雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「慈雨」 柚月裕子著

2020-12-23 06:30:00 | 読書案内

読書紹介「慈雨」 柚月裕子著
     悔恨と再生。「自分は人生で二度逃げた」
  一度目は子供の頃、親友が陰湿ないじめに遭い神場は彼を救うことができなかった。
 いじめのリーダーは地域の有力者の息子だった。普段から道徳や友情について口煩く注意している担任
 に相談しようと決心する。が、神場が相談する以前に担任はいじめを知っていて、見て見ぬふりをして
 いたことを知り、神場は「親友のいじめ」から逃げた。
  二度目は16年前少女殺害事件だった。
 
 定年と同時に、妻香代子と一緒に四国八十八カ所を巡る巡礼の旅に出かけた元刑事神場(じんば)。
  
 警察官として自分が関係した事件の被害者を供養するための巡礼の旅であり、
  同時に自分の生き方を考える旅でもあった。

 「慈雨」というタイトルと表紙のデザインに惹きつけられ購入した(私の悪い癖です)。
 「慈雨」= やさしく、ものを慈しみ育てる雨。
  雨が降っている石段を上るトレンチコートの男が向かう先、濃い雨雲の垂れこめる行く先に、
  雨あがりを暗示する明かりがさしている。
  雨は「慈雨」となり、元刑事・神場に降り注ぎ、悔恨と再生の物語は幕を閉ざす。
  イメージを膨らませページを読み進んだ。

著者は執筆の動機を次のように語っている。
 「元々私は何かしら後悔を抱えた人が生き直す、、、、、再生の物語が書きたくて、神場夫婦を巡礼に行かせたんです。42年の警官生活に終止符を打った元刑事が妻〈香代子〉と歩く中で、胸に去来する思いだったり、前に進むには決着をつけなきゃならない過去だったりを、それこそ60年の人生分、追ってみようと思いました」

 残念ながら、私には著者の思いを十分に汲み取ることができなかった。
 読者として、良い読者になれなかったようです。
 「被害者たちを供養する巡礼の旅」であるはずなのに、
 元刑事神場は次のように思い、迷いから抜け出せない。

本人に非がなくとも、……ぼろぼろになり朽ち果てる者がいる。天災、人災を問わず、
人生の半ばで命を奪われるものもいる。……無残な形で命を落とした者を、数多く見てきた。
そうした被害者を思い出すたびに願をかけることに何の意味があるのだ、という思いが募ってきた。
そもそもこの巡礼に、意味はあるのか……。
被害者を救えなかった自分への、慰めに過ぎないのではないか。
単なる自己満足ではないのか。(引用)


 16年前の事件が定年後の今でも、神場の心に滓(おり)のようにまとい付き脳裏から離れることがない。
 6歳になる少女が凌辱され殺された事件だ。
 地元に住む男が被疑者として挙がった。あらゆる状況が男の犯行であることを示唆していた。
 男は一貫して無実を主張したが、DNA型鑑定が決め手となり懲役20年の判決を受けた。
 事件は落着したが、神場を含む一部の捜査員の中には疑問を呈する者がいたが、
 捜査の成り行きは、男を犯人とした。
 なぜ神場たちが疑問に思うか、その疑問点は小説の中で挙げられているが、
 決定的なネタバレになりかねないのでここでは触れることができない。
 縦割り権力組織の階級社会なかで、その大勢が指し示す結論に異議申し立てする勇気のなかったのは
 仕方のないことだと思う。
 新たな証拠を提示し、再捜査の申請をするが、上層部はこれを却下する。
 警察組織への威信が崩れることを怖れ申請は却下され、神場は沈黙する以外に術がなかった。
 神場にとってそれは、砂を噛む様なおもいだったに違いない。

 
 在職していた群馬県で7歳の少女が拉致され、山中で遺体となって発見される。
 旅先の巡礼宿のテレビで見た神場は、
 16年前に自分が担当した少女殺害事件に思いを馳せ、事件の類似性に気づき、
 再び事件に介入することになる。

  犯行に使用された、軽ワゴン車の行方が分からない。16年前にも犯行に使われたのは、
 白い軽ワゴン車だった。捜査は暗礁に乗り上げる。が、行方のしれない軽ワゴン車が、
 神場のアドバイスにより発見された。
 事件解明の重要なポイントであった軽ワゴンのトリックは、
 
何度か映画やドラマで使用されたトリックで、私はちょっとがっかりした。

 16年前の事件と現在の事件が一つに重なり、全容が見えてくる。

 忸怩(じくじ)たる思いで事件に関わる刑事だが、現職で活躍する16年前事件担当者だった神場の上司と
 元刑事の神場の責任の取り方が、なんとも切なく思えてくる。

  小説の最後の数行は次のように結ばれています。
    晴れた空から、雨粒が落ちてくる。雷雨でも、豪雨でもない。優しく降り注ぐ、慈しみの雨。
    慈雨だ。
    神場は香代子を見た。
    瞳を交わしたまま、自然と手を取り合う。
    結願寺は、すぐそこだ。
    神場は香代子の手を握りしめ、雨の中をゆっくりと歩きだした。(引用)
            ここで読者は、本の表紙がこの最後の場面をイメージしていることに気づく。
            この小説にあまり良い評価はできなかったが、30万部を超す売り上げ部数は
            多くの読者を獲得していることの証でもある。

      (読書案内№162)                         (2020.12.23記
)    



参考資料: 刑事訴訟における一事不再理
               刑事
事件では、審判の対象が過去に行われたとされる犯罪行為であるか
               ら、一事不再理の原則が貫徹する。つまり、有罪・無罪の判決、免訴の
               判決が確定すると、その事件について再度責任を問われることはなく
               (憲法39条)、確定判決があるのに同一事件についてふたたび公訴が提
               起されると、免訴の判決が言い渡される(刑事訴訟法337条1号)。

               「慈雨」は一事不再理については記述されてませんが、参考のため掲載
               しました。
               
               一事不再理に関した小説に松本清張の短編「一年半待て」があります。

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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読書案内「雪沼とその周辺」 堀江敏行著

2020-12-17 06:30:00 | 読書案内

読書案内「雪沼とその周辺」 堀江敏行著
   時代に取り残された「雪沼」(架空の地域)で、
   ひっそりと生きている人たちの
生活を綴る連作短編集。

新潮文庫 平成19(2007)年8月 一刷  同年同月二刷

 「雪沼」というネーミングに魅かれて購入した本の一冊。
購入する本は、
 ① 特定の作家の本
 ② 題名に魅かれる(例えば、題名に「雪」とか『月』、『氷』『炎』などの文字が織り込んであるもの)
 ③ 本の装丁・表紙に魅かれるもの
 ④ 本の広告を読んで。
   ①以外は外れの確率が高いが、①~④の基準で選び、良い本にあたったときは嬉しい。

 「雪沼……」はどうか。
     ②の「雪沼…」という題名に魅かれた。
 東北か山陰の山間の地名・地区名かと思っていたが、架空の地名だった。
 私にとっては新しい作家の発見になった。
 雪の中に埋もれ、ひっそりと息づいている北の寂れた架空の町で、やっぱりひっそりと生きている人。
 雪沼とその周辺に住む人の日常が淡々と描かれている。
 ストーリーがあるわけでもなく、ヒーローやヒロインも登場しない。
 しかし、練に練られた文章は生半可な短編ではないことを思わせる。

 たとえば、「スタンス・ドット」の文章は次のように展開される。

  舞台は今日で廃業するボーリング場の閉店が迫った夜。客は一人も来ない。
  壁際の照明を落とすと、古びた自動販売機の冷却モーターの音が大きく聞こえる。

  
    ……それにしても、ビールやジュースを冷やすために熱が必要だなんて滅茶苦茶な理屈
       だ。冷やせば冷やすほど放熱し、部屋が暑くなる。それを冷やすためにエアコンを入れ
       ると今度は室外機が熱風を外に吹き出す。暑さは場所を移すだけで消えはしないのだ。
       このまま仕事を続けていたら、俺の人生も何かを冷やすために余計な熱を出すだけで終
       わりかねないぞ……(冒頭から引用)

   といった情景描写が、営業最後の日の照明を落としたボーリング場を舞台にして続く。
       冒頭の一文を引用したが、これから展開される長編小説の序幕のようだ。
  著者の言いたかったことは「このまま仕事を続けていたら、俺の人生も冷やすために余計な熱を出す
  だけで終わりかねないぞ……と長年想い続けていた自分の人生に対する
  忸怩(じくじ)
たる思いであったことが分かる。
  五レーンしかない小さなボーリング場。それでも、
  1970年代初頭のボーリングの人気が高かった時を思い出し、「あれは確かに異常だった」と思い、
  こんなブームがいつまで続くはずはないと予想していたことを、
  最後の営業日に思い出したりもしていた。

  閉鎖することになった最後の夜の閉店時間30分前に訪れた、
  文字通り最後の客となった若い行きずりの男女と、
  妻を失った若くはない経営者との短い振れ合いを描く。
  たったそれだけの短編なのだが、なぜか記憶に残り、
  
再読したくなるような雰囲気を持っている。

  ボーリングのことについても、かなり詳しい描写が続く。
  たとえば、ピンの倒し方、スペアを取る時の注意、マイボールと既製品の相違等
  その描写力には脱帽。
  特にタイトルにもなっている「スタンス・ドット」について。
  スタンス・ドットとはファールラインに沿って埋め込まれた立ち位置のこと。
  投げやすいようにと床に埋め込んだ小さな三角の目印のこと。
  スペアを狙う際には、残留ピンの形にしたがって立ち位置を変え、球の進入角度を調整してそのつど
  足の置き方をずらすこと。フォームさえ安定していればすべてはアプローチで決まる。
  だが、この基本をプロボーラーを目指した、ハイオクさんは守らなかった。
  どんなに難しい位置にボールが残ろうと、彼は自分の立ち位置を変えなかった。
  残留ピンの位置によっては、スタンスの位置を変えなければスペアを取ることは不可能である。
  でも、ハイオクさんは立ち位置を変えなかった。ここ一番というときに勝利できなかったのは
  そのせいではなかったかと思う。
  たった一つ、ハイオクさんの投げた球は、ピンをはじく瞬間に、
  何とも表現できないような音を醸し出すということだ。
  レーンの奥からせり出してくる音が拡散しないで、大きな空気のかたまりになってこちら側に
    匍匐(ほふく)してくるほんわりして、甘くて、攻撃的な匂いがまったくない、胎児の耳に響い
  ている母親の心音のような音。
  誰にも出すことのできないこの音ゆえに、ハイオクさんはプロになれなかったのではないかと
  読者の私は推測するが、「立ち位置を変えない」という意地は、
  そのまま彼の人生に対するかたくなな意地、
  言い換えれば「スタンス・ドット」ではないのかと思いをはせる。

  競争社会の中で生きていくむずかしさ、
  「立ち位置」を変えずに自分の思うように生きていくためには、
  ときにたくさんの犠牲を払わなければならない状況が訪れてくる。
  それでも生きるためのスタンスを変えない。
  生きることに不器用な人たちの生きる姿を、卓越した文章で淡々と描いている短編集。
  登場人物の多くが老いのきざしを漂わせているが、彼らの背負う人生の過去は、決して
  暗くはなく、背中に哀愁を感じるような魅力を持っている。
  抱えてきた過去から逃げずに、
  明日に向けて一歩を踏み出す静かな意志を感じさせられる登場人物だ。

  センテンスの短い読みやすく、かゆいところに手が届くようなサービス旺盛な文章に慣れてしまった
  読者にとっては、読みずらい小説かもしれない。
  描かれている物語は、どの物語も何の前触れもなく、
  緞帳を吊るワイヤーが突然に切れるように終わってしまう。
  読者は一瞬取り残されてしまうが、最後数行に込められた著者の思いをくみ取り、
  自分流に解釈するのも小説の楽しみである。

  「スタンス・ドット」:閉店最終日の閉店時間30分前に訪れた若いカップルとの交流を淡々と描く。
  「イラクサの庭」:雪沼の片田舎でフランス料理を人に教え、孤独のうちに生を閉じた老女の心の秘密
           を描く。臨終の間際に聴き取れぬ言葉を残して彼女は死んだ。
           彼女は何を言いたかったのだろう……
         「河岸段丘」:なけなしの金で河岸段丘にある安い土地を手に入れ、小さな製缶工場を営む田辺。
         つい十年前まで自分でできた作業も今は覚束なくなっている。重い製缶機が傾いてき
         たのは機械が老朽化したためか、それとも土地の地盤沈下のせいなのか田辺は悩む。
   「送り火」:私の好きな物語だ。大雨の日に川を見に行って流され、亡くなった
         一人息子を偲びながら庭でランプをともす老夫婦。
切ない情感が漂う。
   他に、「レンガを積む」 「ピラニア」「緩斜面」があり、いずれも過去に挫折をし、
   その重荷を背負いながら、生きる姿勢を崩さない人々の静かな生活を
   「雪沼とその周辺」という架空の土地に生きる人々を描いている。
  
   富や名声や誇りという身に纏(まと)ってしまうと、
   これらに付随する世間的なしがらみがまとわりつき、
   この小説に登場する人びとにとっては、おそらく息苦しい場所になってしまう。
   「雪沼」は、一風変わった人々を温かく包んでくれる楽園なのかもしれない。

    川端康成文学賞 谷崎潤一郎賞 木山捷平賞を受賞

      (読書案内№161)      (2020.12.17記)

 

 
 
   

  

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姉の認知症

2020-12-11 06:30:00 | つれづれに……

  姉の認知症

      姉の認知症に気づいたのは10年以上も前のこと。
   ご主人(義兄)と二人暮らしの姉。訪れた玄関には宅配の弁当が二つ。
  「んっ?」。料理が得意の姉がなぜ宅配の弁当をと、私は不思議に思う。
  遠方から訪ねた私に、お茶を淹れようとする。だがどこかぎこちがない。
  急須から出てきたものは白湯だった。
  「ぼくがお茶入れるから、○○は座っていていいよ」
  「あら、そうですか。すいません、お父さんお願いします」
  私が姉の認知症に気づいた出来事でした。

  それから2~3年たち、症状はどんどん進んで行った。
  「財布が盗まれた」とパトカーを読んでしまう。
  徘徊も始まり、泥だらけになって帰ってくる。
  暴力的な行為も増えた。
  でも、ご主人は姉を施設には入れたくないと姉を支えて頑張った。
  もう、とっくに老老介護の限界を超えていた。
  「〇〇さん(私のこと)、人間はあまりに長生きしてはいけなんだ。
  生きてるだけで誰かに迷惑をかけてしまうから」。
  哀しい述懐である。
  
  義兄の母は
  103歳まで生きた。気丈で死ぬまで毒舌は止まなかった。
  その姑に姉は嫁としてよく仕えた。
  姑が亡くなって、ほっと一息。
  「お父さん、これから二人でゆっくりしようね」
  夫婦に安らぎが訪れた。
  しかし、ホッとしたのか間もなく姉は認知症を発症した。

  嫁いだ娘の介助にも限界があり、施設入所をみんなで話し合った。
  自分の妻の面倒を見ることに意地を張れば、娘たちにも迷惑をかける。
  同時に介護の限界も感じた義兄は、渋々入所を承諾し、
  自分の妻の面倒を見られなくなった自分が情けないと、目を潤ませた。
  義兄はバスを乗り継ぎ、妻のホームへの訪問を欠かさなかった。

  それから数年が過ぎ、義兄に癌が発見された。
  末期がん。余命を宣告された。
  だが、気丈な義兄は、体調のいい時には妻のいるホームを見舞っていた。
  余命を生き抜き、文字どおり眠るように、
  嫁いだ娘ふたりに看取られて、
  妻と二人の思い出の残る自宅での静かな旅立ちだった。
  私たち夫婦が見舞った翌朝のことだった。
  家族葬が営まれ、
  故人を送るのに、とても穏やかな野辺送りになった。

  

  一時間半、高速道路を走って、今ではもう私の名前さえ忘れてしまった姉を見舞う。
  娘たちの名前さえ記憶のかなたに埋もれてしまったのに、
  「お父さんはどうしたのかね。このごろ全然来ないのよ」と何度もつぶやく姉は
  今年、87歳になった。

  コロナ禍のもと、面会禁止になっているホームで姉は今日も
  「私のお父さん、どこへいったのかねぇ。お父さんはのんきだからねぇ」と、
  一人呟いているのだろうか。


  (2020.12.10)          (つれづれに……心もよう№110)

 

 

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読書案内「わたしを わすれないで-forget me not-」 角野栄子訳

2020-12-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「わたしを わすれないで-forget me not-」
                角野栄子訳 ナンシー・ヴァン・ラーン文
                2018.3.10初版 マイクロマガジン社


私のおばあちゃん。
やさしくて おりょうりやケーキづくりが とっても上手です。
わたしの だいすきなおばあちゃん。
おばあちゃんは ひとりでくらしています。


 

みんなで おばあちゃんの家にあそびに行くと わたしのだいすきな フライドチキンやサラダをつくってくれた。


                   おばあちゃんに えほんをよんでもらうのがすき。
                   おばあちゃんは シナモンとライラックのようないいにおいがする。

 でも、このごろおばあちゃんはちょっとへん
 とっても わすれんぼになってしまった おばあちゃん
 いっぱいいっぱいわすれて わたしたちのなまえまでわすれてしまつた

 おばあちゃん わたしのなまえは ジュリアよっていうと
 「おや まあ、うっかりしちゃった!」ってわらったおばあちゃん

 わたしといっしょに どうぶつえんにいったことも イチゴつみにいったことも
 どんどんわすれていく……

 認知症の症状がだんだん進んできて、大切なことを全部忘れてしまう。
 買い物に行ったおばあちゃんは迷子になってしまう。
 もう一人での生活は無理な段階にきている。
 やさしいジュリアは、
 「かあさん、おばあちゃんは どうしちやったの」とお母さんに聞いた。
 「ジュリア、としをとるとね、めや、みみが わるくなるのはしっているでしょ?
 なかには いろいろなこと おぼえていられなくなる ひともいるの。あなたのおばあちゃんのようにね。」

 悲しく辛い現実をジュリアに説明するおかあさんです。
 老人ホームにいったおばあちゃん。
 ジュリアのことも分からなくなってしまったおばあちゃんに、ジュリアは考えます。
 「かがやくような たのしいこと おもいださせてあげたいなあ」
 ジュリアは、おばあちゃんのために あることを計画します。
 
 春になったら……

     
    やさしい孫のジュリアちゃんの目を通して、
    認知症のおばあちゃんをみつめる姿がいじらしく、
    ほっこりする絵本です。
     
                (2020.12.5記)     (読書案内№160)
       

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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