追憶の彼方。

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戦争責任…(4)日本を滅亡に導いた山縣有朋

2018年09月25日 | 政治・経済
 
明治維新以降の日本の形を造ったのは伊藤博文と山縣有朋と言っても過言ではない。
尊王思想を悪用して明治維新を成し遂げた薩長勢力は、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制=天皇制国家を形成した。尊王攘夷の元になった偏った排外主義を唱える国学者達が仏教は外来の宗教であり、神道から排除すべきであると「復古神道」を唱えた為、国家神道への道が開かれた。
明治維新政府は国学者を重用し明治元年にいきなり「神仏分離令」を出し、これによって各地で廃仏毀釈が行われ、その結果は日本史上最悪の文化破壊行為となった。
仏教寺院・仏像・経文の多くが破棄・破壊され、仏教伝来から既に千四百年近くも経って、宗教に留まらず風俗・習慣・道徳・規範、更には侘び寂びといったような日本の美意識に根ざす様な精神的諸要素まで含めた伝統文化の破壊活動が行われたのである。
テロリスト・タリバンがアフガニスタン等で行った貴重な仏像遺跡破壊は人類の世界遺産への冒涜であると世界中から非難を受けたが廃仏毀釈はそれを遥かに駕ぐ恥ずべき蛮行と言えるだろう。 伊勢神宮のお膝元伊勢国(三重県)では特に激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、寺院の数が300近くから15近くにまで減らされたとの記録があり、奈良興福寺の五重の塔も取り壊し費用が膨大だという理由で放置されたに過ぎないと言われている。

明治政府は欧米のキリスト教のように国民の精神的バックボーンが必要であるとして「皇室独自の宮中祭祀に則った単なる皇室の私的な神道」と「伊勢神宮の神社神道」を結びつけて新たな「政治の為の神道=国家神道」を造った。
仏教排除に加え、この新興宗教によって古来日本の庶民の間に根付いた八百万の神=「多神教」を、祭司にすぎなかった天皇を現人神とする「一神教」に変えようとして、明治憲法の天皇の告文等汎ゆる機会を捉えて国民の洗脳活動が始まったのである。特に幼児を中心に行われた教育は洗脳そのものであった。(この点は後述。)

吉田松陰の狂信的信奉者で高杉晋作の騎兵隊から頭角を現し「国軍の父」とまで言われる地位迄上り詰めた山縣有朋は松蔭の説く侵略主義・拡張主義を進めるためには国家を強兵路線による軍国主義化することが不可欠であるとして、その目的達成のため徹底的に天皇神格化による国家神道を利用した。
先ず廃藩置県により、各藩の私兵となっていたものを天皇の新兵とし、更に徴兵制を導入することにより、天皇を頂点とした中央集権国家に相応しい統一された軍隊をつくろうとした。そこで軍隊を政府の管轄ではなく、全く独立した天皇直属のものにした。日本陸海軍を天皇の直属に位置づけたのである。   
鎌倉幕府以降の「将軍と武士(御家人)の生死を懸けた職業軍人としての主従関係」が「天皇と徴兵制により強制された国民からなる兵隊の生死を懸けた主従関係」に置き換えられたのである。
否応無しに命じられた生死を懸けた主従関係、国民の不幸・多くの悲劇がここに始まったのである。

日本にも自由民権の思想が広がり始めてきたが、民主主義や自由民権思想といったものを己の理想の敵とみなし、恐れていた山縣は、民権党の暴動を見て、いよいよ民権思想の弾圧と抑止に取りかかる。まず民権党の暴動に軍隊の一部が加担していたこともあって軍部内の統制に取り組んだ。「軍人訓戒(後の軍人勅諭)」をつくり、忠実・勇敢・服従の軍人の精神として掲げた。上官への絶対服従(上官の命令は天皇の命令であると考えよ…というもの)、階級の秩序を乱さぬこと、民権思想の禁止など、軍人の言論、思想の自由を徹底的に抑圧した。天皇の名を使って薩長幕藩体制が自由に使える戦闘ロボットの育成を図ったのである。 (陰湿な性格の山縣はこれに飽き足らず軍隊の規律維持の為、憲兵隊まで作って監視を強めた。)
軍人勅諭は(現代語訳)…(我が国の軍隊は代々天皇が統率している。昔、神武天皇みずから大伴氏(古代の豪族)や物部氏(古代の豪族)の兵を率い、中国(当時の大和地方)に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経った。)
古事記や日本書紀の神話の話を持ち出し皇室神性の宣伝に努めるが、そもそも冒頭の(我が国の軍隊は代々天皇が統率している)という所から嘘で、軍隊を天皇が統率したのは維新後であり、しかも実態は天皇は傀儡であり薩長幕藩勢力が統率していたことになる。 
優秀な将校や特に陸軍(長州)と対立した海軍(薩摩)のトップは山縣の意図を見抜いていて覺めた目で見ており、暗唱するのを義務化していた陸軍とは異なり海軍ではその必要が無かったと記録されている。
続いて軍人勅諭は(そもそも、国家を保護し国家の権力を維持するのは兵力にあるのだから、兵力の勢いが弱くなったり強くなったりするのはまた国家の運命が盛んになったり衰えたりすることをわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ただただ一途に軍人として自分の義務である忠節を守り、義《(国家=天皇)に対して尽くす道)》は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい)…、私心をなくし公( 国家・天皇)に一身をささげて仕える所謂(滅私奉公)の精神が述べれている。
更に軍人が守るべき礼儀について(およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、官職の階級があり、同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければならない。下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。  また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはならない。おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別だが、その他は務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければならない。)
ここで述べられている(上官の命令は天皇の命令と心得よ)と絶対服従の心得を説き、理不尽な命令にも従って死地に赴かせ、下段の部下を慈しむというような心得は一切無視し陰湿な虐め・パワハラが行われていた事が多くの戦記に生々しく記されている。

山縣が作った軍人勅諭と教育勅語は天皇の言葉として「軍人としての精神の持ち方」と「国民としての精神の持ち方」を明らかにしたもので、天皇制国家を作るための精神的支柱として大きな働きをした。


戦争責任…(5)日本を滅亡に導いた山縣有朋 
       教育勅語等国民の洗脳活動
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戦争責任…(3)明治憲法の問題点と軍部

2018年09月15日 | 政治・経済
戦争責任…(3)明治憲法の問題点と軍部

明治維新の版籍奉還等の改革で政府の中枢は薩摩・長州・土佐・肥前の藩閥政治に移ったが大久保没後、土佐の板垣退助は自由民権運動に走り、肥前の大隈重信も早期国会開催を主張する民権派に同調したため長州の伊藤博文が大隈を罷免、薩摩・長州のノ中央集権体制が出来上がった。
以降総理は薩長の持ち回りとなったが大隈の失脚と松方正義のデフレ政策、銀本位制導入で経済も安定して来たため伊藤博文は予て検討を重ねてきた大日本帝国憲法を1889年2月に発布、翌明治23年11月29日には第1回帝国議会を開催した。
但し首相は今迄の黒田清隆(薩摩)、以降も薩長政治家トップが選んで天皇の名で指名された者が就任する薩長藩閥政治が続いた。国会で首相が選ばれるのは戦後、新憲法下に於いてである。

明治憲法本文前の「告文」には「自分(天皇)は、日本を作った正当な神の子孫として日本民族を永久に統治、君臨する。それは、自分の祖先である神の命令であり、逆らうことは許されない。そして、その統治のために、日本民族を臣民として自分の下に置き、従わせる為にこの憲法を作る。」と書かれており,憲法でも「神聖にして侵すべからぬ万世一系の天皇」が「大日本帝国を統治する」と規定し、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制を形成し、併せて水戸学の皇国史観を「正統な歴史観」として確立していく素地を造ったのである。
但し天皇は主権者ではなく「統治権の総攬者」即ち「国政のすべてを一手に掌握する者」と言う位置づけであり主権者は天皇を隠れ蓑にその後ろで実権を握る藩閥政治家達であった。この点に元々「天皇親政」など認める積りがなかった大久保たちの意向がよく出ている。
(木戸孝允等、薩長討幕派の志士は、尊王は建前だけで、天皇のことを将棋の「玉」と隠語で呼び、政権奪取の道具としてしか見てい無かったことが記録に残っている。更には太平洋戦争中、軍の将校達も天皇を「天さん」などと敬称で呼んでいなかった事がNHKスペシャルの映像記録で明らかになっている。)

しかも憲法上は立憲主義をとっているが、その憲法が天皇に天皇大権(統帥大権、非常大権、緊急命令発令大権、官制大権、戒厳大権)と言う絶対的権力を付与する規定を設け、政治は事実上薩長が行うと言うシステムを巧妙に造ったのである。
伊藤博文の(恐らく)意図に反する天皇大権の悪用・乱用が太平洋戦争・破滅への道へと繋がって行ったのは間違いない。
特に問題だったのは「統帥大権」「官制大権」で、「軍部は皇軍であり、天皇以外の指示は一切受けないという統帥大権」により国の暴力装置が国家権力を無視し暴走を始めることに繋がった。
又「国家の官庁の組織編成や人事権は天皇の専権事項であるから、天皇の官僚として天皇に代わって国民を統治する」と言う傲慢な意識が生じ国会の意見など無視する素地が出来上がった。
更に「緊急勅令」の大権によって憲法や法律の効力を停止し、国民の権利を自由に剥奪、停止出来ることになっていたので、昭和3年多くの反対を押し切ってかの悪名高い「治安維持法」が成立し戦争への道を切り開いて行ったのである。
戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」であった。大日本帝国憲法では、国務大臣は天皇を輔弼するものと規定されたが内閣・首相に関する規定がなく内閣官制で規定され内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるが憲法上は対等な地位で、「最終的な政治決断を下すのは誰か、天皇の統治権を輔弼する最高責任者が誰であるか」という点は極めて曖昧にされていた。これは伊藤博文が行政権を天皇に集中し首相には譲らないとしたことから生じた欠陥で軍部暴走の一因となった。
明治天皇崩御後は、明治帝の治政は(先例、慣例)として確立され、その後の天皇の言動に規制を課し天皇の名を借りた薩長の政治支配が継続されることとなったのである。


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戦争責任...(2)

2018年09月08日 | 政治・経済
戦争責任…(2)…天皇を利用し尽くした薩長政権

徳川末期、外国の開国圧力に抗しきれないと分った尊皇攘夷派は殖産振興・富国強兵策により列強による植民地化を防ごうと考えた。明治政府も日本の独立を守るための自衛のスローガンとしてこの政策をとったが征韓論や日清戦争の勝利を契機として領土拡張主義・覇権主義が前面に出てくる。
これは明治政府が長州閥中心であったことと大きく関係する。「明治維新の精神的支柱」と言われる吉田松陰は「幽閉録」の中で「急いで軍備を整えカムチャッカ、琉球(沖縄)、朝鮮、満州、台湾、ルソン諸島(フィリピン諸島)を支配下に置くべきだ」と述べている。この驚くべき侵略膨張主義の影響を受けた松蔭の塾生、伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、山縣有朋らが明治政府の中心人物だった事が富国強兵、大東亜共栄圏 太平洋戦争の悲劇へとつながって行ったのは当然の帰結であった。
とりわけ陸軍の基礎を築いたとされる山縣は松蔭に心酔していたと言われ、陸軍内部で松蔭の神格化を図りながら強力な軍閥を通じて松蔭の危険思想を現実化させた張本人ということができる。

尊王攘夷は武力で到底不可能と知った薩長連合は突然尊王倒幕に方針転換をした。
明治維新を成功させた薩長の下級武士集団は何の後ろ盾もなく、政治的求心力もなかった為、徳川幕府や佐幕派を打倒するには水戸学が広め幕末諸藩の中心思想となっていた大義名分論(臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指す)の尊皇論を利用して天皇を錦の御旗にする以外になかった。天皇を立てておきさえすれば大義名分が立つ。
当時の孝明天皇は公武合体論者であり薩長連合の倒幕運動に大きな障害となっていたが、突然35歳の若さで急逝した。岩倉・薩長連合による毒殺・惨殺説が消えないのはこのタイミングの良さからである。
新天皇は14歳で即位、当然政治的識見など持ち合わせず、政治的意志決定能力を欠いていた。倒幕派は幼い天皇を徹底的に利用し倒幕或いは維新革命の為にやりたい放題を行った。
江戸幕府最後の将軍且つ日本最後の征夷大将軍・徳川慶喜討伐の詔書、所謂倒幕の蜜勅が薩摩、長州両藩夫々に秘密裏に下賜された。しかしこの蜜勅、岩倉具視が主導して作成されたが朝廷会議にも付されず、天皇の裁可印もなかった。しかも署名者は光明天皇から蟄居を命じられていた中山忠能、失脚していた正親町三条実愛等,薩長の息のかかった公家達であったことから偽造説、或いは効力なしとの説が根強い。自分達の都合の良いように天皇の意思と称するものを勝手に作り上げ利用したのは間違いない。
倒幕の相手であった徳川慶喜は尊王論を生んだ水戸藩出身であり天皇という錦の御旗を得た倒幕派に敵対出来なかった為、強力な戦力・武力があったにも拘わらずこれを行使することをせず大政奉還・王政復古が成立した。
維新政府は権威の源泉として天皇を復権させ、自らを天皇によって権威づけられているとして国家の支配を正当化し権力をふるい維新革命を推進したのである。

維新政府は「天皇親政」を建前とし国政上の重要事項すべてについて天皇が最終的決定権を持つとする国家の意思決定システム「万機親裁」の形式を取りながら実際には維新政治家・官僚が政治的意思決定を行い,版籍奉還、廃藩置県、「四民平等」政策、(学制・徴兵制・地租改正の)三大改革等維新の大変革を政府専制で行った。
しかし天皇親政は飽く迄建前であって維新政府の中心人物・伊藤博文は当時宮中(天皇と朝廷)と政府が相対的に独立した政治主体であるとして天皇親政を実質化する動きに対し、宮中・府中分離論からこの論議を封殺し、天皇の活用を別途考えた。
欧米にはキリスト教という精神的支柱がありこれが国民統合の要になっているが、日本には従来国家の基軸になるものがなかった。今後日本の基軸になりうるのは皇室しかないので宗教的信仰の対象として天皇を民衆の内面的世界に入り込ませようと画策した。神話的な歴史的伝統、万世一系の皇統支配に正当性の根拠を求めたのである。
先ず天皇家の氏神である伊勢神宮は江戸時代から伊勢参り・おかげ参りで民衆を多数動員する信仰の中心になっていたので伊勢神宮を全国神社の頂点に据え、明治天皇が歴代天皇初めて参拝した。 更に民衆に馴染みのなかった天皇に超越的な権威を持たせるため明治六年の太政官布告で紀元節・神嘗祭・天長節・新嘗祭等が国民あげて参加する祝祭日と定められ天皇皇室が特別な存在であることを国民に刷り込むことが行われたのである。
「君臨すれども統治せず」、「皇国史観」この基本方針に沿って大日本帝国憲法が伊藤博文等により制定されることになった。明治天皇以後の天皇は、国政が行き詰まった時の切り札として、又は鶴の一声の勅令として 政治家や官僚が天皇の権威を最大限に利用するものでしか無かったのである。

過去の大戦の責任は偏に天皇の権威を傘に来て無理無策で戦争に走った政治家・軍部の責任であって天皇もその被害者であるということができる。

戦争責任…(3)明治憲法の問題点と軍部へ
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