開 京都・建仁寺で特別展

細川元首相の襖絵公開 京都・建仁寺で特別展   朝日新聞デジタル 久保智祥2014年4月21日23時12分                   ...
 

 ちょうど一年前の記事である。細川護煕様の襖絵が京都建仁寺で公開された。

一昨日薬師寺に於いて護煕様のやはり襖絵が薬師寺で公開された記事が発表されていた。不思議な巡り合わせ、それにしてもそのご活躍ぶりにはおどろかされる。

 

細川元首相、薬師寺に襖絵など奉納へ…下絵公開   2015年04月19日 15時32分

  • 下絵に見入る細川さん(奈良市の薬師寺で)
    下絵に見入る細川さん(奈良市の薬師寺で) 

 奈良市の薬師寺で18日、元首相の細川護煕さん(77)が、同寺慈恩殿じおんでんに奉納する襖絵ふすまえと障壁画の下絵を報道陣に披露した。

 22面に天女や楽人を華やかに描いており、19日~5月10日に一般公開される。入場無料。

 細川さんは、山田法胤ほういん管主からの依頼を受けて、2013年から東京都内のアトリエで制作を開始。同寺ゆかりの玄奘三蔵が旅したシルクロードをイメージして、中国・西安の石仏に描かれた天女や正倉院宝物を参考に、異国情緒あふれる作品を描きあげた。

 本画は17年4月に完成予定で、下絵を目にした山田管主は「国際性豊かな西域を感じてもらえる空間になるだろう」と期待。細川さんは「大作なのでやりがいがある。試行錯誤を続けてよりよい作品を完成させたい」と意気込んでいた。

 19日、29日、5月5日の午前11時と午後2時には、細川さんによる作品解説もある。問い合わせは同寺(0742・33・6001)。

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■黒鍬衆は隠密・・・?

2015-04-22 06:53:34 | 歴史

                                                               細川家白銀邸の前に魚籃観音がある。右下にあるのは田町邸。

 江戸白銀の細川家下屋敷の近くに徳川家の黒鍬衆の屋敷がある。「 魚籃坂下交差点を桜田通りに左折すると右手一帯」である。
この黒鍬衆については、その発祥は細川家の松井氏だとする記述が綿考輯録にある。
天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。
このことから黒鍬衆は工兵隊といった意味合いを持つ集団であることが判る。

「天草出身の忍びの者」でも書いたように、「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」によると、「忍之者」として七人の名前が挙げられている。
                       拾五石五人扶持     吉田助右衛門

                       同              野田喜兵衛
                       知行五十石        沢 吉右衛門
                       拾石二人扶持       福川小右衛門
                       同              松山小兵衛
                       同              下川嘉兵衛
                       同              上野又右衛門

忠利は肥後入国後どういう思いがあったのか、寛永十年忍之衆の増員を言いだしている。天草島原の乱を予見するような動きである。

       ■      覚
         一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
              寛永拾年九月十日
       
       ■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
         一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印

しかしながら天草島原の乱ではその働きはあまり芳しいものではなかったようである。

又、息・光尚公の時代になっても忍之衆は存在し、27人もいたことが「正保五年御扶持方御切米帳」によって確認できる。
この二つの史料の両方に名前が残っている人物は唯一、吉田助右衛門と云う人物である。両方とも筆頭に名前がある所を見ると「頭」でもあったのだろう。その後忍の者についての主だった情報は見えない。

熊本の城下にも黒鍬町があった。熊本地名研究会編著「くまもと城下の地名」において、「黒鍬町」の項を担当された小崎龍也氏は「細川藩にも隠密は居たであろうがその証はない」としながら、黒鍬衆を「隠密」だと断定しておられる。
「隠密=忍の者」かどうか浅学菲才の私には判断できないが、いずれにしても平和な時代に成ると無用の存在となったし、黒鍬衆とはまさしく土木工事に於いて知識や技能をたずさえ活躍をした一団だと私は理解している。 

コメント (2)
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