追憶の彼方。

思いつくまま、思い出すままに、日々是好日。

グリニッチセンター世界地図の勧め(4)

2023年12月30日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(4                                                                航路開拓に名を借りた白人の悪行 

大航海幕あけ時代の初期、香料の集散地インドにはポルトガル人のバスコダガマが、アフリカ南端の喜望峰経由の東回り航路を開拓し、ポルトガルがこの航路の要所要所に植民地を作って航路の利権を独占、高価な香辛料などの貿易による莫大な富を得ていた。 当時、既に地球は丸いという事は周知されて居り、東回りが無理なら、未知の航路ではあるがヨーロッパから西へ進めば、インドに到達出来る筈だと考えたのが「イタリア・ジェノバ人のコロンブス」であった。野心家コロンブスは、香料利権で後れを取っていたスペインの王室を説得しスポンサー契約を得て、西回り航路開拓のため、インドを目指して西へと出港したが、幸か不幸か西に向かった海の先にアメリカ大陸が横たわっていたのである。コロンブスは最期まで「自分はインド(東アジア)に到着した」と信じ込んでいて、4回も航海を重ねた。最初の航海で原住民インデイオから強奪した金銀宝石に味を占め、2回目の航海では装甲兵・騎兵隊。軍用犬からなる大軍団を従え、強奪と殺戮を繰り返した。例えばコロンブスが名づけたエスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ共和国)に関する記録では、300万人のインディオが住んでいたが、コロンブスが来てから50年後の1542年には、この美しかった島に生き残ったのは、ただの200人だったと報告している。キューバ等のカリブ海諸国でも同じことが行われた。  「黄金探し」を国是とするスペイン海軍はコロンブスのコンキスタ(征服)手法を踏襲する事となった。

コロンブス自身は多額の黄金も香料も発見できず島の開拓も進まなかった為、スペイン王室にも見放され失意のうちに亡くなった。しかしその後、探検家アメリゴヴェスプッチがそこはインドではなく、新大陸である事を発見した。スペインはトルデシリャス条約の境界線の西側に広大な世界を手に入れることになったのである。

スペインは東洋に抜ける海路を探る為次々と探検隊を派遣し、盛んに海上探索を行った結果、1517年にメキシコ(ユカタン半島)に上陸、翌18年から入植が始まった。この広大な入植地をスペイン人は、(ヌエバ・エスパーニャ=新しいスペイン)と呼んだ。ローマ教皇のお墨付きにより、先住民がいる土地を自分達スペインの土地と呼ぶ事に何のためらいも無かった。ここに南米先住民・インデイオの悲劇が始まったのである。

メキシコ湾東側の西インド諸島

ユカタン半島には、古代のマヤ文明が存在しており、15世紀にはアステカ王国が繁栄していた。

1519年、征服者(コンキスタドール)・コルテスがスペイン国王の承認を得て、植民都市の内陸部への植民地拡充を進める途中アステカ国王と遭遇、白人の騎兵に驚いた国王が思わず恭順の意を示し、財宝を差し出した。此の財宝に驚いたコルテスは各地に軍隊を派遣し貴金属・財宝の強奪を始めた為、反撃に出たアステカ軍との戦闘が始まり、反アステカのインデイオを味方につけたコルテスが勝利、3万人の命と共にアステカ王国は滅亡した

メキシコのインディオ人口に関しては、コルテス征服以前に2500万人あまりだったのが、わずか50年間で100万人に激減した、という数字が上げられている

スペインの代表的なコンキスタドールとして(コルテス)と並び称されるのが、インカ帝国を滅ぼした(ピサロ)である。   コロンブスの成功に触発され、一旗組が続々と新大陸に渡ったが、ピサロもその一人、まともな教育を受けて居らず、乱暴で見境なく殺戮を行う兵隊上がりの人間であった。ピサロは太平洋の彼方にあると信じられていた黄金の国(ジパング・日本)を探す為に探検に乗り出し、1524年から太平洋岸を南下してペルー上陸を企て、何度かの失敗の後、「黄金郷」インカ帝国の存在を確信し、一旦スペインに戻って国王カルロス1世に征服の可能性を説き、1529年にヌエバ・カスティーリャ(新しいカスティーリャ王国、スペインの前身)の総督に任命され、国家事業としてのインカ帝国征服の指揮権を得た。

インカ帝国は高度な国家機構を持ち、道路網も整備されていたので、ピサロの率いるスペイン軍も進撃しやすかった。スペイン軍はインカ王アタワルパの陣に対面した際、従軍司祭がアタワルパにキリストの教えを受け入れるかと問い、聖書を手渡した。スペイン語はおろか、聖書の意味すら理解できないインカ王がそれを投げ出すと、これを「冒涜」だと言いがかりを付け、火砲で武装したスペイン騎兵が攻撃を開始、わずか3分ほどで2000人以上が殺され、王も捕らえられて、後に処刑された。1533年インカ帝国は滅亡し、ピサロは首都クスコに無抵抗で入り、それとは別に海岸部に新都リマを建設した。クスコは後にインカ帝国の傀儡皇帝であったマンコ・インカが反乱を起こした際、破壊された。こうしてピサロは征服者として大成功を収め、新たな首都リマを建設した。しかし土地の領有をめぐり内紛が生じ、スペイン国王の支持も失い1541年自宅で暗殺された。

ピサロなき後スペイン本国から行政官が派遣され、豊富な銀山開発が行われたが、過酷な労働にインデイオが動員され、インカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったと推計されている。こうしてインデイオの犠牲で採掘された銀は各地の植民地経済の形成に使用された後に、スペインに送られたが、スペイン国内での産業の育成等有効に使われる事はなく、王室や貴族の間での浪費やカトリック信仰防衛のための対外戦争の戦費のために使われた。

 この二人のコンキスタドールに対するメキシコ、ペルー、スペインの評価はどうであろうか。                          スペインでは2002年ユーロ導入まで流通していた1000ペセタ紙幣の表面がコルテス、裏面がピサロの肖像が使用されていたことで彼等が如何に英雄視されていたかが伺い知れる。

メキシコではアステカ王国の圧政に苦しんでいたインデイオが多数いたこともあり、コルテスはスペインの文化を持ち込み、近代化に功があったとする感情もあり、メキシコ文化はアステカ等先住民固有の文化がペイン文化と融合したものであるとの認識が一般的である。

一方、現在のペルー人は、インディオはもちろん、混血であるメステイーソの多くも自らのルーツを「インカ人」と捉えており、「ピサロは先祖が築いたインカ文明を破壊した人物」という認識が強いこのためリマ建都400周年を記念に1935年にピサロの故郷のスペイン・エストレマドゥーラからリマ市に贈られたピサロの騎馬像は、市民の反発で騎馬像は、リマ市内の旧市街のリマック川沿いの城塞広場に、台座のない状態で捨て置かれている。

グリニッチセンター世界地図の勧め(5 最終……コロンブスに対する評価その他 へ 

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グリニッチセンター世界地図の勧め(3)

2023年12月27日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(3) 航路開拓に名を借りた白人の悪行 

1520年11月末、マゼラン達は荒れ狂うマゼラン海峡を1か月も要してやっとの思いで通り抜けた。新しい海は平穏な大海原、太平洋と名付けたが、出くわすのは無人の岩礁のみ、食料補給基地も見当たらず、食料不足による飢餓と壊血病等に悩まされ20人超の死者を出す地獄の航海となった。餓死寸前の状態で大海を彷徨った艦隊は赤道付近の貿易風のお陰で152136日グアム島10日後にはフィリピン諸島に辿り着いた。  フィリピンではスペインの領有権を主張、キリスト教の布教に努めたが、不用意に部族間の紛争に介入し、4月末敢え無く戦死してしまった。この戦闘で大幅に人員が減り、1隻を破棄し残り2隻で迷走しながらも11月8日香料諸島(インドネシア、マラッカ)に辿り着き、諸島では王の厚遇により大量の香料(グローブ)を得て、帰路に就くが1隻がポルトガル官憲に拘束され、結局エルカーノを船長とする1隻、乗員60人だけで香料諸島を出発する。ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れない為、壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながらも152296日スペインに帰国する。スペイン帰国時の乗組員は21名、内3人は途中で乗せたマレー人で、出発時約270人の乗組員のうち世界周航を達成できたのはエルカーノや艦隊の記録を書いたピガフェッタ18人だけであった。世界1周出来たのはマゼランではなく、彼の船団の一部であった。3年に亙るその航海距離は6万マイル(9万6千キロ)、地球を2.4周したことになる。 

15世紀末、イスラム勢力を追い出しキリスト教徒の土地・イベリア半島を取り戻そうと、ポルトガル王国やカステイリャ王国等のスペインによって「レコンキスタ=再征服」が展開され、グラナダ陥落で完了した。  

それを契機として地中海を中心としたヨーロッパ内の紛争に影響される事が比較的少なかった事が幸いし、ポルトガルによる外界への膨張が一気に加速し、西洋史上始めてアジア、アフリカ、アメリカ(南米)に跨る海洋帝国を形成した。  僅か150万人程度の小国ポルトガルが大航海時代の先鞭を切った背景には、ヨーロッパの南西端で大西洋に臨み、北アフリカに近い地理的利点が大きかった事と、レコンキスタに培われたカトリックの聖戦意識が南下膨張を正当化したのである。ローマ教皇から非キリスト教世界の「征服=コンキスタ」と貿易の独占権の勅書を得ていたポルトガルは、アフリカ・喜望峰廻りでインドを商業拡大の目的地に据えたのに対し、スペインは西回りでのインド到達をコロンブスに託した事が幸いし、アメリカに到達した。

非キリストの異教世界はカトリックの布教予定地で、同時にイベリア両国の潜在的領有地となり、これらの土地を領土とするために武力征服をすることはローマ教皇が認可する正当な行為であった。当時教皇から「布教保護権」を与えられたのがスペイン・ポルトガルのみだったことから、両国は未知の世界に航海し、武力で奪い取った地を植民地として支配し、そこで貿易などを行う独占的権利を主張した。両国は海外での衝突回避の為、1494年6月にトルデシリヤㇲ条約を締結、大西洋の真ん中に境界線を設定し、東側をポルトガルが、西側をスペインが領有することに決めた。その後、教皇ユリウス2世は1508年に大勅書を両国の国王に発して、布教保護権を恒久的に付与した。その結果ブラジルはポルトガル領、それ以外のアメリカはスペイン領となった。

この様な背景のもとに、コロンブス、バスコダガマ、マゼラン等の探検家が活躍し、両国繁栄の財をもたらして、本国では英雄視されたが、彼等が領土や航路確保の為に重火器を用いて行った先住民への脅迫、蛮行,人命、人権無視の等の非道な行動は殆ど語られていない。

上の写真はプンタアレナスの公園にあるマゼラン銅像であるが、大砲に足を掛けたマゼランの下に先住民がそれを支える構図に成って居り、近年人権意識の高まりで評判が良くないと報じられている。又フィリピンではマゼランを戦死させた人物「ラプ・ラプ」は抵抗と誇りの象徴として国民的英雄となり、ラプラプ市には銅像が、又マゼラン到着500週年記念行事の一環として戦闘の様子を示すモニュメントが建てられている。

 

グリニッチセンター世界地図の勧め(4) 航路開拓に名を借りた白人の悪行…… に続く

 

 

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グリニッチセンター世界地図の勧め(2)

2023年12月12日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(2)

ペルー在勤4年目の暮れ、南米最後の正月休みを有効に利用しようと、南米最南端への旅行を思い立った。   当時既に、一般人の南極観光解禁が話題に上って居り、南極観光は無理としても、距離的に近いチリ・アルゼンチンの南端の街が観光基地になる可能性が大きいと報じられていた為、その雰囲気だけでも味わえる亦とないチャンスと考えたのである。南極も含めこの辺りの正月頃は夏の真っ盛り、日照時間が最も長く観光にはベストシーズンであることもその理由であった。   南極はオーストラリアの真下に位置するが、パースからの距離が5千キロ弱もある一方、チリのプンタアレナスからの距離は1千キロ程度で、時間・費用共にベストのアクセスである事が「観光基地最適地」と言われていた理由の一つである。

フィヨルド、氷河で有名なパタゴニアの玄関口、プンタアレナスにはチリのサンチャゴ乗り継ぎで8時間超の長旅だったような気がする。1914年のパナマ運河開通の影響を受け、大西洋・太平洋を繋ぐ要衝の街としての機能を失ってしまって,過っての活気の名残は、僅かに教会・博物館の建造物や遺跡等には残されてはいたものの、既に寂しくひっそりした小さな港町となっていた。町から一望出来るマゼラン海峡の岸辺には放置され廃船となった難破船が数多く目に付き、この海峡が如何に難所であるかを伺わせた。只滞在中は名物の強風も吹かず温暖で、海峡も想像以上に広く、マゼランが「火の土地」と名付けた対岸のフェゴ諸島も残念ながら霞んで見えなかった。

ポルトガルの貴族だったマゼランが祖国を裏切り、香料等確保の為の新航路開拓で覇を競っていた燐国スペインの王室に取り入り、そのバックアップを得て、15199月、270人の船員からなる5隻の船団を率いてスペインバルセロナを出航、3年後「J・Sエルカーノ」船長の「ビクトリア号」只一隻が、18人の乗組員を乗せアフリカ・喜望峰を経由して、かろうじて世界一周を果たしてスペインに帰還した。彼等が持ち帰った香辛料の価値は、その航海に要した費用を遥かに上回るものだったと伝えられて居る。  上記の地図はその世界一周の航路を示したものである。

マゼランの航海歴を辿ると2か月後にアフリカ・カナリア諸島、更に2か月後(12月中旬)にはリオデジャネイロ、一か月後の新年初めに、アルゼンチンのラプラタ河に入っている。マジェランは南西と言う航路方針を無視して、迷うことなく一路大西洋を南下、南米南端を目指して進んで居り、南米・南端を迂回出来さえすれば「新しい海(太平洋)」に出て、求める「香料諸島」モルッカ(インドネシア)、に到達出来ると確信していたようである。 その根拠は、既にイタリアの探検家・アメリゴ・ベスプッチが1500年頃ブラジルに到達しており、1502年1月にはポルトガルの別の探検家が同地域に到達し美港の入り口を川と誤認し「ジャネイロ(一月)のリオ(川)」=(リオ・デ・ジャネイロ)と命名したとの記録が残っている。更に1513年にはスペインのヌニェス・デ・バルボア(英雄・盗賊・冒険家・反逆者の名前を持つ)が北米・南米が陸続きの大陸である事、大陸の向こうには海がある事を突き止めて居り、それら多くの情報から大陸南端にしか迂回ルートが無いと確信していたと思われる。

船団は途中若干の寄り道をしたが、3月末にはアルゼンチン側のパタゴニアに到達、8月末まで越冬を開始したがこれが大きな失敗だった。後350キロⅯ程(1周間程度)の航行距離を南下して居れば、太平洋に抜けるマゼラン海峡の入り口に到達していたのである。本当の冬は6月以降だった。

船団はこの越冬で多くを失った。先ず船団3隻が食料節約命令に反発し反乱を起こした。このプロジェクトの推進者であるスペイン有力者は収益を独占しようと、一部がマゼランに流れるのを回避する為に艦隊幹部をスペイン人で固めて居り、彼等はポルトガル人であるマゼランを信用せず、敵意を抱いていたのである。反乱軍は鎮圧・処刑されたが、マゼランに対する憎しみを煽ることになった。

4月末、南下を開始、航路探索が始まったが、8月真冬の強風下、マジェラン海峡入り口近くで1隻が難破沈没。更に探索に出た1隻が多量の食料を積んだまま行方をくらまし、無断でスペインに帰航してしまった。10月21日マゼラン海峡を発見、3隻となった船団で1か月掛って11月末に太平洋に抜けたのである。

 

グリニッチセンター世界地図の勧め(3) 航路開拓に名を借りた白人の悪行 へ

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