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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(2)

2019年04月26日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(2)
        …亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 
中国は度重なる日本の侵略行為に対し怒りが頂点に達し中共合作に成功、中国一丸となって対日抗戦を始めた。
その原因の一つは第一次世界大戦開始の翌年、ドイツが欧州での戦争に忙殺されている隙に中国に法外な21か条の要求を突きつけドイツが中国で所有していた権益を火事場泥棒的に強奪したうえ、それを半永久化するような内容であったこと、この要求の大部分はベルサイユ条約では承認されたものの連合国の一員だった中国は猛反発し中国国内で反帝国5・4運動に繋がった。
又既述の関東軍が独断で満州事変を起こし満蒙に侵略して世界の批判をかわすため満州国を建国した。更に自作自演的な張作霖爆殺事件・柳条湖事件・盧溝橋事件を引き起こし、それが発端となって到頭日中戦争にまで発展した。関東軍は首都南京での非戦闘員も含めた大虐殺事件を行い中国人民の抗日機運に火をつけた。日本は南京が陥落すれば中国政府はすぐに屈服するだろうと安易に考えていたが、中国は首都を南京から武漢に移し陥落すると更に内陸部の重慶に移してゲリラや一般市民を含め徹底抗戦を始めた。
日本では軍部が横やりを入れ組閣もままならず、西園寺が最後に選んだのが5摂家筆頭の近衛家当主・近衛文麿だったが,世間知らずの近衛は戦闘は短期に終わらせることが出来ると安易に考え、「中国と和平交渉はしない」などと強気の宣言をしたが、この見通しの甘さによって中国戦線の泥沼に嵌まり込むこととなった。しかし巨額の戦費と兵員の投入にもかかわらず好転しない情勢に備蓄した油・鉄鋼・機械・兵器等の軍需物資の喰い潰しが続いた為、堪りかねた政府は3度に亙る謀略的な和平策を提示したが日本の意図を察知した中国サイドに受諾の気配は全く見られず日本の北進政策はノモハン事件の失敗等々が重なり頓挫したまま事態の膠着状態が続いた。

一方満州事変以降国際的に孤立状態であった日本は同じく国際連盟を脱退していたナチス・ドイツと1936年に対ソ・日独防共協定を締結したが、1939年ドイツが「独ソ不可侵条約」を締結した為事実上の空文となった。そこで翌1940年(日・独・伊3国)は曖昧だった三国の協力関係を具体化し、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独・伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか1か国がヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。
ドイツ・ヒトラーはアメリカの支援で激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、矛先を変えて共産主義を標榜し思想・主義が合わず地政学的にも対立するソ連をドイツ生存圏の拡大の為に撃破しようと目論んでいた。そこでソ連と満蒙の利権を争っていた日本と手を結ぶことを考え、日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力を東西に分断し、さらには日本の対英参戦により極東のイギリス植民地・英連邦諸国からの人的・物的支援を絶つことによって戦争を優位に進めることができると考えたのである。
一方満州に野望を抱いていたアメリカは1938年11月に、近衛首相が「日本と満洲、中国を政治的・経済的・文化的に結合させて大東亜新秩序を建設する」との国策上の方針(第2次近衛声明)を、全世界に向けて発表すると、中国市場が日本によって独占される可能性の高まったと強い危機感を覚え、日中戦争で中国側に味方する方策へと路線を転換した。中国に借款供与すると同時に何時でも日本を経済制裁できるよう1939年日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。日本への石油等軍需物資の輸出ストップである。当時日本は石油資源の70%以上をアメリカから輸入していたので,その石油を使ってアメリカが支援する中国と戦っていたのである。
日本政府は日独伊防共協定を軍事同盟に格上げ強化しドイツと手を結ぶことによって、アメリカを牽制し日中戦争を有利に展開することが出来ると読んでいたが、海軍を中心とする英米協調派、陸軍の石原莞爾、昭和天皇。元老西園寺等反対が多く中々実現しなかった。ところが1940年に入りフランス・オランダがドイツの手に落ち、イギリスが戦線離脱・本土防衛一辺倒というドイツの圧倒的優勢が伝わると、このニュースに幻惑されバスに乗り遅れるなという陸軍の声が一挙に強まって軍事同盟論者の松岡洋右を外務大臣に登用した近衛第2次内閣が1940年一挙に3国軍事同盟に舵を切った。軍事同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明、更に「海軍は対米戦争は負けると言っている」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は「ドイツは信頼すべき相手である」、対米開戦に就いては日露戦争の際に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死にする」と語ったという芝居がかった、幼稚・無責任極まる発言を引き合いに出し、「及ばずながら誠心奉公すると回答した」。天皇は「万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するので、神様のご加護を祈りたい」と話したという。(出wiki)
 親ロシア派の松岡外相は翌1941年、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、その帰路モスクワに立ち寄って、「日ソ中立条約」を電撃的に調印し、ドイツの意向を無視して単独でソビエトとの相互不可侵を確約してしまった。シベリア鉄道で帰京する際には、喜びのあまりスターリン自らが駅頭に見送り、松岡を抱擁するという極めて異例な場面があったと伝えられている。ヒトラーはスターリンの領土要求に腹を立てソ連侵攻に舵を切っていたのである。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」との情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。案の定本条約の締結3か月後、ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した。膨大な機甲部隊を投入したドイツ軍の電撃作戦によりソ連は大敗を喫し、たちまち国家存亡の危機に追い込まれた。この時松岡はじめ日本政府はどのような対応をとったか。独ソ開戦10日後の御前会議で『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を決定しているがその中で、「三国極軸の精神を基体とするが、暫く独・ソ戦闘には介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整えておく。 独「ソ」戦争の推移が我が帝国にとって有利に進展する場合には武力を行使して中国北方問題を解決し北辺の安定を確保する。驚くべきことに、この国策のどこにも日ソ中立条約を遵守しようとするような意志は見られない。 日本は、日ソ中立条約締結からわずか三ヶ月の時点で、明白な条約違反となることを承知のうえで対ソ戦準備を進めていた。実際には戦端を開くことはなく本中立条約は日本の敗色が濃厚になっていた太平洋戦争末期・1945年のソ連の一方的条約破棄・対日参戦で終了した。日本が条約を破棄しなかったのは単にドイツの進撃が期待したほどには有利に進展せず、極東ソ連軍の西送による減少も予想したほどのペースでは進まなかったからでノモハン事件の失敗に懲りてソ連との戦争を避けよう、「北進より南進が重要」と考えたからに過ぎない。松岡外相はその後の時局懇談会の席上「ドイツが勝ちソ連を処分する時、日本は何もせずに要求だけをすることは出来ない。血を流すか、何らかの外交努力が必要だが血を流すのが一番良い。ドイツも日本が何をするかを考えているだろう」と述べている。相も変らぬ火事場泥棒的発想である。一方的にソ連だけを非難することが出来ない背景があったのである。

しかしドイツが優勢だったのは開戦後の半年だけで年末にはドイツの敗色は濃厚になりつつあり、アメリカの支援で頑張りとおしたイギリスは息を吹き返し始めていた。東条や日本陸軍は情勢判断が出来ず落ち目のドイツを頼りに大国米・英に戦争を仕掛けるという愚行に出たのである。
日本国内ではドイツ・ナチスに倣って一国一党の組織を作ろうという新体制運動がおこり軍の強い後押しもあって各政党は解散し大政翼賛会が結成され対米・英戦時色一色となった。
日本はこの3国同盟を梃に対中戦争を一挙に決着をつけるべくフランス領インドシナ(ベトナム)北部への進駐を開始した。中国への援助ルートの遮断が当初の目的であったがドイツに屈したフランス領を火事場泥棒的に奪取することが最終目的あった。更にイギリスに対してもビルマ・香港ルートの中国への援助ルート遮断を要求し一時的ながらこれも認めさせた。
日本の北進から南進政策への転換は米英に大きな脅威を与え米・英・オランダ等は鉄や石油の対日全面禁輸に踏み切った。とりわけアメリカは強硬で対米交渉に希望をつなぐ近衛首相が中国からの撤兵を含む妥協案で切り抜けようとしたが、陸軍が「シナ大陸で命を捧げた多くの尊い英霊に申し訳が立たない」と猛反発、外交交渉は無理だと判断した近衛内閣は総辞職してしまった。(多くの英霊を作った責任が中国を甘く見た無謀な陸軍自体にあったことは頬被りである。)
当時日本の石油備蓄は2年分、交渉を長引かせることは不味いと対米・英開戦も視野に入れ始めた。
そこで登場したのが陸軍大臣だった東条英機である。東条は2.26事件で皇道派が後退したこともあって昭和天皇の評価も良かったが対米主戦論者の東条が総理になったことで日本の行く末が決まったと言って良い。陸軍大臣兼務のまま天皇の命令で米国との戦争回避の為の日米交渉を続けたが日本の意図を見抜いていたアメリカは強硬で「中国・仏印からの全面撤退と3国同盟の廃棄」を謳う「ハル・ノート」を通告してきた。ここで交渉は完全に決裂1941年12月8日真珠湾への奇襲攻撃で日中戦争は一挙に太平洋戦争、第2次世界大戦に変容したのである。(「ハル・ノート」はアメリカ政府から日本政府への正式な要求文書ではなく、書類の冒頭には「一時的かつ拘束力なし」との文言が記載された単にハル国務長官の覚書に過ぎなかった。アメリカは交渉の余地を残していたのだが、一切の譲歩を嫌う日本の陸軍が最後通牒と決めつけ、思い込んでしまったものである。)
この戦争は開戦から敗戦に至るまで国民には一切相談される事は無く全くの寝耳に水、国会でも議論されることすら無くその重い結果だけを背負わされることになった。
南進政策はイギリス領シンガポール、オランダ領インドネシア、ビルマの占領を打ち出し、占領地では重要国防資源を取得し、軍隊の自活の確保する為「軍政」を行うことが明示された。ベトナム・マレーシア・インドネシア・シンガポール等の資源国は独立は認められず日本領に編入され戦略資源や現地調達を基本とする軍の必要物資の供給地になった。東南アジアを開放し独立させる意図など全く無かったと言ってよい。
日本は何故無謀な対米開戦に踏み切ったのか。1940年時点における米国の実質GDPは1兆340億ドル、日本の実質GDPは1500億ドル程度で、GDPの差は約7倍と計算される。日本と米国の鉄鋼の生産能力の差は約12倍、自動車の生産台数の差は100倍以上、発電量の差は約5倍という状況であった。
日本と米国の体力差は、7倍から10倍と考えられる。海軍を中心とする英米協調派、東条との権力争いに敗れた陸軍の石原莞爾等は近代戦は物量戦・国家総力戦であり、持たざる国・日本は米・英との戦争には勝てないと戦争回避を主張していたが、精神力を無限に高めることで、「持たざる」不利を克服できるという、ある種、狂気に近い考えの持ち主が東条のブレーンにもおり彼らの声が勢いを強め,初戦で勝利を収めインドシナ等で軍需物資を確保し戦争を継続しておれば、ドイツの頑張りで有利に和平交渉が出来るというような夢のような図を描いて開戦に踏み切ったのである。日露戦争に勝てたのは地の利と米・英(特に英国)の援護によるものだが、同じ援護を線香花火のような状態のドイツに期待したのは愚かの一語に尽きる。


この項続く
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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 

2019年04月14日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり
        …亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 

多くの不幸な戦死者を出し国土を荒廃させて日本を滅亡に導いた太平洋戦争、その発端は満州事変であるが、この中国との戦争こそ陸士・海兵の士官学校を卒業した軍人官僚達の短絡的な独断専行の愚行が齎したものである。
満州事変を画策し、それ以降の昭和陸軍をリードしたのは陸軍の課長クラスで作られた『一夕会』グループ、その中心人物が陸軍省軍事課長だった永田鉄山、石原莞爾、武藤、田中の4人であった。東条も彼らの神輿に乗って動いた一人である。
満州国建国の前々年、1931年の満州事変は、日本政府、陸軍大臣、さらには、関東軍司令官等首脳の事前承認なしに、関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた不法な軍事行動であった。石原達は日本の食糧・失業問題から生じた社会不安やその他の政治・経済問題の処方箋として、更には予感される世界戦争に備え鉄鋼・石炭等の地下資源確保には「満蒙開発・満蒙領有」が不可欠と考え満鉄の支援部隊に過ぎなかった関東軍を使って満州の植民地化に走り出したのである。
この不法な軍事行動を補完するため日本の傀儡政権、清朝最後の皇帝(ラスト・エンペラー)愛新覚羅溥儀による満州国が建国された。
国際社会は、こぞって日本の不法な軍事行動と満州国建国を非難し、1933年2月24日の国際連盟総会で、圧倒的多数で満州国の不承認および満州国からの日本軍撤退を決定した。日本はこれを不服とし、総会に参加していた全権大使松岡洋右はその場で国際連盟からの脱退を宣言し、自ら世界の孤児となる道を選ぶこととなった。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという五・一五事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、日・満議定書を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの無知な国民は関東軍のこの暴挙を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎したのである。日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、狂犬のような若手軍事官僚に恐れをなし、石原莞爾と板垣征四郎を軍法会議にかけることすらできず、2.26事件を契機に復活した軍部大臣現役武官制の復活もあって陸軍の暴走を助長した。
満州国は満州族・漢族・朝鮮人・日本人からなる多民族国家であったが、議会はなく実権は「関東軍司令官」兼「駐満大使」兼「関東庁長官」指揮下の日本人が掌握していた。日本は不況対策・失業対策から多数の満蒙開拓団を派遣しその数は27万人に上った。開発が遅れていたアジアの中で満州の都市部は極めて先進的で西洋列強の領事館やデパート・ホテルが軒を連ね満州最大の都市ハルピンは「東方のモスクワ」と呼ばれるような歓楽街となっていたが、開拓団の居留する農村部はインフラが未整備で飲料水不足、非衛生な上、武装した山賊や抗日テロ集団の出没に悩まされるという過酷な状況であった。 
関東軍による満州国経営で最大の問題はアヘン政策である。イギリス東インド会社によるアヘンの輸入で中国全土に広がっていたアヘン中毒禍も1931年迄に四つの国際的な麻薬取締条約が締結され、国民政府の影響の強い地域では根絶状態となっていた。この条約に日本も調印・批准していたが満州国では「アヘン吸引漸減」の美名の下に「アヘンの専売制」を実施、アヘン吸引を実質的に公認したためアヘン患者・アヘン窟が急増した。その利益は膨大で30年代後半には満州国歳入の六分の一に達したと言われている。陸軍特務機関はアヘンの密輸で膨大な機密費を獲得し華北分離工作や内蒙工作更にはアジア各地での工作にも利用されたのである。関東軍は中国各地のアヘン生産地にも侵攻し新たな供給源を確保する一方、商社を通じイランからも輸入するほどであった。満州は関東軍・陸軍の機密費作りの巨大装置であり、当に国家ぐるみの麻薬犯罪を行っていたのである。
この満州の産業・経済政策に大きな役割を果たしたのが安倍首相が信奉する「昭和の妖怪」と称された祖父の岸信介である。当時革新官僚として統制経済を主張し頭角を現したが1936年満州国に転出、翌年には産業部次長、1939年には総務庁次長に昇進、満州国の実質的な最高首脳の一人となり満州経営に辣腕を振るった。計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」の策定・実施と工業化・日本産業(日産)の満州国への誘致だった。同時に当時関東軍参謀長であった東條英機と親交を深め、日産コンツェルンの総帥鮎川義介を筆頭に軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐き参すけ」の1人に数えられた。【東条英機・星野直樹(満州国総務長官)、松岡洋右(南満州鉄道総裁)・岸信介(満州国産業部次長)・鮎川儀介(満州重工業開発社長)】。
この頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。資金源はアヘンである。岸は満州から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している(出wiki)。岸の逃げ足の速さ面目躍如、田中角栄と違う最大のポイントである。
【5カ年計画や満州工業開発が岸の表の顔だったとすれば、裏の顔はアヘン政策だった。岸は「満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった」と言っているが、真っ赤な嘘である。満州で岸の忠実な部下であった大蔵省出身の古海忠行が直接の担当者であった。「満州は岸信介が作ったアヘン中毒の悲惨な実験国家だった」】と2013年5月11日号の週刊朝日が伝えている。
日本は満州に飽き足らず更に領土拡大を図ろうとした。北京を含む華北地方を中国から切り離し満州同様傀儡政権を作ろうと画策した。しかしこれが契機となって国民党と共産党の共闘体制・国共合作の機運が盛り上がり、そこに1937年7月北京市郊外の盧溝橋で発生した日中兵士の衝突事件がきっかけで国共合作が成立、日本は一枚岩となった中国を相手に戦うことになり、華北分離工作は失敗し戦闘は泥沼化し太平洋戦争に嵌まり込んでいくのである。

この項続く
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