Nonsection Radical

撮影と本の空間

カメラと写真の主従関係

2014年04月11日 | Weblog
先日行った写真展で、写真を撮った女性本人とおしゃべりをしていて、その人は旅をしながらスナップを撮っているんだけれど、「私、カメラの事はなにもわからないから、プログラム(モード)で撮っているんですよ」と自重気味に言うので、「スナップはタイミングと構図なんですから、パッと撮れれば何でも良いんですよぅ」と言うと、うれしそうに頷いていた。
デジカメになってフィルムカメラと比べると、ずっと”粒状性”も良くなったし、レンズだってシャープになった。
まあそれが写真と何の関係があるかという問題もあるのだけれど、少なくとも万能性という点ではこれ以上なんの必要があるのかと思うのだけど。
アマチュアであっても写真展などしている人を見ると、写真を見てもらいたいという気持ちが前面に出ている人が当然かもしれないけれど多くて、だからこそ写真を見ようという気にもなるのは、写真を見る事がレンズの描写の”確認”やカメラの”性能”を知る事ではなく、「鑑賞」する事だからだ。
絵を見て楽しむのと同様に、写真を見て楽しむのが当たり前の行為なのだ。
もちろん”同業”として、他人の写真を”参考”にしたり、”盗んだり”する”勉強”がある事は知っているが、それは自分が写真を撮るためにしているという”自覚”があるのだろうか。
そして自分は写真を”見る”という事が好きなのかという問いかけをしているのだろうか。
もっと言えば、カメラを操る行為が好きなのか、写真を生み出す事が好きなのかどっちなのだろう。
感じとしては、大多数の人は前者なのだろうと思う。
なぜならば、写真展には人が来ないからだ。
もっと言えば、写真を見に来る人がいないのだ。
面白くなさそうだから?
見なくてなぜわかる。
レンズがどうの、カメラがどうのと言う自分の”作例”よりもずっと素敵な写真が飾られているかもしれないじゃないか。
と言いつつ、写真になんか興味ないんだろうから、という気持ちもある。
写真家のトークショーなんかがあると、”何かのヒント”を得ようと多数押し掛けてワイワイしているが、ヒントは写真家のトークにあるのではなく、写真にあるのではないのかな。
その写真をジックリ見ないで、どんなヒントが見つかるのだろうか、活かせるのだろうか。
最大のヒントは、篠山紀信が言ったように「写真なんてのはね、バシャバシャ撮ればいいんだよ」以上のものはないと思うんだけどね。
まあ写真が好きでない人がイイ写真を撮れるわけがないと思うんだけど(たぶん)。




富小路通から夷川通を
京都府京都市中京区大炊町,鍛冶屋町,俵屋町,五丁目,六丁目,百足屋町,絹屋町,亀­屋町,福屋町,天守町,山中町,楠町,夷町
撮影 2014年3月8日 土曜日 13時25分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする