雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

江戸の感染症 ① 感染症に魑魅魍魎を見る

2021-03-26 06:30:00 | つれづれに……

江戸の感染症 ①感染症に魑魅魍魎(ちみもうりょう)をみる
                     
                           ※ 魑魅魍魎 = 人に害を与える化け物の総称。
                             また、私欲のために悪だくみをする者のたとえ。
                             「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。
                             「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。
                                 (三省堂 新明解四字熟語辞典より)

  『人類と感染症』
   緊急事態宣言が21日で全面解除になる。
 東京、神奈川、埼玉、千葉の4都道府県への宣言は2度の延長を経て、
 2カ月半で終了することになる。
 リバウンドが懸念される中の宣言解除だから、解除後も自粛しながら、
 当面は感染の状況を把握しながら日常生活を続けることが肝要と思う。

   人類の歴史は、戦争と感染症の歴史でもある。
 戦争は科学技術を飛躍的に向上させ、
 船も、飛行機も、兵器類のすべてを進化させた。
 究極の発明は、火薬の爆発力を飛躍的に発展させ、原爆を発明したことだろう。
 同じように、感染症も医術に携わる人たちのたゆまぬ努力と研究があり、
 医術の進歩もまた感染症の暗闇の中から一条の光を見出すような人類愛と、
 時によっては自己犠牲と危険な人体実験の末に
 ウイルスや細菌の感染症の蔓延から、人類絶滅の危機を救ってきた。

   『感染再拡大の危険に立たされている』
 ウイルスは心地よい宿主を探し、寄生し仲間を増殖していく。
 宿主に憑(と)りついたウイルスは、憑りついた宿主の生命を奪い、
 次から次へと新しい宿主に憑りついていく。
 やがて同種のウイルスが蔓延し、何度か感染の再拡大を経て宿主に耐性ができてくるころには、
 ウイルスは変容し変異株として、宿主を侵食しはじめる。
 感染再拡大(リバウンド)が始まり、
 コロナ禍の蔓延する中、私たちは今、緊急事態宣言が解除されたとはいえ、
 感染症の対応を誤ってしまえば、取り返しのつかない瀬戸際に立たされている。

 『百万都市・江戸の感染症』
   百万都市といわれる江戸時代にも、人々の生命を脅かし、
   社会の混乱を引き起こした感染症が何度も発生した。

 コロリ退治の絵「虎列刺退治」1886年 (図1)         『麻疹退治』落合芳幾 画 1862年(図2)                   
   

  図1・1886(明治19)年の図ですが、
    江戸時代のコロリ退治のイメージをよく捉えているので掲載しました。
    1862年(文久2年)に麻疹とともに大流行し、
    全国で56万人もの患者を出したといわれている伝染病がコレラ。
    
「コロリ」と呼ばれ、「虎烈刺」「虎列拉」「虎列刺」などの漢字が当てられました
    貌は虎、胴体は狐、狸の大きなオチンチンに潰されている感染者が哀れ。
    明治の中頃になると感染症対策として消毒という概念が生まれていたのでしょう。
    戦(いくさ)姿の人がコロリ退治をしている、これは当時の風刺画なのでしょう。
    なぜ、「虎」なのか。
    急激な症状の悪化と、感染の早さが1
日に千里を走るとされた虎を連想させるからだそうです。
    当時の医学技術では、原因不明の病で、コロリと死んでしまう怖ろしい病のイメージが強く、
    「妖怪【虎狼狸(コロリ)】の仕業に違いない」という話も流布されたようです。
  図2・1862(文久2)年
        麻疹(はしか)流行によって被害にあった風呂屋などの職業の人々が麻疹神を退治しているところ。
    上部にはしかによい食べ物と悪い食べ物や行動が列挙されています。
    入浴ははしかに禁物だったようです。

    
天然痘・麻疹(はしか)・インフルエンザ・コレラなど、過密都市ゆえに、疫学の未発達の時代に
    感染症が発生すれば、人々は得体のしれない「魔性」の勢にして、不安を増幅させていったよう
    だ。
      図3 麻疹送出し之図   図4『項痢(コロリ)流行記』 

                             

    図3 中央にいるのは麻疹を擬神化した「麻疹神」。全身に赤い発疹が見える。
        水飴や汁粉など麻疹に良いとされた食べ物たちが麻疹神を桟俵にのせて
      “神送り”しているところ。この時に流行したのが「はしか絵」と呼ばれるもので、
       お守りのような役目があったようだ。おそらく、
      家の中の目立つ場所に貼って注意を喚起したのだろう。
      感染しても軽くすむおまじないや、
      予防・心得、食べて良いもの悪いものなどが書いてある。
      ただし、医学的に実証されたものではなく、
      伝聞や巷で囁かれている民間療法的な情報を載せているものがほとんどのようだ。
      【落合芳幾 画 1862(文久2)年)】
 

    図4 コレラの大流行で
死者が続出し、あまりの数に大混乱する江戸の火葬場のようす。
        1858年(安政5年)の『項痢(コロリ)流行記』(仮名垣魯文 著)の口絵に描かれた。
        棺桶が積み重なっている。
                1822(文政5)年にはコロナの発生が記録に残されています。
        おそらく、長崎・出島に出入りするオランダやポルトガル船が感染源となるのでしょう。

                        この頃、外国船が頻繁に訪れ(漂流、密輸、水や薪などを補給)、幕府は度重なる異国船の
        侵入に「異国船打払令(1825年)」などを出し、外国船の侵入に神経をとがらせていた。
        シーボルト事件(1828年)も、外国に対する警戒の要因となっただろう。

       唯一外に向けて開かれていた長崎・出島は当時の先進国であるポルトガル、オランダ、イ
       ギリス、中国船などの異国文化の香りのする貿易港であったが、感染症のウイルスも
       人や物を媒体として侵入してきた。

       
コロリが日本にはじめて入ってきたのは1822年(文政5年)だそうです。
       それから6年後の1858年(安政5年)にコロリが発生したときには3年にもわたり西日本を
       中心に大流行、ついに箱根を超えて江戸の町でも猛威をふるい数万人を超す死者が出たと
       いわれていますが、文献によっては箱根を超えなかったともいわれている。

       人々の命や生活を脅かし、社会崩壊をも起こしかねない感染症は、
       何度も江戸の街を襲ったが、その対策はどうであったのかを次回述べてみたい。

     (つれづれに……心もよう№112)      (2021.03.23記)

 

  

 


    

 


  

 

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読書案内「最期の言葉の村へ」 ③ 誰にも止めることはできない

2021-03-20 06:30:00 | 読書案内

読書案内「最期の言葉の村へ」
③ 誰にも止めることはできない
 (前回②からの続き)
 だが、……

(ランプの中の)縄の切れ端を灯心にして火をつけた。私の灯油が共給する弱い黄色のチラチラする明かりが、夜の闇を照らした。私がガンプにいないときは、商売に意欲的な村人が儲けるため町で買ってガンプに持ち帰って売った。電池式の安い中国製LEDランタンのスイッチを入れる者もいた。そういうランタンの光は青く冷たくてギラギラしている。電池の消耗が早いため、ランタンは数日しか持たない。そして熱帯雨林で電池は入手しにくい。(引用)

 最後に奪われるものは
   白い人たちが訪れるたびに、ガンプの村は豊かになり、人々は白い人たちを歓迎した。
   熱帯雨林の中の植物を採って食べ、獲物を捕らえ、さばいて食べる。
   すべての行為は自分たちのために…である。
   簡単な布、あるいは植物で編んだ物を腰の周りに巻き付けるだけの簡易なもの、
   そんなものさえ必要としない部族もいる。白い人が入ってくれば、腰の巻布は短パンに代り、
   やがて、それらは富の象徴として定着していく。
   著者が訪れたとき、彼らは泥で汚れ、よれよれになりぼろぼろの短パンを身に着けていた。
   それは、貧しさゆえにという理由からではなく、
   元来衣服に対する感覚が私たちとは異なっていて、
   白い人が持ってきた便利な物程度の意味しか持っていないのだ。
           銃を持った白い人と一緒に暴力も入ってくる。

   物と物の交換を経て、最後に彼らが交換するのは、人とお金なのだ。
           「人狩り」(という表現は著者は使用していない)が頻繁に行われる。
   白い人が熱帯雨林の村々を訪れ、
短期契約労働者として男たちが他所に集められ、
   村々から消えていく。
   プランテーションで働く労働力としてガンプ村の人々も「狩られ」ていく。  
  

プランテーションとは
 プランテーション (plantation) とは、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、国際的に取引価値の高い単一作物を大量に栽培する(モノカルチャー)大規模農園またはその手法をさす。 植民地主義によって推進され、歴史的には先住民や黒人奴隷などの熱帯地域に耐えうる安価な労働力が使われてきたコーヒー、カカオ、天然ゴム、サトウキビ、綿花、バナナなどが商品作物として生産され輸出される。近年では労働者の人権問題、地球環境等問題も多数内蔵している。               (ウィキペディア等を参照 加筆)

   数年後、契約労働を終えた男たちは帰ってくる。
   西洋由来の土産を持って、たとえば点かなくなった懐中電灯の電池であったり、
           鍋や釜、工場生産の布などである。
   そして、最大の土産は公用語として使われている新しい言語トク・ピシンであった。
   白い人達が訪れるたびに持ってきた物をガンプ村の人々は歓迎した。
   新しいものが入ってくるつどに村は変化し、それに伴って何かを失っていった。
   新しい物、特にトク・ピシン語を話すことは、
   彼ら契約労働者としてプランテーションで働いた者たちにとっては、
   最高のステイタスシンボルになったのに違いない。
   トク・ビシン語はまさに彼らにとって、
   新しい社会へと繋がる扉を開ける貴重な鍵だったに違いない。
   
   古いタヤップ語は、おそらく未発達の言語なのだろう。全くの想像だが、
   「美しい」という言葉には多くの意味があり、
   例えば、愛らしい、可愛い、愛しい、このましい、
   きれい、いさぎよい、さっぱりしているなど、広辞苑には多くの例が出ている。
   古代社会においてはこの「美しい」という言葉一つで表現していました。
   言語が発達し成熟してくると、言葉の意味が単純化し、
   たくさんの修飾語などでより的確な表現をするようになります。 
   ステイタスシンボルのトク・ビシン語は表現力豊かであるが、
   老人や女子供たちが話すタヤップ語は陳腐で時代遅れと若者たちは思う。
   日本語が時代の変遷の中で変遷してきたように、ガンプの村にも時代の波は
   「文明」という新しい風をもたらしたのだ。

   もう誰にも止めることはできないであろう。

かってガンプに固有だっ物の大部分はタヤッブ語が衰え始めるよりずっと前に消滅していた。情け容赦のない巨大なプルトーザーのごとく、20世紀はガンプのーそしてパプアニーユギニアのほどんとの地域のー人々が信じていたもの、作り上げていたものをすべて破壊してしまった。(引用)

      トク・ビシンが侵入するはるか前に文化の崩壊が始まった。白い人が悪いのではない。
  白い人が運んできた文明が悪いのではい。
  全ては、淘汰という原理に従った結果なのかもしれないと私は思った。

  この本の全容を紹介するには、あと何枚の用紙を用意したらいいのだろう。
  言語が淘汰されていく過程を大まかに紹介できたと思いますが、
  最後にとても辛い現実を紹介して終わりとします。

ガンプの村に現れた集団 殺戮と恐怖
  ガンプ村を訪れたのは、「白い人」ばかりではなかった。
  1942年、太平洋戦争のさなかガンプ村に訪れた集団があった。  
  ガンプの村人はその集団のために家を建ててやり、塩と交換にサンゴヤシを提供した。
  訪れた集団は最初友好的で、村人にも歓迎された。 

だがやがて兵隊は、マラリアをはじめとした熱帯性の病気にかかるようになり、、
連合国側の爆撃のため補給路が断たれると餓えはじめた。
彼らはどんどん凶暴で暴力的になり、村人は恐怖に怯えた。
(ガンプの人々は)熱帯雨林の中に逃げ込み、一年以上を逃避生活を強いられた。
それは苦難と死の期間だった。
大人の40%が流行した赤痢で亡くなった。
(死者の内の)大半が高齢者であり、トク・ビシン語を知らない人たち(タヤップ語を話す人たちだった)。
戦争を生き延びた村人の大多数はある程度のトク・ピシンの知識を有しており、
生き残った多くは流暢に話すことができた。
                  (引用・理解しやすいように少しアレンジしてあります)

  狂暴化し、多くのガンプの人々を死に追いやり、
  タヤップ語を話す人々を減少させ、トク・ビシン語の普及に拍車をかけた。

  その軍隊は日本軍であった。

  そればかりでなく、戦後キリスト教の伝道師たちは、トク・ビシン語で普及を始め、
  村人はトク・ビシンによる祈りを唱え、賛美歌を歌い、ミサに聞き入った。
  さらに、前述したように、
  契約労働者として村を出た人々によるトク・ビシンの普及も大きく影響したようだ。

最後に
  消滅危機言語は、タヤップ語ばかりでなく、根未開の地で暮らす人々の部族や地域に
  今なお数多く存在している。しかも、50年経ち、100年も経てばそのほとんどの言語は
  その存在を失くしていくだろうと著者は論を閉じている。
  文明化そのものは、悪いことではないが、それに伴い先祖から受け継いだ文化が失われ、
  消滅していき、誰にもそれを止めることはできないという現実を突きつけられて、
  私は唖然とした。
                                      (おわり)

      (読書紹介№170)                (2021.2.3記)
   

 
  

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読書案内「最期の言葉の村へ」 ② 失われていく言語・タヤップ語

2021-03-14 06:30:00 | 読書案内

最期の言葉の村へ ② 失われていく言語・タヤップ語
                ー消滅危機言語タヤップを話す人々との30年ー
      言語の消滅について
   言語が消滅するのは、突然になくなるわけではない。
   長い年月をかけて徐々に徐々に話者が減少し、
   その社会を構成する古い言葉を話す人が少なくなり、
   新しい言語に駆逐されていくのだろう。
   太平洋戦争において、日本の軍隊が占領したアジアの国々では、人々に日本語が強制された。
   日本語の教育を通じて、日本国民であるという意識を植え付けるためだったと言われています。
   植民地等で行う統治政策の一環として、
   統治国の言語を強制したのは日本だけではありませんでした。
   しかし、タヤップ言語の自然消滅は強制されることなく消滅していくところに
   大きな問題があるようです。 

その言語が「成熟して勢いを失ったからでも、より広い音韻体系や豊かな構文を持つ言語に滅ぼされたのではない。人が話さなくなったからだ」(引用)

文明という巨大な波  
   「 人が話さなくなった」タヤップ語。なぜ、人々がタヤップ語を話さなくなったのか。
  文化の進歩と社会的な発展は、孤絶した熱帯雨林のガンプ村にも押し寄せてきます。
  たった100人そこそこの村の中に発達し成熟した異文化の人間が入ってくる。
  著者のクリックが未開のこの村に最初に訪れた時、
  それまでに村を訪れた白人は、十数人に過ぎなかった。
  数人のオーストリア人行政官、ドイツ人宣教師、
カトリックの司祭数人だけのようだった。
  彼らは行政や宗教的活動を終了すると、さっさとこの地を後にし、二度と訪れなかった。

  だが、こうした村にもやがて文明の波が訪れ、村の文化は少しずつ変化していった。
  新しいものが入り、貨幣文化が少しづつ彼らの生活を変えていった。
  言語さえも例外ではなかった。

 調査に着手すると、著者は戸惑う。タヤップ語はなぜ消滅していくのか。その理由を知れば知るほど、〈文明〉側の影がちらつき「不快」となっていく  (引用)

 多数が少数を駆逐する
  50年後にはタヤップ語は完全に消滅しているだろうと、著者は危惧する。
  最初に彼が訪問した時、人口130人のうちタヤップ語を話すのは90人だった。
  30年後の現在では、200人中45人ほどだ。
  村は拡大し、言語は縮小している。
  最盛期の時でも、タヤップ語の話者はニューヨークシティの地下鉄の1両におさまるくらいだった。
  大都会の中を大勢の人々を飲み込んで走る電車のたった1両におさまった、
  タヤップ語を話す人々が運ばれていく光景を想像し、私は肌寒さを覚えた。
  多数が少数を駆逐していく構図が浮かび上がり、
  蜘蛛の巣の迷宮に迷い込んだような不安をぬぐい切れなくなった。

言語以前に消えた物
  文明から隔絶し、祖先たちから受け継いだ村の変化のない生活が良いとは言わないが、
  一端文明の恩恵にあずかってしまうと、彼らが続け守って来た熱帯雨林での生活は
  瞬く間に崩れ去ってしまう。
  必要のないものは忘れ去られ、より必要なものにとってかわられる。       
  「言語もその例外ではない」と著者は言う。
  言葉よりもはるか以前に未開の地から消えていったものがある。
  文化だ。
  文字を持たない彼らは、祖先たちが守り育てて来たものを、口伝で伝えてきた。
  それが彼らの生活を支える文化であり、規範であった。
  村の規範(ルール)は老人から若い人へと継承されていく。
  森に棲む精霊のことだったり、死者がよみがえってくる話だったり、
  死んだ老人がいかに賢い人だったかを伝えた。
  森の中に住む得体のしれない動物に追いかけられ、
  腰を抜かし小便を漏らし、脱糞した話を彼らは面白おかしく語り、伝承していった。
  「ピスピス・ペクペク・ワンタイム」(大小便を漏らす)等の話が大好きで、
  何度も繰り返し話、聞くたびに笑い転げる。

  未開の村に最初に入ってくるは、多くの場合白い人たちである。
  宗教家や探検家たちがそれぞれの思惑をもって訪れる。
  同時にキリスト教の普及と西洋由来の文物がどっと入ってくる。
  薬という魔法を使い、蔓延する皮膚病を治し、身体に入り込んだ悪魔を解熱剤で追いはらう。
  自然界に宿る神々は影を薄くし、精霊たちは姿を消す。
  ナベやカマが持ち込まれ、食生活は便利になり豊かになった。
  太陽が消えたとたん、村は真っ暗になる。

 村人は、懐中電灯の明かりと、月が出ていればその弱い光を頼りに動きまわる。懐中電灯は大半の大人が所有しているものの、電球が切れていたり、電池が切れたりしていることも多い。家では、村人は夕食を用意するのに用いた小さな炉のそばに座るか、ベランダに出て、燃えさしがまだ炎を上げている金属の器のそばに座る。(引用)

   闇が訪れれば、早々に引き上げ粗末な小屋に引き上げなければならなかった。
   金属の器は女たちを喜ばせ、団欒の時間を長くした。 
   だが、生産技術や補給手段のない文明の利器は、無用の長物になってしまう。
   彼らは、暗闇を照らさなくなった懐中電灯をみつめながら、
   暗闇を照らす魔法の棒の便利さだけを記憶の底に残す。
   次に白い人が訪れた時彼らは法外な値段の電球や電池を、
   薬草や毛皮と交換に買わせられるはめになる。
   著者が持っていった燃える水(石油)も、団欒や社交の時間を長くした。
   懐中電灯とランプはガンプ村の生活を桁違いに飛躍させた。
   だが、……
                            (つづく)
        次回③は 「文明の浸透と消滅危機言語」について、「最後に奪われるものは」、
                「ガンプの村に現れた集団」、「最後に」の章だてで紹介します。

      (読書紹介№168)                (2021.2.1記)
   

 
  
  


 

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読書案内「最期の言葉の村へ」 ①パプアニューギニア・熱帯雨林の村

2021-03-08 06:40:45 | 読書案内

読書案内「最期の言葉の村へ」 ドン・クリック//著  上原恵//訳
              ー消滅危機言語タヤップを話す人々との30年ー 
  ① パプアニューギニア・熱帯雨林の村

   いかにして古代からの言葉が消えていくのか。西欧文明が村から奪っていったものとは-。パプアニューギニアの村ガプンの人々と寝食を共にし、ネイティブ原語を30年間にわたり調査してきた言語人類学者によるルポルタージュであり、学術書ではない。

 (原書房 2020.1.25刊 第一刷)
  著者は通算30年にもわたり、言語がどのように消滅していくのか調査研究した。
  本の紹介をする前に、書かれた内容理解するため、
  調査対象となったパプアニューギニアのことを調べてみました。

 場所は、オーストラリアの北で太平洋の島国。
 面積は日本の約1.5培だが、未開の地も多い。治安も良くないようだ。
 人口は約600万人で、1㎢に12人の人口密度である。
 日本は1㎢に347人、東京は6015.7人/1㎢と比べれば一目瞭然。
 民族は多民族国家で、少人数の部族に分かれて生活している。
 部族の単位は少ない部族で数十人~数百人で、
 それぞれの部族ごとに独自の言語、習慣、伝統を持っている。
 英語が共通語だが、部族ごとの言語を持っている。
 パプアニューギニアは世界で最も言語の豊富な国といわれ、
    また世界で最も言語の消滅の危険が高い国と言われている。
            
 険しい山岳地帯、湿地帯に阻まれて部族間の交渉が少なかったこともあり、
 小さなコミュニティが独自の文化・言語を発達させ、人口が600万人に対して、
 言語の数は800以上にもなる

 そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下である。
                                   (ウィキペディア参照)  
   調査対象となったのは、熱帯雨林の奥深くにあるガンプという村だ。
   かっては村人はタヤップ語(おそらく、ギリシャ語、中国語、ラテン語と同じくらいに古い言語)
   を話していた。
   この国は、世界中のどの国よりも多くの言語を有している。
   800万人余り(ウィキペディアでは600万人となっている)が暮らす地域に、
   1000以上の異なる言語、単に方言や変種だけでなく、まったく別の言語が存在する。
   その大半はいまだ文書に記録されておらず、多くは、500人以下の話者しかいない。
           著者のドン・クリック氏は、タヤップ語はまったく独自の言語で、
   係累がなく文字を持っていない。

現在、この言語(タヤップ語)を積極的に話すのは50人にも満たない。近い将来、タヤップ語は私がこの歳月で残した記録にしか登場しなくなるだろう。話者がいなくなり、言語が忘れられたあと、記禄だけが心霊体のごとく長い間残ることになる。(引用)

   川を船でさかのぼり、幾日もかけて森林を進んだ熱帯雨林の奥深くにどの言語とも関連していな
 いらしい言語を話す小集団があるらしい……。
  言語学者レイコックが現地人から得た情報であるが、
 この言語学者はこの小集団が住むと言われる村に行ったわけではない。
 ガンプと言われるこの村はあまりに遠く、未開の地に在ったからだ。
ガンプの村は、
20ほどの小さな家が狭い空地の真ん中にでたらめに並んでいるような無秩序な場所だった。
大量発生する蚊、ワニ、くねくね動いて人の眼の中に入って行こうとする黒いヒル、
きわめて毒性の強い蛇、果てしなく広がる泥、泥の中にひそむぎざぎざの鋸歯を持つ蔓性植物。
そして、何よりも暑い。
うだるような、情け容赦ない、頭の痛くなる、ぐったりさせる蒸し暑さに、
全身の毛穴から汗が噴き出すような劣悪な環境が彼らの生活環境である。
 身長は五フィート(約150㌢)以下、靴はなく、裸足である。
獲物を獲り、果実を採るために足は重要な道具になるのだろう。
平たく広がり、大きくて足指は物でも摑めるくらいに大きい。

 このガンプ村に著者のクリックが、最初に訪れたのは1980年代半ば、
今から34年前だった。
人類学を学ぶ大学院生として、そこで1年以上暮らすことになる。
以後、彼はこの村での研究に30年の時を費やす。
村での生活は延べ3年にもなる。
彼は述懐する。   

熱帯雨林の真ん中にある湿地の裂け目に形成された、
非常に行きにくい場所にある人口200人の村で生きるのが、
どういうことかを書いたものだ。
村に住む人々が朝食に何を食べ、どのように眠るのか。
村人がどう子供をしつけ、どんな冗談を言い合い、どんな悪態をつきあうのか。
どんな悪態をつき合うのか。
どんな恋愛をし、何を信仰し、どんなふうに口論し、どう死ぬのか……。
そしてまた、ある日どこからともなく表れて彼らの言語に興味があると言い、
しばらくのあいだうろうろする許可を求めてきた白人の人類学者をどう思っていたのか。
 その″しばらくのあいだ〟は、結局30年以上に及ぶことになった。(引用)

  熱帯雨林のなかの、
  孤絶した劣悪な生活環境の中でガンプの人々の言語がどうして消滅していくのか。
  次回は、西洋化の中で村がどのように変わっていき、
  独自の言語がどうしてガンプの村から消えようとしているのか。
  なぜ彼らが自分たちの文化の長い歴史のの過程で生まれた
  自分たちの言葉を話さなくなっていくのかを紹介します。

     (読書紹介№167)                  (2021.1.)

この本も、「誰も閲覧してない本」のコーナーに、読者を待っているかのようにひっそりと収まっていた本でした。



 

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「麒麟が来る」 光秀が見た夢 ④ 三年後 光秀に夢を託して

2021-03-02 06:34:55 | 昨日の風 今日の風

「麒麟が来る」 光秀が見た夢 
          ④ 三年後 光秀に夢を託して
 (前回まで) 「信長、本能寺で討たれる」の報を見て、秀吉は3万の兵を率いて、230キロの道のりを
       引き返す(中国大返し)。京都・山崎で激突。光秀は少数の兵と近江へ向かう途中、落ち武者
       狩りに遭い落命。光秀、54歳。

       だが、大河ドラマ「麒麟が来る」は、ここで終わらなかった。
 本能寺の変から3年後、駒は備後鞆の浦に将軍足利義昭をたずねる。
 「好きではなかったが信長も、そして光秀も志のあった武将であった」と3年前を振り返る義昭に、
 駒は
「ご存じでございましょうか?十兵衛様が生きておいでになるという噂があるのを。
 私も聞いて驚いたのですが、実は密かに丹波の山奥に潜み、
 いつかまた立ち上がる日に備えておいでだというのです」と。

 ドラマ最終回は意外な展開を見せ幕を閉じようとしている。
駒は市場の雑踏の中にある侍の姿を見掛け追いかける。
「十兵衛様!」
駒は人混みを縫うようにして侍の後ろ姿を追いかける。
画面は変わってラストシーン。
その侍は馬を駆って 地平線に消えていった。

 どうしてこんな終わり方を演出したのだろう。
 簡単に言ってしまえば、
1年間楽しみに見て来たドラマの最後が「山城の戦い」で落ち武者狩りに遭い、
名もない土民に竹槍に刺され落命した場面で幕を閉じるようなシーンで終わってしまえば、
後味の悪い結末を私たちは見せつけられてしまう。
こんな結末を見るために日曜日の夜8時を楽しみにしてきたのにと、
何となく裏切られたような気になってしまう。
しかも、「麒麟が来る」というタイトルにも背くことになってしまう。
せっかく新しい視点で1年間描いてきた結末が、
光秀が見た夢は露と消え、
麒麟は来なかったでは視聴者は納得しないだろうと製作者は考える。
 
  信長が討たれ、光秀も夢半ばで倒れてしまったけれど、いつの日かまた光秀が現れ、
  麒麟が現れる平和な世がくることを念じてドラマは終わる。
  歴史的事実はどうあれ、私は安堵して最終回を見ることができた。
  ラストの受け止め方は人それぞれでいいのではないか…
  駒の視点で考えてみよう。
  「十兵衛様!」と背中に向かっての呼びかけに、
  十兵衛(光秀)によく似た侍は雑踏にまぎれて駒の視界から消える。
 「あれは幻だったのか、
 いや馬に乗りわたくしの手の届かない地平に駆けていった侍は確かに十兵衛様だ。
 十兵衛様は生きている」
 いつかまたあのお方が帰ってきて、この乱世は終焉し、
麒麟が現れる平和な世の中が実現するのだ。
十兵衛に託した駒の切ない願いが、
幻でなはく現実を駆け抜けていく十兵衛の姿を見させたのかもしれない。

 長いコロナ禍のもと、経済も私たちの生活も大きな犠牲を強いられてきた。
この先私たちはどこへ流れていき、どこへたどり着くのか誰にもわからない。
たどり着いたところに安心して生きられる社会はあるのだろうか。
十兵衛が望んで果たせなかった新しい世に、
きっと麒麟が現れる社会の実現があるのでしょう。
それは、十兵衛一人の活躍ではなく、
十兵衛の再来を望んだ私たち一人ひとりが新しい世の出現を望み、
活躍して実現に汗を流した証であってほしいと思う。
                           (おわり)
                   連載二回ぐらいで終了する予定でしたが、話が脱線したりしてなかなか最後
                  の章にに達することができませんでした。まだまだ書き足りないことが沢山あ
                  り、それを全部書くとどんどん視点がぼやけ、内容が散漫になってきます。
                   新資料の発見により、光秀は本能寺で陣頭指揮をとらなかったのではないか
                  という解釈がなされています。このことには少し触れたい思いもします。
                  章を改めて紹介したいと思います。
                  ありがとうございました。


     (昨日の風 今日の風№120)     (2021.3.1記)










 

 

 

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「麒麟がくる」 光秀か見た夢 ③ 黒幕は誰、そして光秀は死んだ……

2021-03-02 06:34:09 | 昨日の風 今日の風

「麒麟がくる」 光秀か見た夢 ③ 黒幕は誰、そして光秀は死んだ……
  (前回の続き)
   
あまりの突然の家臣光秀の謀反に、忠実な信長の家臣の光秀の豹変ぶりに、
   「何故」、「どうして」という動機探しが昔からささやかれているのは、

   自然の成り行きなのでしょう。

   光秀を操った黒幕は誰なのか?その代表的なものを紹介します。
    <正親町天皇・朝廷黒幕説>
    信長が天皇に譲位を迫るなどしたので、
 危機感を抱いた朝廷が光秀に命じて信長を討たせたという説がある。
 『天下布武』を唱え、比叡山皆殺し焼き討ち、
 一向一揆宗に対する徹底した弾圧など徹底して既成の権威に対する信長に対し、
 警戒心を抱いた朝廷・正親町天皇が謀略説。推測の域を出ない説。

<足利義昭黒幕説>
 信長によって追放され、毛利輝元のもとに身を寄せていた将軍・足利義昭が、
 かつて自分に仕えていた光秀を背後から動かして謀叛を起こさせたとする説。
 光秀は、信長を殺害して義昭を京都に復帰させ、
 室町幕府を再興する目的で、謀叛を起こしたと推測する。

<羽柴秀吉黒幕説>
 秀吉は信じがたいスピードで備中高松城(岡山市北区)から上洛し、光秀を山崎で討った。
 有名な中国大返しである。光秀の謀反を秀吉は事前に予測していた。
 そうでなければ数万の兵を率いて戻ってくることはできないのではないか。
 山崎の戦で主君信長の弔い合戦を成し遂げ、やがて天下取りを果たした秀吉は、
最大の利益享受者になった。
 ドラマでは、光秀の盟友・細川藤孝(眞島秀和)はその直前、
 備中で毛利と戦っている秀吉(佐々木蔵之介)の元に
 光秀に謀反の動きがあるという密書を送っていた。

 細川藤孝の情報により、秀吉は中国大返しをスムーズに行うことができたと、
 暗に秀吉の存在を暗示しているようだ。
 細川藤孝の密書が資料として残されていたわけではないが、作品に奥行きを持たせる描き方だ。

黒幕説は他にも、
<徳川家康黒幕説>、<本願寺・宗教勢力黒幕説>、<堺商人黒幕説>等々たくさんあるが、
いずれも憶測のみで古文書等による検証がされているわけではない。
室町時代の終焉の過程で、戦国時代の覇者が唐突に光秀に倒されてしまったところに、
多くの憶測が生まれ、動機探しが生まれたものと想う。
黒幕説ではないが、光秀の怨恨説など、根強い推測が多くの人々の支持を得ている。
信長の光秀に対する余りの横暴さに、我慢に我慢を重ねてきた光秀の堪忍袋の緒が切れた。
それでは、高倉健さんのやくざ映画と変わりがない。
そこで、次のような理由付けがなされる。

「座して死を待つよりは………」
   信長との心理的乖離は、光秀を追いつめていく。
   その時、光秀の脳裏に浮かんだのは「座して死を待つよりは………」という言葉ではなかったか。
   闘うことをせずに滅んでいくのなら、武将として闘って己の運命をかけてみたい。
          「謀反」とか「天下取り」ということではなく、信長と出会い武将として成長した光秀が、
   最後に選んだ道は、主君・信長と同じ道を歩むことはできないという、
   決別という選択ではなかったか。
   この選択が「謀反」という形でしか実現できなかったところに、
   光秀の不幸があったのではないか。

 首尾よく信長を本能寺に葬った光秀のその後
 山崎の合戦
   天正10(1582)年6月2日 信長は本能寺に斃れた。
   その報が信長の命により中国備中高松城攻めを敢行していた秀吉のもとに届いたのは、
   2日後であった。
   何度も馬を乗りかえて一気に駆け抜けた200キロの道程であった。
   信長の死が流布されれば、反信長の勢力が一気に押し寄せて来るに違いない。
           秀吉の行動は早かった。
   毛利方の高松城主・清水宗治の切腹などを条件に和睦を結ぶ。
   自らの城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎ出した宗治。
   船上で舞を踊り、見事な辞世の句を詠むと、宗治は切腹した。
  

(高松城水攻め之図)                    (高松城主・清水宗治辞世の歌)
  歌の意味(意訳)
  憂いに満ちたこの儚い浮世を今、私は渡っていくのだ。武士(もののふ)の誇りを、私の愛した高松の
  地の高い松の根元に生えたいつも青々として色あせない苔のように、
  とこしえに忠義という名を残して……


 毛利氏との和睦が成立すると、秀吉は主君・信長の仇を打つため3万の兵を引き連れて、京に向かう。
世に言う『中国大返し』である。
備中高松から京都山崎までの230キロの道のりを10日で踏破する強行軍である。
鎧具足を付けた兵が、1日23キロの道を10日で本当に踏破できたのか。
野宿に近い状態の野営で兵糧米はどのようにして調達したのか等々疑問は残ります。

山崎の合戦
  6月13日午後4時頃戦いは始まった。
  光秀が本能寺に信長を討ってから11日後のことである。
  秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。
  圧倒的な軍勢の差に光秀は敗走。
  兵は逃散し、残ったわずかな兵とともに夜陰にまぎれ、
  近江へ逃れる光秀は、落ち武者狩りの土民の竹やりにかかり短い生涯を閉じた。
  1582(天正10)年 光秀54歳 乱世の戦いに明け暮れ、明日を夢見た光秀の短い生涯であった。

 (敗走する光秀軍)
 さて、歴史的事実はここで光秀は、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
 光秀が見た夢は幻となって消えたのか。
 大河ドラマの最後にもう一つ視聴者に夢を託して終わるのですが、次回をお楽しみに……
                                 (つづく)

     (昨日の風 今日の風№119)   (2021.2.24記)

 
 
 

 

 

 

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