追憶の彼方。

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戦争責任最終回ー3

2022年03月20日 | 政治・経済
戦争責任最終回―3

1945年8月、日本がポッダム宣言を受諾し敗戦日となったその僅か2年前、1943年10月21日氷雨降る神宮外苑競技場に於いて、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が開催された。戦況悪化・戦死者急増による兵員不足を補う為に、20歳以上の学生の兵役免除が解かれ、全く勝てる見込みのない戦地に無理矢理送り込まれることになった25,000人の大学生の出陣壮行会が行われたのである。観覧席には動員された女子学生や旧制高校生・約50,000人がずぶ濡れになりながら彼等を見送った。壮行会は大阪他5大都市、台湾、朝鮮でも挙行され、その徴兵者数合計は極秘扱いとされたが推定13万人と言われている。
「御国(みくに)の若人たる諸君が勇躍学窓より征途につき、祖先の威風を昂揚し、仇なす敵を撃滅して、皇運を扶翼し奉るの日は 今日来たのであります。 諸君はその燃え上がる魂、その若き肉体,清新なる血潮、全てこれ御国の大御宝(おおみたから)なのである。この一切を大君の御為に捧げ奉るは皇国に生をうけたる諸君の進むべき唯一つの道である。」
既に枢軸国3国の内、イタリアが無条件降伏し、日独共に敗色濃厚の中、総理兼陸軍大臣の東条が壇上、拳を振り上げ、甲高い声を一段と張り上げ亡国の演説を行っていた。「御国の大御宝」であるはずの若き学徒達に空虚な美辞麗句を並べたて、責任を回避する為、天皇の名を無断借用し、無駄死を強いる演説を行っていたのである。行軍に参加した学徒の多くは、陸海空軍幹部が考案した元祖自爆テロ「神風特攻隊」に無理矢理「志願兵」に仕立て上げられ若い命を断った。その無念の思いは彼等の遺書を集めた遺稿集「きけわだつみのこえ」に残されているが、その断腸の思い、涙無くして読むことが出来ない。
東条は自害に失敗し「捕虜になるなら自害せよ」との、自らが作った「戦陣訓」に背いて連合軍の捕虜・戦犯となり絞首刑となった。そればかりでなく、多くの国民を死に至らしめ国家を滅亡に導いた戦争犯罪人達のトップに立つ人間であるにも拘わらず、いつの間にか「昭和殉難者」という戦争犠牲者のトップに変身させてもらい、靖国神社に合祀までして貰って、戦争の歴史に学ばない「無知な総理」や、ネトウヨ・神道関連の票欲しさの卑し気な「所謂・なんちゃって右翼国会議員達」の参拝を受けている。内外の批判を無視して参拝する彼等の言い分は一様に「国家の為に犠牲となった方達に感謝し…」が決まり文句であるが、一体全体「国家の為に」とは「具体的に何を意味するのか、どの様に国家の為になったのか」、彼等の口から明確な説明を聞いたためしが無い。靖国に合祀された東条や軍幹部の多くは自分達の出世欲を満たす為に、侵略戦争を強行、勝算皆無の戦争を続行する等、幼稚・愚かな判断で「国家・国民にとって全く不必要な犠牲」を強いた人間達である。更に戦場で死亡した兵士達の多くは無能な陸海軍の高級官僚に騙され、或いは否応無しに無理矢理戦場に駆り出されて、犠牲になったのであり、残念ながら国家・国民に対して何等プラスを齎すものではなかった。
アジア太平洋戦争従軍戦没者約210万人の内、餓死・栄養失調による死者は60%強の127万人に昇ると言われて居る。安全快適な日本の料亭で、のほほんと美食三昧に浸りながら非情な戦争指揮を執っていた軍・幹部達と靖国に合祀されると言う事を知ったなら、餓死・戦死した兵士達は何と言うであろうか。これが無事生還した元陸・海軍兵士達の偽らざる声である。木戸内大臣によれば東条は明治の元勲同様に華族になりたかっただけだと述べている。
尚靖国神社でのA級戦犯合祀を取止める論議に強硬に反対しているのは東条家(主に次男)を中心に軍属、更には一部の右翼を中心とする東京裁判否定論者達である。彼等の言い分は、東京裁判は 「勝者の裁き」「勝者の復讐Jであるとか,事後法であるとか, その法的性質に論点をすり替え、東条達戦犯が犯した国家・国民、或いは朝鮮、中国更にはアジアの国々に対する犯罪を隠蔽しようとするものである。
確かに太平洋戦争には二面性がある事は否定できない。米英やソ連に対しては帝国主義国家間の覇権争いであって双方に善も悪も無く、勝者が敗者を国際法違反だと裁いたのはおかしい。しかし朝鮮・中国やアジアに対し帝国主義・侵略戦争、植民地化を進めた日本の責任は極めて大きく、アジア解放、植民地解放と言うのは言い逃れであり、何よりも日本国民に対して行った犯罪行為に対する責任は万死に値すると言えよう。連合軍による東京裁判が行われた為、日本国民による戦争指導者への追及が有耶無耶になってしまい、本来重罪に処されるべき人物が、戦後我がもの顔で日本社会において枢要な地位を占め優雅な生活をエンジョイし、昨今の無責任社会への温床となる弊害を生むことに繋がった。

長州藩・足軽の身分から謀略により、公家や徳川・島津・毛利等の大名と同じ公爵にまで昇りつめた山縣有朋が作った日本の軍隊、この特異な社会では人権無視等々外国には見られぬ独特の要素が盛り込まれていた。山縣の手によって1873年に徴兵令が施行されたが、当時の「海陸軍刑律」では戦闘に於いて降伏・逃亡する者は死刑に処すると定められていた。軍規律や上官の命令に背く者はその場で射殺することが認められていたのである。厳しい規律と過酷な懲罰により絶対服従が習性になるまで訓練し、兵士が自分の頭で考える余裕を与えず命令に機械的に服従する習慣を身につけさせた。
明治維新以降の政府・軍トップには兵隊は戦争の「人的資源」と言う考えがあり、目的達成の為にはその資源費消に躊躇する所が無かった。陸軍歩兵の戦場に於ける行動マニュアルである「歩兵操典」では「歩兵の本領は地形や時期を問わず戦闘を実行し突撃をもって敵を殲滅するにあり」として、肉弾戦を命じている。又兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮が極端に欠落していたのが日本軍隊の特徴であった。圧倒的勝利に終わった日清戦争では戦死者1400人余に対し病死者は10倍近くの1万2千人弱に達し、過酷劣悪な衛生状態を露呈した。
一方日露戦争では火力装備に劣る日本軍は兵士を「人的資源=肉弾」と見做してマニュアル通り白兵突撃を繰り返し、ロシア軍の大砲、機関銃の前に膨大な犠牲を出した。科学技術の進歩、新兵器による殺傷能力の増大にも拘らず、兵士の生命を軽視した白兵突撃や精神力が勝利の最大要素だと主張し続けた。日露戦争に於いて乃木大将が203高地で「忠義だ、御国の為だ」と言う美名のもとに肉弾攻撃を強行し多くの人命を失った。この乃木思想が神格化され軍人勅諭や戦陣訓となり、兵士が戦争の人的資源化されていくことになる。「肉弾3勇士=軍神」と言う様な異常な言葉が国威発揚の為として世間を賑わした。
更に兵士の健康・生命維持に不可欠な物資補給・輸送に対する配慮の欠如が人命軽視に繋がり、日本軍の残虐性が定着する遠因となった。この兵士の生命軽視、白兵突撃、精神主義の強調が何等反省されることなくそのまま受け継がれて、太平洋戦争の玉砕、特攻等に形を変え大きな犠牲に繋がって行くことになったのである。この様な実態は野間宏の小説・映画の「真空地帯」に詳しく記されている。
只、乃木大将の場合、明治天皇崩御に伴い夫婦で殉死し、日露戦争後の戦勝報国会に出席した際には、「皆様方の子弟を殺した乃木でございます」と目に涙を浮かべ後は首を垂れ、終始無言だったと言う。指揮官としての責任を自覚しての行動であり、国民から敬愛され乃木神社や乃木坂として後世に名前を残すところとなった。東条との大きな違いである。

日本軍隊・将官教育用の「統帥綱領」には「勝敗の主因は精神的要素に存する事、古来変わる処無し」と記されて居り、真面目なだけが取り得で頭角を現した東条はこのテキストを盲信し常日頃から金科玉条の如く「畢竟、戦争とは精神力の戦い。負けたと思った時が負けである」「敵機は精神で撃墜するのだ」等と馬鹿丸出しの発言を繰り返し、情報を軽視し冷静な判断を怠る事を繰り返して国家滅亡への道を邁進した。
国家の未来を大局的に俯瞰するよう多少なりとも訓練されていた武士を中心とする明治の軍人とは異なり、昭和の軍人は軍の中で純粋培養され、判断力を養う教育を受けず、知識の詰め込み教育一辺倒でペーパーテストには優秀なキャリア組のエリート軍人官僚であった。応用力や常識に欠け、軍人こそ出世・栄達の近道であると言った偏った考え方を持っ人間の集団であった。
国力に於いて10倍以上、遥かに優勢でしかも軍需物資(石油・鉄・機械類)の輸入供給先でもある米英等連合国相手に開戦するなど、常識では到底考え難い。結果は連戦連敗で武器弾薬を使い果たし、人間を戦争資源として戦争を継続し、最終的には一億玉砕、全国民を玉砕させようと迄考えた。自分達軍人は国家抹殺に類する事迄出来るんだと考えていたとすれば最早狂人の域である。天皇の持つ統帥権と言う錦の御旗を簒奪し狂犬の様に過激な発言を繰り返しクーデターの恐怖を武器に日本の政治を左右した軍幹部や高級参謀達の「無知」や「愚かさ」とは一体どの様なものであったのか。
日本では陸軍・海軍に於ける将官教育システムが確立せず、明治初期に導入した「皇帝の為に命を捧げる事が最も重要である」と言う様な情緒的で合理性の乏しい「プロイセンの軍事学」が昭和に至っても、そのまま通用していた。其の為、幅広い視野で現実を見据え、柔軟・臨機応変な判断を行い、組織を統括運営できるゼネラリストの育成が出来なかったのである。大局観が無く合理的・論理的判断力を欠いて居た為、根拠無き楽観論が戦争指導者の頭を支配していた。元々日本は神々の加護の元にあると言う「神国思想」があり、鎌倉時代中期の2度に亙る蒙古襲来も俄かに(神風=台風)が吹き、勝利したと言う話が広く信じられていた。更に明治政府が統治の必要性から天皇を神格化し「日本は天照大神の来孫である天皇が統治する国=神州」であるとして国家神道の徹底を図った。日清・日露戦争の勝利によりこの神国思想が一層浸透し,例え敗色濃厚でも、いずれ神風が吹き最後は「神州不滅」日本が勝つのだと言う全く根拠の無い楽観論が軍上層に蔓延していた可能性が強い。
この様な楽観論をベースに物事は容易に達成出来ると言う安易な考えで軍事戦略が建てられた。「中国は一撃でおとなしくなるはずだ。ドイツはイギリスを、或いはロシアを屈服させるはずだ。アメリカは女性の力が強く、イギリスがドイツに屈服し戦争が長引けば米国内に厭戦気分が広まり、停戦を申し出てくるはずだ。」 これらの根拠無き希望的観測は尽く裏目に出たのである。
3年9カ月に及んだ太平洋戦争のうち2年9カ月を主導した東條の戦歴は最初の闇討ち的「宣戦布告無き真珠湾攻撃」を除き連戦連敗、6か月後のミッドウエー海戦では米軍を侮り太平洋の制海・制空権一挙に喪失した。これにより武器弾薬・食料・兵員の補給が困難となり対米戦争継続は最早不可能な状況となったが、海軍が組織防衛優先のあまり、実情を隠蔽・公表せず連合艦隊司令部の責任追及もしなかった為、失敗を教訓として生かされなかったばかりか、戦局認識を誤らせ戦争を継続した為、無援の孤島が次々玉砕、戦争被害を拡大した。一年後44年7月サイパン島が玉砕したが、東条が「絶対国防圏」の一つとしていたサイパン陥落により、大本営戦争指導班は「今後帝国は作戦的に体制挽回の目途無く,ドイツの様相も概ね帝国と同じく、今後遂次じり貧に陥るべきを以て速やかに戦争終末を企図すべき」との結論を出した。この一連の動きに加え憲兵隊を使い恐怖政治行っていた東条に対し退陣要求が激化し、最早天皇の信任も無くなったと知った東条は渋々辞任した。この時期こそが戦争終結の好機で沖縄戦での大きな犠牲や本土空襲、原爆、ソ連の条約無視の対日参戦による大きな被害も防げたことになる。
次期総理を誰にするか、揉め抜いた末、朝鮮総督であった力量不足と言われる小磯に白羽の矢が立った。小磯が新設した最高戦争指導会議には梅津参謀総長、杉山元陸相、及川軍令部総長らが出席したが、東条同様「戦争完遂・重大時局克服突破」等々、対策・成算皆無にも拘らず、勇ましい言葉だけが踊っていた。小磯も戦争終結の真剣な議論をせず、希望的観測が頼りの「一撃講和論」を主張、フィリピンでの対米決戦に勝利し米国との終戦交渉を有利に進めるとの方針を決定した。しかし44年10月フィリピン・レイテ島で大敗を喫し、海・空戦力大半を消失し沖縄・本土決戦に舵を切った。「必勝の確算は無いが必ず負けるとは断定出来ない。死中に活を求める気迫を以て本土決戦に邁進する」「国民に竹槍の指導を行い、上陸する米兵に徹底抗戦・一撃を与え、有利な条件で講和の道を探る」。戦争に負けたら軍隊は組織・権力を失い戦争責任も問われる。どうせなら、日本民族もろとも心中しようという精神構造である。

無謀な戦争継続で戦力を失った結果、かねて戦力補強策として陸・海軍は競って特攻戦略の研究を重ねて来た。海軍は「特攻部」を作り、航空機による体当り攻撃、有人爆弾「櫻花」、人間魚雷「回転」を開発した。陸軍も負けじとし体当り攻撃を作戦の主役とし、大本営陸海軍部迄もが「全機特攻化」を決定する狂気に近い状況となった。兵士の死を前提とした特攻作戦により終戦までの間に9千5百人余りに達する若者が命を断った。
特攻の生みの親と伝えられる大西瀧治郎軍令部次長は特攻作戦では勝てない、しかし日本人の5分の1,2千万人が死んでみせる、そうすればアメリカは驚いて和平を申し込んで来る筈だ……このような無茶苦茶な発想が常に軍上層部の頭にあった。
戦艦大和の海上特攻命令と撃沈で日本の海軍の戦闘能力が消滅したにも拘わらず神風特攻機の沖縄海域への自爆攻撃が続けられた。沖縄特攻作戦を指揮した陸軍航空隊の最高責任者、菅原道大・中将は特攻隊員に「お前達に続いて我々も必ず行く」と言いながら、航空機トラブルで3回も玉砕に失敗した若き兵士を懲罰的に特攻最後の兵として特攻に送り出し、特攻兵は志願だったと弁明して戦後もおめおめと生き伸びた。特攻生みの親・大西瀧治郎軍令部次長は終戦の翌日,介錯を断り壮絶な割腹自殺を行った。大西と共に徹底抗戦派だった阿南陸相も軍を平静に保ちクーデターの芽を摘むため自決した。8月15日ポッダム宣言受諾の玉音放送後あった日の午前10時半、茨城県の百里原基地から房総沖の敵機動部隊に向け、特攻隊・第四御楯隊の彗星(艦上爆撃機)8機が出撃し、18歳から25歳までの搭乗員16名が戦死している。
また同日夕刻、九州の第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は、大分基地より艦上爆撃機・彗星11機を率い、最後の特攻隊として飛び立った。宇垣中将はこれまで大勢の部下を死なせた責任をとるつもりであったが、この出撃は、玉音放送後に若者を死地に追いやった「私兵特攻」として、いまもなお強い批判を浴びている。自殺に他人を道ずれにすると言う卑劣な人間の発想である。

小磯は沖縄で多くの犠牲を生み1945年4月終戦への道筋も付けることが出来ず退陣した。後継首相は元侍従長で老齢の鈴木貫太郎(77歳)に決定した。東条が陸軍のクーデター説まで持ち出し陸軍畑の人間を推したが、結局天皇の信任が厚い鈴木に決定した。無能・杉山陸相は「戦争完遂、本土決戦必勝の陸軍施策実行」を組閣条件とした。
新内閣の外相には開戦時の外相・東郷茂徳が就任、早期和平を期しソ連に和平仲介を頼むことにしたが、ソ連からは日・ソ中立条約の不延長を通告して来て居り、まさに「愚策」であった。ソ連の最高指導者・スターリンは日本の領土に野心を抱いており、日ソ条約を無視して何時参戦に踏み切るか探っている最中で、当然明確な答えはしなかった。1945年7月26日ポッダム宣言が発せられた。日本は宣言を拒絶はせず少しでも有利に交渉を進める為、ソ連の返事を待とうと引き延ばし策に出たが、鈴木首相が記者会見で「何等重大なものと考えない、黙殺し戦争完遂に邁進するのみ」と答えてしまい、これが宣言拒否と受け取られ、8月6日広島原爆投下、8日ソ連対日宣戦布告、9日長崎原爆投下、の口実を与えて仕舞った。東郷の「愚策の為の時間の空費」と鈴木の「不用意な発言」が招いた取り返しのつかない悲劇である。
結局、10日陸相・阿南、参謀総長・梅津、軍令部総長・豊田の反対を押し切り天皇聖断により宣言受諾を決定、太平洋戦争終結となった。

戦争責任最終回ー3 太平洋戦争責任者総括
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