雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

パラリンピック ③ プロパラアスリート 山本(39歳)

2021-09-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

  パラリンピック ③ プロパラアスリート 山本(39歳)

                    パラリンピック陸上男子走り幅跳び 闘志が燃える
 

 山本は、講演会で紹介されるとき、「プロパラアスリートの山本」と依頼する。
 
 山本 篤の略歴
   小学生では野球、中学生と高校ではバレーボールをしており、
     高校時代の垂直飛びでは1mを超える驚異的なジャンプ力を持っていました。
          2000年3月、
      高校2年生の春休みにスクーターで事故を起こし、左脛骨を粉砕骨折する大けがを負い、
      手術で左足を大腿から切断しました。
      大腿から切断。衝撃的で、精神的にも大きな打撃を受ける出来事でしたが、
      「今、写真撮っといたほうがいいんじゃない?」
      「僕が有名になったときにその写真使えるよ」と当時のエピソードが
      インタビュー等で語られています。
      
高校2年にの春、16歳の青春真っ只中の少年が母に向かっていった台詞は、
      左大腿を失った衝撃に負けまいとする強がりと、
      母を安心させるための優しいセリフだったのではないだろうか。
      と、当時の山本篤の心境を推測しているのですが、
      それにしてもこの心の余裕と、前向きの姿勢に私は驚いています。

  だが、その後の山本の人生行路は、まさに前向きに意欲的に歩んでいることに感動する。
  大腿部切断は、山本の人生の大きな転換点になった。
  高校卒業後に山本は義足との出会いから、義肢装具士になるための専門学校に入学し、
  そこで、競技用義足と出会った。
  失った左足の機能をカバーする「競技用義足」に、山本は生きる目標を見つけた。
  陸上競技を始めるのに時間はかからなかった。
  背中を押してくれた義足サポート研究者の稲葉さんの勧めもあって、
  陸上競技の道に入るのに迷いはなかったようです。
  義足装具士の国家資格を取得し就職も決まっていましたが、
  2004年4月に大阪体育大学体育学部に入学することに。
       そこで入部した陸上競技部では走り幅跳びで日本記録を塗り替え、
       世界ランキング上位の実力を見せつける。

  2008年 スズキ株式会社に入社、スズキ浜松アスリートクラブに所属。
    同年 北京パラリンピックで走り幅跳び銀メダル獲得
                    (義足の陸上選手として日本初のメダリスト)男子100㍍ 5位
      その後、大阪体育大学大学院体育学博士課程に進み運動力学を研究する。
      義肢装具士の国家資格を持ち、
      義足の改良を行い、自己日本記録を更新し続けた。

  
2012年 ロンドンパラリンピック
       
男子走り幅跳び(F42-44) 5位 男子100m(T42) 6位 男子200m(T42) 8位

2016年 リオパラリンピック
     
男子走り幅跳び 銀メダル 男子4×100mリレー(T42-47) 銅メダル 男子100m(T42) 7位
2017年 大きな転機と飛躍の年になりました。
     9年間務めた自動車販売会社スズキを9月に退社。
     「(スズキでは)練習、競技環境は恵まれていた。でも、会社員を辞めてプロになる、
     パラでもそんな道があることを示したかった」
          「プロアスリートになることで社員アスリートより崖っぷちになる。
                  競技成績を残さなければいけないですし、発信力もものすごく大切になってくる。
                 でも守られた中でやるよりも、プロとして後がない環境を作ることで
                自分自身を少しでも追い込んでいけるのではと思った。
                しっかりと自分の中で覚悟を持って進んでいく。
                その姿を若いアスリートにも見てもらいたかった」 

      同年10月神戸の新日本住設とスポンサー契約を結び、プロアスリートとして活動開始。
   新たな出発と挑戦。
             スポンサーとの契約は、生活費と競技活動費を合わせて年俸1,500万円でお願い。
     するとスポンサー側から年俸に加えて『パフォーマンスボーナス』
     という出来高契約の提示をされた。
     パラリンピックで金メダルをとれば3,000万円、銀メダルで1,
000万円、銅で500万円。
      「僕をアスリートとして認めてくれたことがうれしい。実勢を積み上げれば、お金は稼げる」
      「プロって僕が思うのは、一番は影響力を持って行動できる人、そしてそれを発信できる人」
                                  (朝日新聞8/29付記事から引用)
     
   2018年 
平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックでは、スノーボート競技の日本代表として出場

   2019年 ドバイで開催された世界パラ陸上競技大会走り幅跳びで銅メダルを獲得し、
                         2020年東京パラリンピック出場が内定。

        2020東京パラリンピック
    

    4大会連続出場となる山本篤 陸上男子走り幅跳びでメダルは逃したが日本新記録で4位を獲得。
    記録は、自身の日本記録を5センチ超える6メートル75。
     4位入賞だがいま一歩メダルには届かなかった。
     競技前の朝日新聞インタビューにメダル獲得のボーナスの使い道について、
     「足を亡くした子どもの義足の資金にしたい」という希望はかなわなかったが、

    足を亡くした子どもたちとの交流を深めたいと、また競技や社会的活動に山本自身が
     どこまでか変われるかを試したいと、前向きで積極的な姿勢は変わらない。

    プロに転向してからの収入や報奨金などを公表している。
    プロ転向後、900万円の高級車の購入なども明かしている。
    年俸が公開されることで憧れを持たれるプロ野球選手のように、
    後進のパラアスリートに夢を持ってもらいたかったと話している。
    

    メディアに東京2020大会で引退と報じられたが、メディアの一方的な思い込みで、
    山本には引退の気持ちはないと否定。
    だが39歳という年齢を考えれば、幕の引きどきを考えてもおかしくない年齢だ。
    ひたすら走り続けて来た山本が、今後どのような社会参加をし、
    どんな人生を歩んで行こうとしてるのか見守っていきたい。

     (昨日の風 今日の風№123)       (2021.9.25記)

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パラリンピック 難民選手団 ② 多くの困難を乗り越えて

2021-09-12 07:44:48 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック 難民選手団 
        ② 多くの困難を乗り越えて 


オリンピックでは若い10代の選手の活躍が多く見られましたが、
 パラリンピックでは中高年選手の活躍が多くありました。
 例えば、最終日の5日、日本選手団で最高齢・視覚障害がある西島美代子さんは66歳です。
 
 レースの終盤では両足がつり何度も立ち止まり、伴走者と声を掛け合いながら、
 42.195㌔を完走しました。栄光の8位入賞でした。
『自らの可能性に挑むそんなパラリンピアたちの姿は、障害や世代、性別、
 国籍を超越した人間の「個」としての尊さを伝え、
 一人ひとりの違いを認め合うことの大切さを体現していた』(朝日新聞9/6記事)
 国を超え、障害を乗り越え、単にスポーツ技術だけでなく、スポーツを生きる希望として
 切磋琢磨する者にとって年齢の差はないのかもしれない。
 オリンピックが失いつつある、オリンピック精神をより強く反映しているのは
 パラリンピックなのかも知れない。


イブラヒム・フセイン選手
  
     
フセイン選手はシリア出身。
   東京2020パラオリンピック競泳男子100㍍平泳ぎ出場。32歳。
   シリア東部のデリゾールで生まれ、水泳コーチだった父の影響で、五歳から泳ぎ始めた。

 アラブの春に右足を失う
   2011年、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動がシリアに波及し、やがて内戦に発展した。
   スポーツ施設は閉鎖され大好きな水泳はできなくなった。
   街には毎日のように爆弾が落ち、インフラ設備も破壊され、食料も途絶えがちになった。

   2012年、狙撃手に撃たれた友人を助けに行き、
   近くに砲弾が落ち、右足の感覚を失いひざ下から切断した。
   身の危険を感じトルコに逃げたが、十分な治療は受けられなかった。

   2014年、戦火を逃れ、密航を斡旋する非合法業者に依頼し、
   ゴムボートでエーゲ海を渡り、ギリシャのサモス島に渡り、亡命を果たした。
   トイレ掃除の死後とも見つかり、住む場所も決まった。
    ここまでになるのに、多くの人の善意があったという。
    移動や旅費は周囲の人たちが助けてくれた。
   もちろん、医師の協力は今のイブラハム・フセインのアスリートとしての出発に
   大きな貢献をしたに違いない。
   こういう周囲の善意や支えがあったから、意欲的に水泳に取り組むことができたのだろう。
   才能は少しずつ開花していく。

   2016年リオデジャネイロ・パラリンピック大会では、初めて結成された難民選手団に選ばれ、
   旗手を務めた。
   足を失ってから約9年が過ぎ、うつの症状に悩み、生きる意味も失いかけたが、
   「スポーツをやっているときは気分が和らいだ」と心の内を述懐する。
   壮絶な人生を振り返りながら、
   「難民だって新たな可能性をつくっていける」と、決意を新たにする。

   7月29日の
50メートル自由形運動機能障害のクラスの予選に臨んだイブラヒム・ フセイン選手は、
   世界記録を持つ選手が引っ張る速いレース展開の中、最後まで食らいつき、
   30秒27のタイムで、この組の8位でした。
   決勝に進むことは叶いませんでしたが、
   「スポーツは私を突き動かす、人生になくてはならないものです。
   すべての難民にスポーツをする機会を与えてほしい」と意欲的である。

   かつてシリアで命を救った友人にはいま3人の子どもがいるということで、
   イブラハム・ フセイン選手は、
   「彼が幸せでいてくれることが、私にとっても生きがいになっている」と話しています。
                                (
イブラハム・フセイン選手の項目は、中日新聞、朝日新聞WEBニュースを参考に構成しました)
   
  国際パラリンピック委員会によると、紛争から迫害から逃れ、
  家を追われた人々はこの10年で大幅に増え、現在は世界で8200万人を超える。
  このうち約120万人が傷害があるという。
                                            (おわり)

        (昨日の風 今日の風№123)                  (2020.9・11記)

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パラリンピック 難民選手団 ① 栄光の「スリーアギトス」大会旗

2021-09-08 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック 難民選手団 栄光の「スリーアギトス」大会旗

                   (お台場の海浜公園会場に設置されたシンボルマーク)
     このパラリンピックのシンボルマークは何を表しているのでしょう。
「スリーアギトス」と呼ばれています。
「アギト」とは、ラテン語で「私は動く」という意味で、
困難なことがあってもあきらめずに、
限界に挑戦し続けるパラリンピアンを表現しています。
赤・青・緑の三色は、世界の国旗で最も多く使用されている色ということで選ばれました。
                   
(日本パラリンピック委員会ホームページより引用)

アスリートたちが、自分の身体能力を可能な限り引き出し、
自由に飛び跳ねているようなイメージが湧いてきます。
赤は情熱を
青は自己主張と責任を
緑は若葉の輝きをイメージしているようにも思います。

現在のパラリンピックシンボルマークは2019年から使用されています。


     難民選手団
   聴きなれない名称だが、難民選手団の結成は、オリンピック・パラリンピックを通じて
   前回2016年のリオデジャネイロ大会が最初です。
   紛争などで母国を離れざるを得なかったアスリートたちに、
   スポーツの場を提供することを目的として結成されオリパラ両方に派遣されました。
   パラリンピックにはシリアとイランからの選手2人が出場しました。

   さて、東京2020パラリンピックでは、 IPC(国際パラリンピック委員会)は内戦が続く
          中東・シリア出身の選手など4つの競技の選手6人を派遣 をきめました。
   陸上、競泳、カヌー、テコンドーの4つの競技に男子5人、女子1人の合わせて6人の選手です。
 開会式 閉会式の入場行進
     
   (開会式)                  (閉会式)
   入場行進は開会式共に、閉会式共に難民選手団が飾りました。
   翻った旗は、「スリーアギトス」のロゴが入った、パラリンピック大会旗です。
   開会式で栄光の旗手を務めているのは、アバス・カリミ選手。24歳。
   身体に「スリーアギトス」の大会旗を体に巻き付けての栄光の入場です。
   自国の旗でないのは残念ですが、
   政治的困難、社会困難、身体的困難、精神的困難等多くの困難を乗り越えての
   「東京2020 パラリンピック」入場です。
 
アバス・カリミ選手
  生まれつき両腕がないアバス選手は、13歳の時、兄が造ったプールで泳いだのが
  水泳に関わるきっかけでした。両腕のないアバスにとって水泳は両足を巧みに使って
  自由に動き回ることができた最高の遊びになったのでしょう。
  「その日から水泳はアバス選手のオアシスとなりました」(NHKの紹介文)。
      タリバンなどの武装勢力から逃れて競技に打ち込むため、
     16歳のとき、家族を残して1人でトルコに亡命し、
  イスタンブールの難民キャンプに滞在しながら水泳を続けました。
  その後、練習拠点をアメリカに移し、
  2017年にメキシコで開かれた世界選手権では銀メダルを獲得しました。

      
 今大会では、男子50メートル バタフライと男子50メートル 背泳ぎに出場。
 競泳男子50メートル背泳ぎ(運動機能障害S5)予選に出場した。
 1組7着で、50メートルバタフライに続く決勝進出は逃したが、
 初出場のパラで確かな足跡を残した。
 どちらの競技も両腕のないアバス選手は、足と背筋を巧みに使って競技に挑みました。
 「神様は誤って私の腕を奪いましたが、足に才能を与えてくれたと思っています」
 なんと素晴らしい言葉でしょう。(2016年からアメリカ在住) 

閉会式の入場の旗手は、アリア・イッサ選手です。
 
 車いすに大会旗の「スリーアギスト」を取り付けてのトップ入場です。
 20歳のアリア・イッサ選手は、パラリンピック参加選手の中で最年少です。
 2015年に家族とともに難民認定されました。
 4歳の時に高熱により脳に障がいが残ったため、身体的、知的障がいがあります。
 幼少期はうまく言葉を話すことができず、学校でいじめられることもありました。
 2019年に本格的にこん棒投げを始めた「こん棒投げ」で、9選手中8位で入賞。
 史上初の難民女子パラリンピアンとして東京2020パラリンピックに名を残した。
    ◇ こん棒投げ =パラリンピック独自の投てき種目。ボウリングのピンのような形をした木製の棒
      (長さ約40センチ、重さ約400グラム)を投げ、飛距離を競う。握力が足りず、やり投げや
       円盤投げなどに参加できない選手のために考えられた。今大会で使うこん棒の一部は、
       東京都立工芸高校の定時制課程の生徒が製作した。

                                   (つづく)

     (昨日の風 今日の風№122)      (2021.9.7記)







 

 

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防災の日 忘れてはならない

2021-09-03 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

防災の日 忘れてはならない
       流言飛語と関東大震災の悲劇

 1923(大正13)年9月1日、
 午前11時58分相模湾北西沖80㌔を震源とする海溝型の大地震が発生した。
 これが関東大震災でした。
 190万人が被災、
死者・行方不明者は推定10万5,000人といわれ、
 犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めていたと言われてます。
 建物被害は全壊10万9,
000棟
      
全焼約21万2,000棟

 唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しは「東京全市日の海に化す」
   「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」被害の甚大さが眼に浮かぶようです。
 つづいて3日付、「横浜市は全滅死傷数万」「避難民餓死に迫る」
 さらに4日付では「江東方面死体累々」「火責ぜめの深川生存者は餓死」等々。
 津波状況は鎌倉由比ガ浜で9mに達したところもあるが、
 津波と地震動の被害を分離することができないので、津波による明確な情報は判明しない。

 建物倒壊による圧死と、強風をともなった火災による死傷者が多くを占めていたようです。
 
  (東京・日本橋付近の震災状況)

 大災害や大きな社会的不安のもとでは、流言飛語が飛び交い、
 被害の状況を増々深刻なものにしてしまいます。
 この時も、「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れようとしている」などの流言飛語がまことし
 
やかに流れ、多くの朝鮮人や中国人が虐殺され、
 今でも「朝鮮人虐殺事件」として大きな社会問題になっています。

二百十日を「防災の日」とする
 今では耳慣れない言葉の一つになってしまいましたが、「二百十日」という言葉があります。
 立春から数えて二百十日目が9月1日にあたります。
 この時期は台風かよく来るので、台風が襲来し、
 稲作などが大被害を受けやすい厄日とされていました。
 9月1日の関東大震災と二百十日という社会的習慣を合わせて、
 「震災への備えを怠らないように」との戒めをこめ「防災の日」とし、
 1960(昭和35)年に「防災の日」が制定されました。

 全国各地ではこの日に地震や津波、火災などに備えた防災訓練が実施されるようになった。
 しかし、「防災の日」制定には、国家として政府が、災害に対して責任を持って国民の生活を
 護るという法的根拠がありませんでした。

災害対策基本法の成立
  1923(大正13)年9月1日   関東大震災 (37年後の「防災の日」の根拠となる)
    1959(昭和34)年9月26日 伊勢湾台風、紀伊半島先端に上陸。甚大な被害をもたらす。
                「災害対策基本法」制定の契機となるなど今日の我が国の防災対策
                                                     の原点となった。
         1960(昭和35)年     「防災の日」定まる
    1961(昭和36)年11月15日 
災害対策基本法」制定。
               総合的かつ計画的な防災行政の整備及び推進を図り、
               もつて社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを
               目的とする。
            具体的には、国土や国民の生命、身体及び財産を災害から保護するため
            国家が防災に関し、その基本理念を制定する。
            つまり、国家が防災から国民の生命や財産を守る責任があることを、
            明確にした法律ということが言えます。

    途中、戦争をはさみ関東大震災から実に38年を掛けてやっと、
    災害からこくみんの生命や財産を守る国家の責任が明記されたことになります。

    天災は忘れたころにやってくる……寺田虎彦
       1952年発行(文化人シリーズ) 10円
     寺田は物理学者として数々の業績をあげたが、防災学者として地震・台風・火山などの
     被災地を調査し、そこから得た教訓を一般向けの随筆に著した。
      次のような警句も残しています。
            正しく怖がることは難しい
            文明が進むほど自然災害が激烈になる
            災害は注意しだいでどんなにでも軽減できる
            用心しておけばその効果が表れる日がいつかは来る

      
      どんなに良い法律を作っても、
      防災に対する心構えや対策は国民一人一人の義務であり、
      責務であることを私たちは忘れてはならない。
      防災訓練や対策をおろそかにしてはいけない。

(昨日の風 今日の風№121)                  (2021.9.2記)

               

 

 

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