雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「落花は枝に還らずとも」 ② 争乱の時代を生きた会津藩士・秋月悌次郎

2022-12-29 06:30:00 | 読書案内

読書案内「落花は枝に還らずとも」
        ② 争乱の時代を生きた会津藩士・秋月悌次郎
                                                         ブックデーター: 中村彰彦著 中央公論新社 (上 下) 2004.12初版
               中公文庫あり                                         

  『落花は枝に還らず、破鏡はふたたび照らさず』
 この本のテーマとなる諺(ことわざ)。落ちた花は元の枝には帰らないように、
破れた鏡もまたもとのように輝くことはない、という意味で、『覆水盆に還らず』と同じような意味。
破綻したものは再び元には戻らないという。
だから、人や家族友人などは、大切にしたいという戒めにもなる。
 小説ではこの諺にひとひねりのスパイスを効かせている。
 落ちた花は二度と同じ枝に花を咲かすことはできないが、次の春に咲くための種(たね)となることはできる。会津藩士・秋月悌次郎の生き方を暗示する題名だ。

 会津藩の外交官秋月悌次郎からみた幕末史を丁寧に綴った歴史小説。
 会津と薩摩の経緯、長州藩との軋轢、尊皇佐幕から公武合体を経て攘夷倒幕になだれてゆく政情、
 累卵の京都で弱腰の十五代将軍・徳川慶喜。
  孝明天皇の信頼を得ていた尊皇会津藩が幕府と朝廷の軋轢に翻弄されてゆくさまが、
 当時の資料を駆使くし、丁寧に描かれていく。
 戊辰戦争に敗れ斗南藩に追い立てられていく過程で、
 敗者として生きた秋月悌次郎のことはあまり知られていない。

  同じ幕末を描く場合、時代小説と歴史小説があり、前者は作者のイメージを膨らませ、
 作者の想像力を駆使くして歴史の中で活躍した人物を描く。かくして、坂本龍馬、近藤勇、
 土方歳三など時代の中で活躍した歴史上の人物が描かれるが、
 それは、司馬遼太郎の坂本龍馬であり、海音寺潮五郎の近藤勇であり、
 池波正太郎の土方歳三ということになる。
 また、笹沢左保の木枯らし紋次郎や子母沢寛の座頭市物語のように
 架空の人物を創出し活躍させる場合もある。
 多くの読者を楽しませるエンターテインメント小説ともいえよう。
       
  歴史小説は、歴史上の人物が残した資料や書簡、和歌などを駆使くし、
 できるだけ史実に添った人物像を作っていく。
 「落花は帰らずとも」も資料や書簡の挿入が多くなかなか話が先に進まない。
 幕末から明治へかけての秋月悌次郎を中心にした群像劇である。
 
  秋月悌次郎は会津藩校「日新館」に学び、
 天保13
(1842)江戸へ留学し、昌平坂学問所で学び舎長まで務め、「日本一の学生」と謳われた秀才。
 安政6  (1859)年初頭秋月悌次郎に下された藩命は、「中国、四国、九州の諸藩を巡歴のうえ、制度、
     風俗を仔細に視察してこれを奉ずべし」というものであった。(P70)
長く昌平坂学問所の
                  舎長をつとめて西国諸藩の者たちにも顔の広い悌次郎を視察役に大抜擢した。
     幕末の徳川政権が弱まり、攘夷運動の中で勤皇派と佐幕派が対立する京都。
     世情定まらずこの一年後の1860年には水戸脱藩浪士等による「桜田門外の変」等がおこり、
     幕府の威信は急速に落ちていく。
     塁卵の世(不安定で危険な状態の世の中)を乗り切り、
     藩を維持するために視察を放ったのは会津藩だけではない。
     徳川政権が衰えつつある今、勤皇派(後に勤皇討幕派と称される)は、
     京都を制し、禁裏(御所・宮中)を抑えることが時代の流れだった。
 文久2(1862)年 会津藩主・松平容保は京都守護職に任命。
          幕府が新設した京都守護職は、京都御所を警備し、幕府の主導権を確保し、
          幕府の権威を回復するために新設された。
                               容保は再々の守護職辞退にもかかわらず、結果的には対立する藩論をまとめ守護職を
          を拝命する。親藩中で人望があり兵力の充実した会津藩に白羽の矢が当たったのも
          時代の流れなのかもしれない。
          しかし、この時容保は津藩滅亡への道を歩む悲劇の藩主として後世に名を残す
          ことになる。
         秋月悌次郎は、
会津藩が京都守護職に就任すると公用方に任命され在京各藩との
                              周旋に奔走。
                    「同年、八月十八日の政変(七卿落ち)には、藩兵を率い実質的指導者として活躍」
         とあるが、これに関する
政変の中で、悌次郎の名前は出てこない。

  慶応元(1865)年 藩内抗争により公用方の職を解かれ、蝦夷地斜里の代官となる。
          明らかに、遠地への左遷だ。

          時代の流れを牽引していくように薩長同盟が成立、政局の悪化に伴い、
          再び京都に呼び戻される悌次郎。
          大政奉還から王政復古の大号令。鳥羽伏見の敗戦を経て、慶喜に見放された会津藩は
          辛い戊辰戦争へ突入していく。

           再び公用方として戻された悌次郎を待ち受けていたのは、敗戦にいたるまでの屈辱
          の任務だった。逆賊という汚名をそそぐための心血を注いだ藩主容保を救うための
          嘆願書を草記するが、功を奏せず、戦火は会津若松城下まで及ぶ。
          官軍側の圧倒的兵力と戦備に敗戦を余儀なくされる会津藩。

          開城交渉を経て、降伏式采配と苦難の道を行く悌次郎。
          謹慎中の会津藩主の助命嘆願のため、奥平謙輔に会いに越後に行く、
          この旅路の帰路で詠んだ詩文「北越潜行の詩」が、今の世に伝わる。
          「賊徒として討たれ会津人の胸のうちを切々と詠んだ詩文であった」
          と作者は記している。
 
北越潜行之歌

有故潜行北越帰途所得   故ありて北越に潜行し帰途得る所
行無輿兮帰無家     行くところもなく 帰る家もない
国破孤城乱雀鴉     国破れて荒れ果てた城には 雀鴉(じゃくあ=野鳥)たちが乱れ飛んでいる
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟 (略)
聞説天皇元聖明  我公貫日発至誠  (略)
恩賜赦書応非遠  幾度額手望京城  (略)
思之思之夕達晨     あれやこれやと思い惑っていると日が暮れ 朝を迎えてしまう
愁満胸臆涙沾巾     愁いは胸中に溢れて 涙がほほを伝う 
風淅瀝兮雲惨澹     風は淅瀝(せきれき=荒涼)として 惨澹(さんたん)として暗雲が立ち込める
何地置君又置親     藩主や親たちが安心して住める場所は どこにあるのだろう
                                    (意訳・雨あがり)

   その後の秋月悌次郎
     会津藩敗走後に秋月は終身禁錮に処せられるが特赦を受けたが、
     維新後に表舞台に立つことはなかった。
     1882年に59歳で東京大学予備門教諭に就き、
     さらに1890年には熊本の第五高等学校教諭に指名されている。
     熊本五高で彼は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と出会い、
     「神のような人」と賞賛されている。

     会津藩は敗者となり、愚直に生きようとした会津藩士のなかで、
     身を呈して時代の波を乗り切ろうとした秋月悌次郎は、忘れられていく。

     一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできないけれど、
     来春咲く花の種にはなれる。秋月は維新後の余生を教育に捧げ、
     七十七歳のいのちを全うした。
    晩年の秋月悌次郎  「北越潜行の詩」詩碑  

     最後の数行を作者・中村彰彦は次のように結ぶ。

     その遺徳を慕う人々は、今日なお少なくない。平成二年(1990)十月には会津若松市民を中心に
     三百八十万円の寄付金が集められ、旧鶴ヶ城三の丸跡に詩碑が建立されて幕末維新の逆境によ
     く堪えた胤永(かずひさ)の思いを長く後世に伝えることになった。
     そこに刻まれたのはいうまでもなく、

     「行くに輿なく帰るに家無し/国破れて孤城雀鴉乱る」
     とはじまる絶唱「北越潜行の詩」であった。
                                    ※(秋月悌次郎は 明治維新後に胤永と名のる)
   エピソード 菅原文太と秋月悌次郎
     七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち

     「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
     「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。
     一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。
     もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、
     荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。
     すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、
     
これらを願い続けているだろうと思います。
     恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。
      菅原文太さん81歳で死去 妻・文子さんが「小さな種をまいてさりました」というコメントの全文。文太氏は2014年11月に
        逝去。その時のコメント。
        (読書案内№188)         (2022.12.28記)




 

 

 

 

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読書案内「落花は枝に還らずとも」会津藩士・秋月悌次郎 ①幕末の時代背景

2022-12-18 06:30:00 | 読書案内

読書案内「落花は枝に還らずとも」会津藩士・秋月悌次郎
   ブックデーター: 中村彰彦著 中央公論新社 (上 下) 2004.12初版
          中公文庫あり

 ① 会津藩士、秋月悌次郎が生きた幕末の時代背景

 歴史はいつの時代でも勝者によって書き換えられ、敗者の記録は歴史の時のなかに埋もれて
消えていく。敗者の多くは命を失い、あるいは逃亡の末歴史の表舞台から抹消される。

 尊王攘夷思想のさきがけとなり、
時代の先鋒を牽引するかに見えた徳川斉昭の水戸藩は、
内部紛争と殺戮を繰り返すうちに多くの人材を失い、
時代はいつの間にか薩摩・長州が率いる尊王討幕の大きなうねりの波に飲み込まれてしまう。
水戸藩の第九代藩主・徳川斉昭の七男で一橋慶喜が15代将軍となるが、
傾いた幕府の屋台骨を立て直すには、
時代を襲った改革の波音は大きく、
慶喜は江戸幕府最後の将軍という敗者の汚名を着せられ、
歴史の舞台裏へ消えていく。

 かつて、会沢正志斎や藤田東湖を輩出し時代を先駆けた水戸藩はただ一藩、
江戸定府の藩として参勤交代を免除され、
有事の際には将軍名代の役目を担う御三家の一つでありながら、
明治時代を築いた新政府で活躍する人物を見出せなかった。
水戸徳川家も歴史に翻弄された敗者だった。

       『将門記』『平家物語』は歴史書ではなく、軍記物語である。平将門についての歴史的資料は
       ほとんどなく、「将門記」を唯一の資料となる。
  『吾妻鑑』 : 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から六代将軍・宗尊親王までの6代将軍記として、
          幕府の歴史を編年体で記録する。編纂者は幕府中枢の複数の者と見られているが、
          詳細は不明。
  『信長公記』: 太田牛一による織田信長の一代軍記。『信長公記』は、
         この太田牛一(織田信長の弓衆のひとり)がその時々につけていた日記をもとにして
         後年著述したものとされる。
  『徳川実記』:   江戸後期の史書で全516冊。 家康から家治に至る徳川家10代の歴史。
         大学頭林述斎等のもとに1809年―1849年に撰修。 将軍ごとに年月を追い事績を叙述。
         11代将軍家斉以降の記録は『続徳川実記』にあるが、未完のまま明治維新を迎えてし
         まう。

    などなど、勝者の歴史は後世まで残され、歴史の表舞台を飾るが、
    敗者の歴史は日陰に咲くあだ花になって、なかなか脚光を浴びられない。

    だが、歴史のなかで、活躍した人は勝者や敗者だけではない。
    名もなく、文字も残さず、歴史に影さえ落とさなかった多くの庶民が時代を作り、
    文化を作って来たのだ。
    そうした名もない人々の生活を掘り起こし、甦らせるのが
    研究者や小説家であり、歴史家、
郷土史家なのでしょう。

   次回、②「争乱の時代を生きた・秋月悌次郎」

     (読書案内№187)              (2022.12.17記)
                                 
         


 

 

 

 
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秋景色 月待の滝

2022-12-14 06:30:00 | 季節の香り

秋景色 月待の滝
 北茨城の久慈川の支流、大生瀬(おおなませ)川が作り出す小さな滝。
 『月待の滝』。
 なんとも情緒の漂う名前だ。
 高さ17㍍、幅12㍍で水に濡れることなく滝の裏側に行けるところから、
『裏見の滝』、『くぐり滝』とも言われている。


   栃木県日光にも『裏見の滝』があり、
   こちらはだいぶ前に崩落が進み裏に行くことは出来なくなっている。
   また、残念なことに滝への遊歩道も落石発生のため通行止めになっています。                                                                                                            (2022.7.7情報)
   元禄2(1689)年4月2日、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中この地を訪れました。
      しばらくは滝にこもるや夏(げ)のはじめ
        奥の細道によれば、廿余丁山を登つて滝有。
        岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。
        岩窟に身をひそめ入て、 滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也 、とある。
        この時代、『裏見の滝』は華厳の滝よりずっと有名だったらしい。いずれにしろ
        「二十余丁山を登って滝にたどり着けば、岸壁の頂上から流れ落ちる滝」だ。
        私が40年ほど前に訪れた時には、めったに人の訪れることもない辺境の滝で、
        滝の裏側に祀られた不動明王に手を合わすことができました。

裏見ノ滝写真   ソース画像を表示

   (月待の滝・新緑)                (川合玉堂・制作1903(明治36)年)
                         流れ落ちる滝の裏に通じる道を、親子の巡礼でし
                         ょうか、
杖を突いて登っていく様子が描かれてお
                         り、この絵に
奥行きと物語性を演出しています。

 

   

  (秋) 道路わきの駐車場から、滝へと向かう  沿道に、秋は紅葉が美しい。
  (冬) 北茨城の寒い地域にある滝は、冬には凍結します。これもまた、風情がありますが、
     寒いし、滝は萌える新緑、涼風を誘う夏、錦秋の秋がいい。

  普段は二筋の夫婦滝ですが、水量が増えると子滝が現れて親子滝になります。
  この珍しい形状のためか、古くから安産、子育て、開運を祈る二十三夜講
 (二十三夜の月の出を待って婦女子が集う)の場とされたところから「月待の滝」と呼ばれ、
  胎内観音が祀られています。(大子町観光協会案内)

  近くには袋田の滝もあります。

    
  (袋田の滝)      
 平安時代の歌人・西行法師も訪れたと伝わる「袋田の滝」です。
 高さ120㍍、幅73㍍の滝は、大岩壁を四段に落下するところから
別命「四度の滝」とも言われている。
また「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と西行法師が絶賛したことから「四度の滝」とも伝えられています。
袋田の滝は日光の華厳の滝、熊野の那智の滝と合わせて日本三名曝とも言われているが、
誰が選定した訳でもなく、諸説があるようです。
 

(季節の香り№38)   (2022.12.13記)

 

  

 

 

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里山を歩く ② 落ち武者の声が聞こえる

2022-12-10 06:30:00 | つれづれに……

里山を歩く ② 落ち武者の声が聞こえる
   晩秋の風が枯葉といっしょに里山の雑木林の中に消えていき、
  初冬の寒さが里山に降ってきて、
  北のブロ友からは初雪の写真のニュースがめっきり多くなりました。
  冬を迎える田圃のあぜ道を抜けて、山間の緩い坂道を上っていくと
  古い空気に包まれた古刹の甍に秋の名残りが枯葉にまじって漂っていました。
  この境内で数百年の風雪に耐えて生きてきた天然記念ぶっのクスノキを仰ぎ見、
  薄暗い本堂に鎮座する慈母観音に手を合わせ、
  弘法大師の像に別れを告げ、法螺貝の野太い声に送られて、
  林の中の城址に続く道を登っていく。

  今となっては城の痕跡の気配も感じられないけれど、
  私は、戦いに敗れ落ちていく雑兵や地方武士の叫びを、
  林を縫って走る細い道に聞いた気がした。

  すっかり葉を落として裸木になった林を抜け、
  谷に掛る吊り橋を渡り、小さな湿地帯を抜けて
  ほうの木の落ち葉をカサコソと踏みながら
  焼き物の里へと続く道に心地よい疲労を感じながら
  朝降りた駅への道をゆっくり歩いた。
  歩数計が21,281歩を示し、
  時計の針は13時10分を少し過ぎるところを指したころ、
  駅の時計台が見えてきた。
     (こころもよう…№132)       (2022.12.12記)
  

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里山を歩く ① 路地裏を抜けて風が通りすぎる

2022-12-06 06:30:00 | つれづれに……

     里山を歩く 
  晩秋のある日、8時少し過ぎ小さな駅に着いた。
  乗車客が一日100人ぐらいしかいない田舎駅。
  この街の人口はおよそ2万人。
  山間の小さな町は人口25000人をピークに少しづつ減少しているが
       里山に開けた町が明るく活気のある町として息づいているのは、
  焼き物の産地として観光客を呼び寄せる人気があるからだろう。

  改札口を抜け、まずは、駅前のモニュメント、時計台をパチリ。
  小さな駅舎を背中にして家並みを通り抜け、路地を抜け、林を迂回し、
  田圃を縫うようにして進んで行く。
  この道程が私は好きだ。
  枯葉の匂いがするような風が頬を撫でて通りすぎていく。

  静かなひと時に身をゆだねるのも良いが、
  同じくらいに、
  人の匂いや、生活の匂いがかすかに漂う、
  初めての街並みや路地を歩いていくのもいい。
  時々放し飼いの犬にであったり、道路を逃げるようにして横切り
  民家の塀の隙間にスルリと侵入していく猫などを眺め、
  かすかに聞こえてくる赤ちゃんの泣き声に、
  若く美しいお母さんのあやす姿など連想しながら歩いていくのも
  たのしいひと時だ。
     (つれづれに…№131)        (2022.12.05記)



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北海道旭川いじめ凍死事件 ⑤ 責任逃れの隠蔽がなされないように…

2022-12-01 06:30:00 | ニュースの声

北海道旭川いじめ凍死事件 ⑤ 責任逃れの隠蔽がなされないように…
 何もしなかった学校・旭川市教委
  爽彩さんが川に飛び込み、それに至るいじめの数々の事例に精神的に重大なダメージを受け入院
  したにもかかわらず、学校はいじめ対策を組織で検討することを怠った。
  同じように市教委も、2019年6月26日には母親から、性的いじめや川に張らざるを得なくなった自
  殺行為の報告を受けながら、このことを重大事態として認識していれば、学校に対し強く指導する
  ことを怠った。
   市教委の要請にしたがわずに放置した学校も、的確に指導できなかった市教委もその責任は重
  い。市教委や学校がいじめに対する法やガイドラインの規定を認識していなかったことが、
  今度のいじめ凍死事件を悲惨な結果に終わらせてしまったと言っても過言ではない。
   市教委のいじめや人権に対する主体性と自信のなさが根幹にある。
  合わせて、学校や教育委員会という組織の閉鎖性が、
  保身と隠蔽という現象を招いてしまったのではないか。

 最終報告に対する遺族側の見解
   最終報告で第三者委員会は、
  1.『母親から本件生徒に性的な被害を思い出させないため、
  学校が本件生徒に事件のことを聞かないよう要望があった』
  2.『本件がいじめと認定された場合、本件生徒への影響(本件が重大事態として対処されることで、
  より広い範囲にわたって事件のことが知られるようになり、本件生徒がより大きな精神的苦痛を感
  じることになる可能性があること等)が懸念された』

   こうした記述は問題のすり替えであり、いじめに関する法律やガイドラインの専門性の乏しいこ
  とが原因であると厳しく糾弾することが望ましい。

  1.2に関する遺族側書見書は、
   『第三者委は、「いじめ」として指導すると、加害者の心理に萎縮的効果を与えるとして指導すべ
   き場面を限定する必要があると主張する。
    しかし、このような考え方こそ、教員の指導を委縮させ、「いじめ」の早期発見、
   早期対応という理念を踏みにじるもの。加害者を守ろうとするゆがんだ考え方である』
    さらに、
   『本件調査は誤ったいじめ定義の解釈、すなわち根拠のない縮小解釈、
   限定解釈によってゆがめられたものであり、
   このような調査結果を受け入れることはできない。
   いじめ防止対策推進法の定義に基づく「いじめ」認定を求める
』、
   と主張している。

   性的被害を受けた後、爽彩さんは希死念慮を抱くようになり、
       (
このことが「川に入る」ことにつながっていくのだが)
  性的虐待は心理的にもいちじるしく強いストレスであり、
  心理的外傷後ストレス障害【PTSD】をおこるおそれがあると、
  主治医の確定診断があるにもかかわらず、爽彩さんの死に至る精神的苦痛を検討することなく、
  
第三者委はこのことを無視し、死亡に至る経緯の検証から除外している。
  第三者委は、かたくなに「いじめ」認定を回避して、爽彩さんの自責感、自己嫌悪感が原因である
  と主張しているように見える。

今津旭川市長
   遺族が報告書を不服とし再調査を求めていることから、
  「事態の真相解明には更なる検証の必要性を感じ、遺族の思いに応えるべく、真実を明らかにする」
  ことを表明し、いじめ防止対策推進法第30条第2項に基づき、「市長直属の再調査」をおこなうとし、
  第三者委員会の人件費等の補正予算案と条例改正案を市議会に提出。

「いじめ」の定義の変遷
  時代によって、人の考え方や行動は変化していきます。
 それにつれて私たちの生活環境も変化していきます。
 同時に子どもたちの「いじめ」の内容も変化していきます。
 同じように「いじめ」の定義も少しずつ変わっていきますが、定義の根底にある「いじめ」が
 「不特定多数の児童」が関係する問題であるという認識に変更はありません。

 昭和61年の「いじめ」の定義
     ① 
自分より弱い者に対して一方的に、
       ②  身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、
            ③  相手が深刻な苦痛を感じているもので、
            ④  学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもので
       起こった場所は学校の内外を問わないものとする。

            ここで重要なことは、心理的攻撃だけでなく、たとえば、心理的攻撃も「いじめ」とみなすこ
      と、例えば通学路や自宅、インターネット上で起きたものも、すべて含まれます。
           しかし、
学校が事実を確認しない限りはいじめだとは判断されませんでした。
                   
これによって、いじめが表面化しにくく、いじめられている児童生徒の訴えが取り下げられてし
                   まうこともありました。
                   ④の文言は平成6年度では
削除され次のように改正されました。

 平成6年度のいじめ定義の改善点 
    「学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの」が削除され、
    
「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、
    いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと」が追加されたが、
     いじめかどうかの判断を学校主体で行っていたものから、
    あくまでいじめを受けている子どもに寄り添って判断するように変化しました。

     後段の文言は少しわかりずらい、第三者(学校側)が見ていじめと判断するような事例が起きて
    も、いじめられている子どもが、「やり返したり」「いじめと思いたくない」というような気持ち
    があったら、これは「いじめではなく、悪ふざけのたぐい」と判断されてしまうことです。
    実際にあった事例ですが、「いじめと認定」せずに、「悪ふざけ」にして、いじめ問題に封印して
    しまう事例がありました。表ざたにしたくない、という学校側の意思が問題になります。

平成18年度のいじめ定義の改善点
    いじめの定義から「一方的に」「継続的に」「深刻な」といった文言が削除され、
    以下のような定義に改善されました。
 そして現在では次のように定義されています。

  「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係の
  ある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるもの
  も含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」
                             (いじめ定義の変遷・文部科学省より引用)
   まとめてみると、
    
被害者・加害者の間に一定の人間関係があって、
     被害者が苦痛を感じているものであれば、いじめだと認定される、ということです。
          いじめの内容が広範囲にわたり、「被害者が苦痛を感じている」事例は、
    いじめと認定しなければならないと
いうことです。
    起こった場所も、「学校の内外を問わず」という文言も大切な定義です。

   最後に
      北
海道旭川いじめ凍死事件に関する新第三者委員会の調査が適切になされ、
             
大人の当事者の思惑で、いじめが隠蔽され命の尊厳が侵されるようなことが二度と起きないよう
              に、遺族の悲しみに鞭打つような、痛ましい事故が起きない教訓となる調査報告を望んでやみませ
             ん。
                                          (おわり)

          (ニュースの声№21)       (2022.11.30記)
    


   


 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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