雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇  

2023-12-24 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇・甲標的

 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
簡単に言ってしまえば、甲標的は、二人乗り(甲型)の小さな潜水艇です。

 全長24㍍、全高3.4㍍、速力は19㌩(毎時35㌖)で、
航続力は最大速力で潜行した場合50分程度しか航行できませんでした。
魚雷2本を搭載しています。
作戦終了後に母艦により収容される計画となっていたが、
実際の収容は困難であり、生存率の低い兵器でした。
     

華々しい戦果の陰に隠れて、
たった5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」の戦果は皆無だったが、
当時は戦果についての発表はなかった。
戦死した9人は太平洋戦争最初の戦死者として華々しく報道され、
「9人の軍神」として、国民の戦意高揚に利用された。
  (真珠湾攻撃は1941(昭和16)年12月8日ですから、報道機関に発表されたのは、
  3カ月後の発表ということになります)  

 1942(昭和17)年3月7日付の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊を見てみよう。
『軍神 真珠湾強襲・特別攻撃隊の九将士』という活字が躍っいます。
また、「不滅の偉勲」「壮烈無比の攻撃」などの活字が躍っています。
戦死した九人の写真が掲載されているが、
捕虜となった酒巻和男さんについてはまったく触れられてなかった。
戦歴から抹殺されていたのです。
戦死した9人は軍神としてたたえられ、
1人だけ生き残り捕虜第一号となった酒巻和男の存在は秘匿された。

 さらに、大東亜戦争記録画報(前篇) 1943年6月20発行からの関連記事を見てみよう。
 九軍神特別攻撃隊の大戦果
  ハワイ真珠湾に潜行突撃したわが特別攻撃隊の精神は果たして至高至純にして神そのものの如く忠勇無比
 なるその義烈はまさに鬼神を哭かしむる、征ける九勇士はみな還らず、すべて真珠の玉と砕けたのである。
 激闘の瞬間身を死地に投ずるは安いが、このハワイ九軍神の如く数カ月前より一旦緩急ある場合を期し自ら
 死を着想し死を工作し死の訓練を重ねて静かに、尽忠報国の秋を待てるは千古に比を見ざる崇高なる精神で
 ある。
 「九軍神」の表現はあるが、
 5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」で出撃した特別攻撃隊なのに、
 「征ける九勇士はみな還らず」とすれば、
 「残る一人は生存しているのか」という素朴な疑問が国民のだれ一人も思い浮かばず、
 プロパガンダの戦果報道に酔いしれていた。
     
     捏造された写真には九人の軍神がハワイ・オアフ島を囲むように配置されている。
     酒巻和男の姿はない。 

 ハワイ沖まで潜水艦で運ばれた2人乗りの潜航艇5隻の一つに乗り込み、米軍艦を魚雷で攻撃するために湾内に向かった。しかし、酒巻和男が乗る潜航艇はジャイロコンパス(羅針儀)の故障で思うように航行できず、敵の攻撃を受けて座礁し、浜辺に打ち上げられ、米軍につかまった。

『真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号』の冒頭は次のように始まります。
 蒸し暑い特潜の中から母艦の甲板へ降り立った。冷え冷えとした夜気を含んだ南海の潮風が容赦なく私の顔を打ち付けてくる。
 憑かれたようにハワイの島影を求めた。薄暗い星明りの下に、ぼんやりと霞むオアフ島が現れて来る。その霞の奥からかすかに、昼間聞いたホノルル放送局の耳慣れないジャズ音楽が響いてくるようだ。言い知れない不気味さが、敵地に侵入した私を不思議な緊張感の中に追い込め、しばらくはただ茫然と仁王立ちしていた。
                                      (つづく)

  (語り継ぐ戦争の証言№35)        (2023.12.23記)

 

 

 

コメント (2)
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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ①太平洋戦争の始まり                

2023-12-17 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ①太平洋戦争の始まり 
     真珠湾攻撃について
             開戦82年目の12月8日  あの日を振り返ってみよう。
           1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の航空機約350機と、空母六隻とからな
          る
機動部隊が、ハワイ・真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃した。米国は艦船6隻が
          沈没するなどの損害を受け、約2400人が死亡。攻撃直前には日本陸軍もイギリス領
          マレー半島へ上陸し、太平洋戦争が始まった。ただ、米国への最後通牒が攻撃の一
          時間後に届けられたために、「宣戦布告なき戦争」として、後々まで批判された。
           この奇襲作戦には、二人乗りの特殊潜航艇五艇が参加していたことはあまり知ら
          れていない。
           五艇の特殊潜航艇のうち、作戦通り湾内に侵入できたのは二艇、できなかったの
          は二艇で、いずれも米軍の哨戒艇による爆撃で撃沈されている。ただ一艇、酒巻和
          男少尉の乗った特殊潜航艇は艇の故障や米軍の爆雷の攻撃によって、湾外の砂浜に漂
          着し
、この奇襲攻撃で、太平洋戦争捕虜第一号となった。操縦員の稲垣 清二等兵曹は
          行方不明になり、後に戦死したことが判明する。
           酒巻和男氏は戦後日本に戻り手記を発表。また、我が国の経済活動に活躍の場を求
          め、経済人としての功績
を残した人でもあった開戦の日に不幸にも捕虜第一号とな
          ってしまった酒巻和男氏の悔恨の青春と、その後の人生を、酒巻氏の手記を参考に紹
          介します。

太平洋戦争の始まり  

 1941(昭和16)年12月1日、午前会議において対米宣戦布告が決議され、

翌日(開戦7日前)機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文が打電されます。

日本時間12月8日午前1時30分、

機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分には第二波攻撃として171機が発進。

第一波攻撃隊から起動艦隊に向けて「トラ・トラ・トラ」の暗号文が打電された。

「ワレ奇襲ニ成功セリ」。

 日本側の空母6隻は無傷で帰艦。

損害は飛行機29機、戦死64名でした。

対する米国の損害戦艦4隻沈没、他4隻に大きな損傷を与えた。

戦死2345名。日本側の圧倒的勝利でした。

 太平洋戦争(大東亜戦争)のはじまりです。

ただ、日本国から米国への最後通牒が攻撃の一時間後に届けられたために、

奇襲攻撃と称されるように、

「宣戦布告なき戦争」として後々まで批判されることになった。
                      エピソード
                       開戦日の朝の記憶は鮮明に胸に残っている。
                      1941年12月8日、中学2年生だった作家の吉村昭は
                      学校に行く途中、軍艦マーチの猛々しい音と共に、
                      大本営発表を伝えるラジオのニュースを耳にした。
                      「町全体が沸き立っているような感じであった」。
                      開戦の2日後、中国で戦死していた兄の遺骨が贈ら
                      れてきた。
                       ハワイでの戦果に「狂喜」する近所の目を気にし
                      て、家族は雨戸を閉めた。母親は発狂せんばかりに
                      激しく泣いたという。(吉村昭『白い道』)
                               (朝日新聞2023.12.8 天声人語から引用)
 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
特殊潜航艇とはどのような潜航艇だったのでしょう。         

                                     (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№34)
参考文献 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号    酒巻和男の手記
           朝日新聞2023.12.08 太平洋戦争開戦82年他





 

 

 

 

 

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