雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

北越雪譜 ④ 番外編 「雪国を江戸で読む」 森山 武著

2021-01-31 06:30:00 | 読書案内

 北越雪譜 ④ 番外編 「雪国を江戸で読む」近代出版文化と「北越雪譜」 
                森山 武著
  東京堂出版2020.6初版刊

    (図1)                   (図2)
 三回に渡り岩波文庫版「北越雪譜」の「雪崩人に災いす」を紹介しました。
  江戸時代の雪国で生活し、雪との戦いのなかで、人々が助け合い、
  雪国の風習を活用しながら生きる姿の一部をご理解いただけたでしょうか。
  さて今回は、「北越雪譜」が江戸で出版される経緯を(図1)から簡単に述べたいと思います。

  「雪国を江戸で読む」は、サブタイトルが示す通り、どのようにして「北越雪譜」が江戸で
  出版されベストセラーになったのかを、膨大な資料をあさり出版した本です。
  言はば「北越雪譜」に関する専門書(学術書)ですから、ごく簡単に紹介します。

      「北越雪譜」(図2)には、鈴木牧之 編撰 京山人百樹(きょうざんしんももき) 刪定(さくてい)
  岡田武松校訂と書いてあります。岡田によると『翁(牧師のこと)は稿本の 刪定(編集・まとめ)を京山に
  依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水が画き直したものだ』、と記録している。

  私たちは通常、北越雪譜を描いた鈴木牧之、或いは鈴木牧之の北越雪譜という表現を用いている。
  今日の多くの人にとって鈴木牧之は知っているが、江戸時代に活躍した京山は知らない人が多い。
  本当のところは、原作鈴木牧之、構成・文 京山人百樹ということなのでしょう。
  このことについて、「雪国を江戸で読む」の著者・森山 武氏は次のように引用文を載せている。              
       高橋実著の「京山と北越雪譜」からの引用文。
 (北越雪譜の成立は)校訂者としての京山の力が大きかったことを認めざるを得ない。
     越後人の感情としては、だれしも、京山の力がわずかで、牧之の自力で作り上げた本であって
     ほしいと願う気持ちがはあろう。
     しかし、当時の出版事情にうとい牧之に、それを期待すること自体無理なことであろう。
     北越雪譜は、江戸戯作者山東京山の大きな力があったことはたしかである。
     けれどもそうだからといって、鈴木牧之の存在価値はいささかも減ずることはない。
     あれだけの大著を、粘り強く、江戸人との煩わしい交渉も厭わず、
     見事に作り上げ出版して広めた点において、
     牧之はやはり非凡な人というべきであろう。
       著作者をめぐる問題で、森山 武氏は「滝沢馬琴」の手紙を紹介し次のように述べています。
    出版直後の天保8年8月付の滝沢馬琴が友人にあてた手紙で、この本は「牧之作のつもりは、
    実は京山の文」と書いています。このことが正しいのかどうかは分かりませんが、私は高橋実著
         の 「京山と北越雪譜」の解釈(前掲色字部分)を採りたいと思います。
    更に、森山氏は京山研究者の津田眞弓の研究結果を次のように引用しています。
     ……それで(京山が手を加えたとしても)原作者の牧之という人の価値が変わるわけではない。
    全ては牧之の一途な故郷への思いと、壮絶な豪雪の中の暮らしや越後の素晴らしさがなくして
    (この本)は成らなかった。
    そして彼が我慢強く注文を付け続けたから、
    京山の筆を牧之が書いたと誤解させるほどにしたのだ。
    むしろ、この二人の長いやりとりこそが、刊行された「北越雪譜」にとってじゅうようなこと。
    
……それは商品としての成功である。

     最後に、「雪国を江戸で読む」の著者・森山 武氏の文を紹介して稿を閉じます。
     北越雪譜には複雑な事情がある。この本は京山の前に馬琴が関わり、
     他に江戸の絵師・鈴木芙蓉や大阪の版元・岡田玉山などが関わっていたのだが、
     そもそも、この企画は山東京伝(江戸時代後期の浮世絵師、戯作
者)が興味を示して
     始めた企画だった。
     牧之が京伝に(出版の)可能性を打診してから、「北越雪譜」初篇の刊行まで40年が経過した。
     牧之・京山の協働が実を結ぶまで、なんと4人の中央の作家が関わり、引き受け、
     しかし中止になることを繰り返した末に成り立った本だった。
     日本出版文化史上、最も複雑な経緯を辿って生れ出た刊本のひとつである。

     私は昨年、牧之の故郷を訪ね晩秋の「牧之が歩いた道」を散策した。
     静かな山村の車の通りの少ない鄙びた道を歩きながら、やがて冬が来ればこの地を
     豪雪が被いつくし、おそらく今でもひっそりと暮らす雪国の生活が繰り広げられるのだろう
     と思いを馳せる一方で、雪との闘いに明け暮れる雪国の人々の苦労を思いながら、
     宿に向かった。

閑話休題 「一度も貸し出しされなかった本」
 「雪国を江戸で読む」(図1)は図書館で偶然見つけた本です。
 図書館には、購入したけれど、「一度も貸し出しされなかった本」と
 いうコーナーがあり、同様にさびしい運命をたどらざるを得ない本の
 一冊として展示してあった。
 一般受けしない本だが、「北越雪譜」と合わせて読むと、
 一層理解が深まります。膨大な資料を読みこみこの本を上梓した
 森山武氏に感謝です。
 ブックデーターより
  越後在住の鈴木牧之は、山東京伝・京山、曲亭馬琴ら江戸を代表する作家た
ちに自身の企画を売り込み、40年もの紆余曲折を経て、『北越雪譜』は完成した。この『北越雪譜』を巡って、素人の地方文人であった鈴木牧之と、錚々たる顔ぶれの有名作家たちとの交流を描き、牧之が『北越雪譜』の刊行を実現した背景や江戸の出版文化が垣間見える秀作。

 この図書館には「北越雪譜」は置いてなく、専門的な本書のみが蔵書
 として存在する。統一に欠ける購入の仕方である。

     (読書案内№165)         (2012.1.25記)


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北越雪譜 雪頽(なだれ)人に災す ③ あるじは雪に喰われた

2021-01-27 06:24:46 | 読書案内

北越雪譜 雪頽(なだれ)人に災す 
             ③ あるじは雪に喰われた
前回は雪の降る日に用事で出かけた主人(あるじ)が、夜になっても帰ってこない。村人が近隣を探すが、
  行方が分からず、遠くまで探しに行った村人たちも帰ってきたが一向に行方が知れない。
  (雪国の中で、助け合いながら生きている村人のようすや、家族の不安などが描かれ、コミュニティーをまとめる
  老人の役割などがうかがえて興味深い)

〇 かくて夜も明ければ、村の者どもはさら也聞きしほどの人々此家に群り来り、此上はとて手に手に
  小鋤を持家内の人々も後にしたがひてかの老夫がいひつるなだれの
処に至りけり。
 そうこうしているうちに
夜も明けてきた。村の人たちも事態を知り昨日よりも多くの人がこの家に
 手に手に小鋤(すき)を持って集い、この家の人たちも皆のあとにに従い、昨日ある農夫が言った峠の
 雪頽(なだれ)のあとに着いた。           
 (小鋤=人力で田畑の土を掘り起こす農具の一種)

 雪頽の痕跡見てみると、それほど大きな雪頽ではない。二十間(約36㍍)に渡り雪頽は道をふさぎ、
 雪が土手のように盛り上がっていた。
 かりにここで死んだとしても、何処に遺体があるのか見当もつかないので、
 どうしようかと村人たちが思案していると、
 昨夜皆のはやる気持ちを静めて落ちつかせたあの老人が来て「良い方法がある」という。
 老人は若者をつれて近くの村に行き、
 鶏をかき集めてきて雪頽の上に解き放ち餌を与えなすがままに自由にさせると、
 一羽の鶏が羽ばたきながら時ならぬ鳴き声を上げた。
 すると、他の鶏もここに集い来て互いに泣き声を上げた。
 このやり方は水中の死骸を探すときに用いる方法を雪に応用したもので、
 この老人の機転を後々まで村人たちは語り伝えた。

 ここからは、原作の雰囲気を味わうために原文で紹介します。
 「てにおは」や句読点など一部は読みやすいように改めています。
  (堀除積雪之図) 左端に「京水筆」とあり、これは「京水百鶴」という絵描きのことである。『わたしはまだ越地に行ったことがない、越雪の詳しい景色はわからない。だからもし雪図に誤りがあっても私の認識するところではない、その誤りを編者負わせないでほしい』と正直に添え書きしている。

 老人衆にむかひ、あるじはかならずこの下にあるべし(埋もれている)
いざ掘れほらんとて大勢一度に立ちかかりて雪頽を砕きなどして、堀けるほどに、
大なる穴をなして六七尺も堀入れしが、目に見ゆるものさらになし。
(なほ)力を尽くしてほりけるに、
真白(ましろ)なる雪の中に血を染めたる雪を掘り当て、
すはやとて猶堀入れしに片腕ちぎれて首無き死骸を堀いだし、
やがて腕(かいな)はいでたれども首は出でず。
赤く染まった雪の中から、片腕がなく、首のない死骸が掘り出され、
 まもなくちぎれた腕も発見されたが、首が見つからない。
  
   昔は、地域に必ず「古老」と称され、地域のことは何でも知っている、
 特に昔からの習慣や言伝えに詳しく、
 地域のまとめ役となり、尊敬されている老人がいた。
 この
、「雪頽(なだれ)人に災す」の項でもこうした老人が活躍している。

 こはいかにとて広く穴にしたなかをあちこちほりもとめてやうやう首もいでたり、
雪中にありしゆゑ面生(おもてい)けるがごとく也。
さいぜんよりこゝにありつる妻子らこれを見るより、妻は夫が首を抱へ、
子どもは死骸にとりすがり声をあげて哭(な)けり、
人々もこのあはれさを見て袖をぬらさぬはなかりけり。
かくてもあられねば、妻は着たる羽織に夫の首をつゝみてかゝへ、
世息(せがれ)は布子(ぬのこ)を脱ぎて父の死骸に腕を添へて泪ながらにつゝみ背負(せお)はんとする時、
さいぜん走りたる者ども戸板むしろなど担(かた)げる用意をなしきたり。
妻がもちたる首をもなきからにそえてかたげければ、人々前後につきそひ、
つま子らは哭哭(なくなく)(かへ)りけるとぞ。

 こはいかに=これはどうしたことだ やうやう=ようやく 面生けるがごとく=雪の中に埋まっていたので生きているような顔だった  かくてもあらねれば=こうしてもいられないので とぞ=……ということでした

 なんとも切なくも哀しい雪との闘いに挑む雪国の物語である。特に雪深い山村では、村人間の協力がなければ生活を維持することが難しく、特別な出来事が起きれば、前例に倣いあるいは「村のしきたり」に詳しい「古老」と呼ばれる人たちに采配を仰ぐことになる。雪国のことをよく知らない江戸の庶民にとって「北越雪譜」は、別世界を目の当たりにするようで、当時ベストセラーになったのもよくわかります。

そして、この章の最後は次のように結ばれています。
 此のものがたりは牧之(ぼくし)が若かりし時その事にあづかりたる人のかたりしまゝをしるせり。
これのみならず、なだれに命をうしなひし人猶多かり、またなだれに家をおしつぶせし事もありき。其の怖ろしさ、いはんかたなし。
かの死骸の頭と腕の断離(ちぎれ)たるは、なだれにうたれて磨断(すりきら)れたる也。

 ※ 次回は最終回 「番外編」として「雪国を江戸で読む」近世出版文化と「北越雪譜」森山 武著
   を紹介しながら、北越雪譜の成り立ちについて記述します。
   


(読書案内№164)         (2012.1.20記)

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北越雪譜 雪頽(なだれ)人に災す ② あるじが帰ってこない

2021-01-21 06:30:00 | 読書案内

北越雪譜 雪頽(なだれ)人に災(わざわい)
     ②主人(あるじ)が夜になっても帰ってこない
      鈴木牧之(ぼくし)について
       江戸時代後期の商人、随筆家。越後の国魚沼郡塩沢の豪商「鈴木屋」の子として生まれる。
       19歳の時稼業の手伝いで江戸へ行き、江戸の人々が越後の雪の深さについて何も知らないこ
       とに衝撃を受ける。牧之は雪をテーマにした随筆を執筆し、これが後年「北越雪譜」に結実
       していく。雪の結晶や
 雪国の風習や苦悩などを紹介し、当時のベストセラーになった。
                                   (インターネット 江戸ガイドより抜粋)   
 吾住魚沼郡の内にて雪頽の為に非命の死をなしたる事、
   その村の人のはなしをここに記す。
 しかれども人の不祥なれば人名を詳にせず。

現代文にすると次のようになります。
 私が住んでいる魚沼のあるところで、雪崩のために思いがけない災難で亡くなった人がいる、
と村人に聞いたのでそのことを書くことにします。しかし、不幸な出来事なので人名は
どこの誰とは書かないことにします。

   以下要約します。
     ある村に使用人も入れて10人余りの家族があり、主人(あるじ)は50歳ぐらいでその妻は
     40歳そこそこで、20歳の息子を頭に3人の子供がいた。
     いずれも孝行の子供たちだったという。

     ある年の2月のはじめ、主人用事があって出かけたが、午後の4頃になっても帰ってこない。
     そんなに暇のとれる用事ではないので、みんなはおかしいと思い20歳になる長男が使用人を
     連れて相手の家に行ってみたが、此処へは来ていないという。
     あちこち尋ねてみたが、一向に行方は分からない。
     日も暮れてきたのでやむなく家に帰り、母に仔細を報告する。
     一体どこへ行ってしまったのだろうと使用人を遣って、近隣を探すが行方が知れない。
     午前2時を過ぎても主人は帰らなかった。
     近所の人たちが集まり、どうしたものかと話し合っていると、ある老夫が来て私に心当たり
     がありますという。主人(あるじ)
の妻は喜び、子供たちも揃って礼を述べ仔細を尋ねる。
     老夫は、「私が今朝西山の峠にさしかかろうとしたとき、ここのあるじに会ったので何処に
     行くのかと聞くと、稲倉村へ行くといって去っていきました。私は宿への道を歩いていたが
     さっき通ってきた峠の方で雪頽(なだれ
)音を聞き、無事に峠を越えられたことを喜んだが、
     ここのあるじはあの峠の麓を通り過ぎることができただろうかと心配しながら、
     家へ帰りました
」といって老夫は早々に帰って行った。

     
集まった若い人たちは、そういうことなら、その雪崩のところに行って探してみようと、
     松明など用意し騒然としていると、ある老人が言った。
     「ちょっと落ち着きなさい。遠くへ捜しに行った者もまだ帰ってない。
     ここの主人が本当に雪崩に遭ったかどうかはわからない。
     さっきの農夫が不用意なことを言うから困ったもんだ」と。
     父の安否を心配し、涙ぐんでいたこの家の人たちもわずかに安堵し、酒肴(しゆこう)を出して
     皆の労をねぎらった。皆は炉辺に集まり酒を飲み始めた。
     少し経つと、遠くに行ったものも帰って来たが、やはり主人の行方は知れなかった。
                                    (つづく)
     次回はいよいよ佳境に入ります。後半の冒頭を紹介しておきます。
     〇 かくて夜も明ければ、村の者どもはさら也聞きしほどの人々此家に群り来り、此上は
       とて手に手に手に小鋤を持家内の人々も後にしたがひてかの老夫がいひつるなだれの
       処に至りけり。
             (2021.1.12記)                 (読書案内№163)




 

 

 

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北越雪譜 雪崩人に災いす ① 栄村 十日町 津南町を想う

2021-01-16 06:30:00 | 読書案内

北越雪譜 雪頽(なだれ)に災(わざはい)
       ① 栄村 十日町 津南町を想う
    美しく舞い散る雪も、ここ北越塩沢の地ではすざましい自然の脅威となり、
   人々の暮らしを圧迫し つづける。著者牧之(1770-1842)は、雪とたたかい、
   雪と共に生き、雪の中に死んでゆく里人の風俗習慣や生活を、
   
雪国の動物と人間のかかわりや雪中の幽霊のような奇現象などを紹介する。
   江戸時代に書かれた雪国に暮らす人々の風俗や生活を記録した越後の文人・鈴木牧之(ぼくし)
   の作品。
    昭和12年の岡田氏の序文によると
   「天保6(1830)年頃」には世に出たのではないかと推測しています。
   昭和になって活字本が発行されました。岩波文庫です。
   1936(昭和11)年 第1刷発行
   1978(昭和53)年 第22刷改訂版発行
   2004(平成16)年 第59刷発行
      一刷の発行部数がどのくらいなのか解りませんが、
      隠れたベストセラーといっても過言ではないと思います。
            
      私は、「北越雪譜」に魅せられ、2年続けて越後の豪雪地帯を訪れました。
      残念なことに、冬のではなく、晩秋の北越です。
      雪にあまり縁のない関東に育った私は、
      寒さに弱く車での訪問には、危険が伴う恐れがあるからです。
      冬の寒さが募ってくると、北の国から雪の便りが聞こえてきます。
      今年は豪雪地帯からの、近年にない豪雪のニュースが連日報道されています。
      その度に、あの谷間の集落はどうなっているのだろう。
      『冬は嫌だ―」と言っていた連れ合いを失くした家で一人暮らしをしていた
      おばあさん、一昨年雪で凍結した道路で転び、
      今でも骨折した部分が痛むと言っていた。
      人里近くまで降りてきた小熊や、
      私の背後の崖の藪を勢いよく駆けおりて来て、
      私を驚かせたニホンカモシカたちはどうしているだろうか。
      思いを巡らせながらこの記事を書いている。

  「北越雪譜」の紹介の前に、雪国の住宅を紹介します。

 落雪式住宅
   屋根の勾配を急にして、雪が自然に滑り落ちるようにしてあります。
   従って、「雪のすべり止め」はつけていません。
   落雪住宅の多くは、写真のように3階建てになっています。
   一階はコンクリートで作られていて、車庫や物置として利用しています。
   二階、三階がリビングになっています。
   屋根の雪が落下して家の側面を被いつくしてしまい太陽光が室内に入らず、
   室温が低くなってしまうことを考慮した構造になっています。二階部分に階段をつけ
   玄関を二階にしているのも理解できます。
   こうした「落石式住宅」は、昭和40年代中頃から普及したようです。
  
    
  
 
雪囲い
   
1階の窓などをそのままにしておくと、ふってきた雪や、雪おろしで投げすてられた雪、
           屋根からすべり落
ちてきた雪によって1階の窓ガラスがわれてしまう危険性(きけんせい)が
   あります。そこで、窓ガラスが
われないように、1階の窓の外に横板(よこいた)をならべます。
   これを雪囲(かこい)といいます。

   かんたんに板の取りつけ取り外しができるように、柱には金具が取りつけられ、そのフックに
   横板を載せるだけなので、簡単に取り外しができます。



    車庫
      雪国の車庫は、雪の重みにたえられるように、カマボコ型になっているものがあります。
      内部はがんじょうな鉄骨(てっこつ)のほねぐみになっていて、つもった雪は、
      屋根のてっぺんから左右にすべりおちるため、雪に押しつぶされることもありません。


  地域によっては、家の周りに水を引いて積もった雪や屋根から落ちた雪を溶かすための、「融水池」
  を設けているところまあります。主として山間部に多い。

  晩秋に訪れると、一階から二階に届く長いはしごが立てかけられている家が少なくない。
  雪下ろしの備えでしょう。
  私にとっては、遠い他国の風景を見ているようで、長旅の疲れが癒され、
  まるで故郷に帰ってきたような気持ちになります。
                       (住宅の説明は十日町市HPを参考にした)
                 前置きが長くなってしまいました。次回は「北越雪譜」の雪崩人に災すを紹介します。

                                                                                     (つづく)
           (2021.1.11記)     (読書案内№163 )

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栄光と屈辱の箱根駅伝 ② 復路 逆転の駒大 涙の創価大

2021-01-10 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

栄光と屈辱の箱根駅伝 ②復路 逆転の駒大 涙の創価大
     3日午前8時、熱い一夜が明け復路のレースが始まった。
 往路のタイム差に従って芦ノ湖駐車場入り口をスタート。
 復路の5区間・109.9㌔を東京・大手町の読売新聞社前のゴールを目指す。
 
 トップ争いは最大の関心の的だが、
 シード権争いも熾烈なレース争いの中で繰り広げられる見どころである。
 往路フィニッシュタイムからレースの争点を見てみよう。
 ➉拓大5時間35分1秒 
 これを追う⑪早大なんとしてもシード権を獲得したい、5時間35分12秒
 拓大との差11秒。
 早大のあとを追いかけるのは⑫青学大、5時間35分43分で早大との差31秒
 ⑬城西大、5時間35分44秒で青学大との差1秒。
 波乱含みのシード権争いである。 
 
 一斉スタートはトップとの差が10分以上あるチームで、18位山梨学院大、
  19位中大、20位専大、関東学生連合である。
 
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、
 沿道での観戦自粛を呼びかけられた箱根駅伝復路のスタートの旗が振られた。

 追う駒大 逃げる創価大。
 このまま創価大が逃げ切ることができれば、
 
初出場からたった6年で初優勝を勝ち取ることができる。
 緊張と重圧、孤独なアスリートはただひたすらゴールを目指し
 トップを維持しようと10区最終ランナー創価大・小野寺勇樹は懸命に走る。
 追う駒大10区最終ランナーは石川拓慎だ。
 
 9区終了時点でトップの創価大と駒大の差は3分19秒。
 戦後、最終10区でこの差を逆転した例はない。
 観戦者の多くが創価大の復路優勝を予想し、駒大の逆転は絶望的に見えた。
 創価大の榎木監督は次のようにレースを振り返る。
 「(10区の)10㌔ぐらいまでは、先着できると思っていた」
 
 だが、駒大・大八木監督は希望を捨てなかった。
 絶望的なトップとの差を走る石川に檄を飛ばした。
 「いいぞ、おまえ! 本当にいいぞ! いいか、ここだ、ここからだ!」
 
 15㌔過ぎぐらいだったろうか、創価大・最終ランナー小野寺のフォームが崩れた。
   正確に一歩一歩大地をけっていたリズムが乱れた。
 ピッチが数センチいや数ミリずれている。
 わずかなピッチの乱れが小野寺の不調を物語っている。
 それはそのまま心の乱れへと連鎖し、アスリート小野寺の体力を消耗していく。
 肩がわずかに揺れ、口角が下がり、視点が左右に揺れる。
 数メートル先を見つめる揺れる視点は、やがて本人の意思と無関係に少しずつ上向きになっていく。 

 駒大・大八木監督は勝機を逃さなかった。
 運営管理車に乗った大八木監督の檄はその激しさを弛めず、活を入れ続けた。
 レース後石川はこの時の気持ちをこう語っている。
 「力になるのはもちろん、スイッチをオンにしてくれた」
 石川は更にピッチを上げる。
 20.9㌔付近、この日初めてトップを走る小野寺の背中を捉えることができた。
 肩が揺らぎ、背中が波打っている。
 「行ける!」
 石川の柔らかくスナップのきく足首が躍動し、鍛えたふくらはぎの筋肉を駆けあがり、
 太腿を伝い、骨盤へと熱いエネルギーに変換されて行く。
   石川は一気に拓大・小野寺を抜き去った。
  
 2008年を最後に総合優勝から遠ざかっていた駒大は残り2.1㌔で逆転し、
 13年ぶり7度目の総合優勝を勝ち取った。記録は10時間56分4秒。
 2年連続でアンカーを務めた石川拓慎(3年
)に、
 積み重ねた過酷な練習の日々がなつかしくよみがえってきた。
                     (日刊スポーツから転載)

 総合成績                 復路成績
   ① 駒 大 10時間56分4秒        ① 青学大 5時間25分33秒
   ② 創価大  〃 56分56秒         ② 駒 大  〃     35秒
   ③ 東洋大 11時間0分56秒                ③ 中央大  〃   28分39秒
   ④ 青学大  〃 1分16秒                              ④ 早 大  〃   47秒
                        ⑤ 創価大  〃   48秒

  大会余話
    10区の最大逆転とゴール直前逆転優勝はいずれも1920年の第一回大会。
    東京高等師範学校
(現筑波大)の茂木善作は明大の西岡吉平から11分30秒差で
    鶴見中継所をスタートした。「箱根駅伝70年史」によると、茂木が猛追し
    残り約1㌔の新橋で西岡に追いついた。ゴール手前約700㍍で茂木が抜け出し、
    ゴール。箱根駅伝はいきなり劇的な逆転劇で、その歴史が始まった。
    (スポーツ報知 2021.1.4記事から転載)

                                      (おわり)
          (2021.1.9記)             (昨日の風 今日の風№115)

 

 

 

 

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栄光と屈辱の箱根駅伝 ① 快挙の創価大 転落の青学大

2021-01-06 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

 栄光と屈辱の箱根駅伝 ①快挙の創価大、転落の青学大
 復路、大きな逆転劇の末に2021年の箱根駅伝が終わった。
 昨年、苦労の末にシード権を勝ち取った
創価大学が、
 往路優勝を遂げ、明日の復路も往路の勢いを以て総合優勝の夢を抱いたに違いない。
  (写真・日刊スポーツ 創価大三上が往路のテープを切る)

 「箱根駅伝4回目の出場」で初めて手にする栄光の芦ノ湖フィニッシュである。
 高揚した気持ちとわずかの不安をかかえて2021年1月2日、
 箱根駅伝初日往路の夜が帳を降ろす。
 目標は総合優勝だ! 
   出場4回目にして初めて追われる立場に立った新進チーム創価大に熱い夜が訪れた。

 東京大手町から神奈川芦ノ湖まで5区間107.5㌔、往路の戦績は
  ① 創価大ー5時間28分  8秒 出場4回目で初優勝の快挙だ。
  ② 東洋大ー 〃  30分22秒    一位との差2分14秒 過去5回の優勝の実績を賭けての優勝を狙う
  ③ 駒 大― 〃  30分29秒 二位との差は7秒 2位奪還は可能な目標だ。6回優勝の強豪校だ。
  
  ⑫ 青学大ー 〃  35分43秒 人気の青学まさかの優勝候補からの転落 一位との差7分35秒
                誤算は3区予定だった主将・神林が昨年末にお尻あたりの仙骨
                に疲労骨折がみつかり、メンバーから外さざるを得なかったこ
                とだ。原監督は次のように発言する。
                「一年間、神林がチームを引っ張った。その精神的、能力的な支えが 
                なくなったときに挽回するだけの精神力がなかった」 
                更にまさかのアクシデントが青学を襲う。
                                             4区でタスキをつないだときは10位になり、挽回のチャンスが訪れるの
                か。タスキ受けた竹石は山登りのスペシャリストだ。期待が膨らむ。
                だが勝利の神は微笑まなかった。レース後半に右ふくらはぎが何度も
                痙攣し、区間17位まで堕ちてしまった。その後順位を12位まで上げて
                往路終了。シード圏内にあと二つ早大と拓大を抜かなければならな
                い。トップとの差7分35秒。シード権を獲得するには拓大との差42秒
                を克服しなければならない。
                
「確実にシード権を取りにいきたい。でも、プライドを忘れずに攻め
                のレースを……」
                青学・原監督の復路に向けてのメッセージである。

                
明けて3日、復路スタートの旗が選手たちの緊張を掃(はら)うように振ら
                れた。
                                       (つづく) 

        (2021.1.5記)      (昨日の風 今日の風№114)

 

 

 

 

 

 

 

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新年のあいさつ 子どもたちの未来へ

2021-01-03 06:30:00 | つれづれに……

新年のあいさつ
 子どもたちの未来へ
 
  穏やかな朝が、
  筑波連邦の峰からゆっくり登る初日に象徴されるような、
  安心して住める社会でありますようにと思う元旦でした。

 経済活動を続けるにあたり、
 無駄をなくし能率を追求するのは大切な要因である。
 私たちはそうして便利さを追求してきた。

 より早く、より遠くまで走る新幹線。
 より短時間で国境を越え快適な旅を保証する飛行機。
 高速道路の拡充は車社会の発達とともに、
 流通機構をも変え経済システムそのものも変えてきた。

 私たちは、百科事典や辞書を開く習慣を過去の記憶におしやってしまった。

 インターネットは実に簡単に知りたい情報を提供してくれる。
 ツイッターは、顔を持たない匿名性により、
 多くの人に受け容れられたが、
 責任の所在があいまいなために、無責任な発言も多く見られた。

 言葉が軽くなり、
 誠意のこもった熱意のある言葉が少なくなったように思われる。
 それは、生身の人間が発する言葉ではなく、
 電波を介して届けられる送り手と受け手の一方通行の言葉である。
 メディアを媒体とした言葉も渇いた言葉だ。

 
便利さゆえに、失われたものも多い。
 「人を思い
やる気持ち」
 「家族のためにお母さんたちが費やした家事の時間」、
 「少子高齢化」に伴う家族機能の崩壊。
 便利さゆえに私たちは「大切なもの」を失ってしまったのではないか。
 なければ無くても
 不自由しないものをどんどん捨てていってしまうと心が渇いてしまう。
 大切なものはおカネでは買えない。
 目で見ることもできない。

 失われたものの大切さを再認識し、
 私たちが関与してきたこの社会を、
 未来の担い手である子どもたちに手渡すとき、
 子どもたちに失望されない社会を創ることは、
 私たち大人の務めではないか。

 雪中に遊ぶ孫たちの写真を眺めながら、
 思いを新たにする新年の一日でした。
 
 今年も、よろしくお願いします。

      (つれづれに……心もよう№111)   (2021.1.1記)

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