読書紹介「慈雨」 柚月裕子著
悔恨と再生。「自分は人生で二度逃げた」
一度目は子供の頃、親友が陰湿ないじめに遭い神場は彼を救うことができなかった。
いじめのリーダーは地域の有力者の息子だった。普段から道徳や友情について口煩く注意している担任
に相談しようと決心する。が、神場が相談する以前に担任はいじめを知っていて、見て見ぬふりをして
いたことを知り、神場は「親友のいじめ」から逃げた。
二度目は16年前少女殺害事件だった。
定年と同時に、妻香代子と一緒に四国八十八カ所を巡る巡礼の旅に出かけた元刑事神場(じんば)。
警察官として自分が関係した事件の被害者を供養するための巡礼の旅であり、
同時に自分の生き方を考える旅でもあった。
「慈雨」というタイトルと表紙のデザインに惹きつけられ購入した(私の悪い癖です)。
「慈雨」= やさしく、ものを慈しみ育てる雨。
雨が降っている石段を上るトレンチコートの男が向かう先、濃い雨雲の垂れこめる行く先に、
雨あがりを暗示する明かりがさしている。
雨は「慈雨」となり、元刑事・神場に降り注ぎ、悔恨と再生の物語は幕を閉ざす。
イメージを膨らませページを読み進んだ。
著者は執筆の動機を次のように語っている。
「元々私は何かしら後悔を抱えた人が生き直す、再生の物語が書きたくて、神場夫婦を巡礼に行かせたんです。42年の警官生活に終止符を打った元刑事が妻〈香代子〉と歩く中で、胸に去来する思いだったり、前に進むには決着をつけなきゃならない過去だったりを、それこそ60年の人生分、追ってみようと思いました」
残念ながら、私には著者の思いを十分に汲み取ることができなかった。
読者として、良い読者になれなかったようです。
「被害者たちを供養する巡礼の旅」であるはずなのに、
元刑事神場は次のように思い、迷いから抜け出せない。
本人に非がなくとも、……ぼろぼろになり朽ち果てる者がいる。天災、人災を問わず、
人生の半ばで命を奪われるものもいる。……無残な形で命を落とした者を、数多く見てきた。
そうした被害者を思い出すたびに願をかけることに何の意味があるのだ、という思いが募ってきた。
そもそもこの巡礼に、意味はあるのか……。
被害者を救えなかった自分への、慰めに過ぎないのではないか。
単なる自己満足ではないのか。(引用)
16年前の事件が定年後の今でも、神場の心に滓(おり)のようにまとい付き脳裏から離れることがない。
6歳になる少女が凌辱され殺された事件だ。
地元に住む男が被疑者として挙がった。あらゆる状況が男の犯行であることを示唆していた。
男は一貫して無実を主張したが、DNA型鑑定が決め手となり懲役20年の判決を受けた。
事件は落着したが、神場を含む一部の捜査員の中には疑問を呈する者がいたが、
捜査の成り行きは、男を犯人とした。
なぜ神場たちが疑問に思うか、その疑問点は小説の中で挙げられているが、
決定的なネタバレになりかねないのでここでは触れることができない。
縦割り権力組織の階級社会なかで、その大勢が指し示す結論に異議申し立てする勇気のなかったのは
仕方のないことだと思う。
新たな証拠を提示し、再捜査の申請をするが、上層部はこれを却下する。
警察組織への威信が崩れることを怖れ申請は却下され、神場は沈黙する以外に術がなかった。
神場にとってそれは、砂を噛む様なおもいだったに違いない。
在職していた群馬県で7歳の少女が拉致され、山中で遺体となって発見される。
旅先の巡礼宿のテレビで見た神場は、
16年前に自分が担当した少女殺害事件に思いを馳せ、事件の類似性に気づき、
再び事件に介入することになる。
犯行に使用された、軽ワゴン車の行方が分からない。16年前にも犯行に使われたのは、
白い軽ワゴン車だった。捜査は暗礁に乗り上げる。が、行方のしれない軽ワゴン車が、
神場のアドバイスにより発見された。
事件解明の重要なポイントであった軽ワゴンのトリックは、
何度か映画やドラマで使用されたトリックで、私はちょっとがっかりした。
16年前の事件と現在の事件が一つに重なり、全容が見えてくる。
忸怩(じくじ)たる思いで事件に関わる刑事だが、現職で活躍する16年前事件担当者だった神場の上司と
元刑事の神場の責任の取り方が、なんとも切なく思えてくる。
小説の最後の数行は次のように結ばれています。
晴れた空から、雨粒が落ちてくる。雷雨でも、豪雨でもない。優しく降り注ぐ、慈しみの雨。
慈雨だ。
神場は香代子を見た。
瞳を交わしたまま、自然と手を取り合う。
結願寺は、すぐそこだ。
神場は香代子の手を握りしめ、雨の中をゆっくりと歩きだした。(引用)
ここで読者は、本の表紙がこの最後の場面をイメージしていることに気づく。
この小説にあまり良い評価はできなかったが、30万部を超す売り上げ部数は
多くの読者を獲得していることの証でもある。
(読書案内№162) (2020.12.23記)
参考資料: 刑事訴訟における一事不再理
刑事事件では、審判の対象が過去に行われたとされる犯罪行為であるか
ら、一事不再理の原則が貫徹する。つまり、有罪・無罪の判決、免訴の
判決が確定すると、その事件について再度責任を問われることはなく
(憲法39条)、確定判決があるのに同一事件についてふたたび公訴が提
起されると、免訴の判決が言い渡される(刑事訴訟法337条1号)。
「慈雨」は一事不再理については記述されてませんが、参考のため掲載
しました。
一事不再理に関した小説に松本清張の短編「一年半待て」があります。