雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「南三陸日記」① 無事で申し訳ありません

2021-04-25 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 三浦英之著 ノンフィクション
    ①『無事で申し訳ありません』
              
        朝日新聞の 駐在記者として被災地に住んで、
  宮城県南三陸町に住む人々を記録した震災ルポルタージュ。
   集英社文庫 2019.2 1刷    2019.3   2刷
       

  2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、津波に流さ
  れた船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広
  がっていた。津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だ
  った。特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、民家にも人の気
  配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。

  2011年5月10日、朝日新聞の記者・三浦英之が南三陸駐在記者として、
 がれきに埋もれた宮城県南三陸町に赴任した。
 震災一か月後の被害の生々しい痕跡が残る南三陸町のホテルに部屋を借り、
 一年にわたる取材の記録を、全国版のコラムに掲載された記録である。
 被災の残酷さや過酷さを伝えるのではなく、被災した人々の心の動きに焦点を当てた
 ルポルタージュだ。
  随所に感じられる記者の優しさが、哀しい出来事の報道なのに読後、
 どこかホッとする感情につつまれる時がある。
   写真に添えられた冒頭の文章は、過酷な現実を伝える。

遺体はどれも一カ所に寄せ集められたように折り重なっていた。
リボンを結んだ小さな頭が泥の中に顔をうずめている。細い木の枝を握りしめたままの三十代の男性がいる。消防団員が教えてくれた。
「津波は引くとき、川のようになって同じ場所を流れていく。そこに障害物があると、遺体がいくつも引っかかってしまう……」
 遺体は魚の腹のように白く、濡れた蒲団のように膨れ上がっている。涙があふれて止まらない。隣で消防団員も号泣していた。(冒頭の一部を引用)

   いきなり冒頭の文章に、唖然とさせられた。

  私が被災地を訪れた時、防砂林の松林が根こそぎ津波に襲われ、
  荒地と化し、松の根っこがむき出しになっていた。
  その根元に、花が添えられていた。
  津波で命を失くした人への鎮魂の花束なのだろう。
  豪華ではなく、質素な、故人が好きだった花なのかもしれない。
  気づけば、そんな鎮魂の花が元松林だった砂地に散在している。
  それは、手向けの花と同時に、生き残った者の悔恨と無念の花なのかもしれない。
  防潮堤の厚いコンクリートが津波の暴力でひっくり返り、
  えぐられた大地に濁った塩水が、あの日の惨状を今に伝える風景のようであった。
       この地にも、冒頭で示されたようなたくさん遺体が晒されていたのかもしれない。
                                         (2011.10)
  「申し訳ありません」と記者に向かって頭をさげる。渡辺宏美さん。
  「家も家族も無事なんです」。
  元気なく答える姿に記者は違和感を覚える。
  高台に建てられた3LDKは、津波の被害を免れたと……
  南三陸町ではすべての物が流され、断水や停電の中、
  支援物資に頼ざるを得ない生活が続いた。
   (南三陸町)

 「 街を歩いていると『あんたはいっちゃね、家も車も無事で』
といわれているような気がして胸が張り裂けそうになるんです」
南三陸町に住む多くの人が、肉親を失い、全ての財産を失くした。
そんな状況の中で自分だけが無傷であることの後ろめたさに、涙する渡辺さん。
一家は、取材の翌朝、隣の町に引っ越していった。
 記者は最後の4行を次のように結ぶ。

シャープペンシルで引いたような細い雨が、海辺の町に降り注いでいた。
いつかこの町に戻ってきたい……。
一家は二トントラックを家財道具で満載にして、何度も振り返りながら、がれきだらけの町を走り去った。

                                        つづく
 (読書案内№172)        (2021.4.24記)


   

 

 

 

 

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坂村真民の言葉(1) 未練

2021-04-15 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(1) 未練 

 坂村真民について (坂本真民記念館 プロフィールから抜粋)
   
20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
       
仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  
一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

   未練
      「今」を生きつづけたものに
      未練はない
      働くだけ働いて働き蜂は
      蟻に己れを与え
      鳴くだけ鳴いてこおろぎは
      己れを風葬にする

    「今」を真剣に生きる者にとって、どんなことが起ころうとも未練はない、
    と言い切る裏に、作者の一途な生き方と、揺るぎのない信念がイメージできます。
    「蟻」の餌食になってしまう「蜂」や
    冬を迎える「こおろぎ」のように、自分の亡骸(なきがら)が風に晒されような最期を迎えようと、
    私は生き方を変えない。

    こういう生き方を継続してきた真民(しんみん)さんの言葉だからこそ、
    重みがあり、納得もできます。
    納得できる言葉でも、凡人にはなかなか難しい生き方のようです。

    頑張る時には頑張り、気を抜く時には気を抜く生き方を長年続けていれば、
    空気を読んだり、根回しをしたり、
    タイミングを待ったりすることが自然に身についてきます。
    このことが身についていないと、
    絶妙のタイミングで自分を生かすことはできないように思います。

    人それぞれに生き方は違いますが、「真っ直ぐに生きる」ということは、
    決して悪いことではないけれど、どこかで無理が生じ、
    周囲との摩擦を起こしやすくなってしまいます。
    人に恥じない生き方であっても、周囲と摩擦を起こし、
    これを解消しょうという気がなければ、
    「変り者」とか「意地っ張り」という言葉で片づけられてしまいます。

    真民さんの生き方に、感銘しながらもどこかで、
    「難しい生き方だよな」と言っている自分の声が聞こえてきます。

                            ブックデーター
                             「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                             致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷

      (読書案内№171)                 (2021.4.15記)

 

 

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逝きて還らぬ人を詠う ⑤ この世での最期の言葉は「ありがとう」…

2021-04-08 05:30:00 | 人生を謳う

逝きて還らぬ人を詠う ⑤ この世での最期の言葉は「ありがとう」…

 

      『大切な人が逝ってしまう。
    
人の世の宿命とは言え、余りに辛い体験はいつまでたっても心が癒されない。       
    悲しいことではあるけれど、
人間(ひと)はいつかはこの試練を乗り越えて生きていかな
 ければならない。
死は予測された時間の中をゆっくり訪れる場合もあり、突然訪れる
 場合もある。
どちらの場合も、無常観と切り離すことはできない』

   〇 妻の死を看取りて後に気付きたり励まされたのは自分だった 
                        
…… 島田章平 朝日歌壇 2019.12.15
         寄り添うように生きて来た長い年月。辛く苦しい介護もあった。だが、看取って初めて妻を
         愛しいと思い、励まされていた自分に気づき、愛しさが一層募ってくる。

   〇 見出しぬ妻の遺品の箱一つわが生涯の給与明細 
                     
……  鶴貝敬司 朝日歌壇 2020.02.16
         遺品整理は悲しい作業であるが、故人を偲び懐かしい思い出に浸る作業でもある。
         「わが生涯の…」とあるように、妻との懐かしい生活の場面が新婚当初の給与明細から
         丁寧に箱に収められている。一枚一枚の給与明細に込められた妻の思いが伝わってくる

  
   〇 
傘持って行きなさいよと亡き妻の声聞く様な午後の外出 
                    
     …… 井村おさむ 朝日歌壇 2020.03.08
         玄関を開けると、今にも降って来そうな曇り空だ。空を見上げて一瞬躊躇する。
         背中に妻の声が聞こえたような気がした。「傘持って行きなさいよ……」

  
    
妻の逝きし病室を出づ夜の窓に映る列車の灯の懐かしき 
                     
  ……石島崇男 朝日歌壇 2020.04.26
         たった今妻が身罷(みまか)った。その病室を出ると窓の外に夜の闇がひろがっている。
         その闇のなかを通りすぎてゆく列車の灯りが、かけがえのない妻を喪った寂寥感の
         漂う作者の心に懐かしい風景が流星のように通り過ぎていく。

  
   〇 「此処からは一人ですよ頑張ってね」と棺のひとにささやく夫人
                        
…… 中村睦世 朝日歌壇  2020-05-24
         冷たくなって棺の中に横たわる夫に向かって、やさしく、ささやくように呼び掛ける。
         死してなお、精いっぱいの愛情で繋がる二人。生きている人に語りかけるように……

  
    
この世での最期の言葉は「ありがとう」父待つ空へとかあさん還る 
                            
…… 久野茂樹 朝日歌壇 2020-07-05
        「母さん、父さんがいなくなってからよく頑張ったね」。
        「ありがとう」の最期の言葉を残して旅立った母への、感謝と鎮魂の歌だ。

                                (人生を謳う)                (2021.4.7記)


    






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江戸の感染症 ② 感染症対策

2021-04-03 06:30:00 | つれづれに……

江戸の感染症 ② 感染症対策
  前回でも触れたが、鎖国政策をとっていた江戸幕府。
 長崎・出島を通じて当時の先進国・ポルトガル、オランダ、イギリス、中国の船が、文明とともに
 インフルエンザやコレラが侵入してきた。
 当時の医療技術はウイルスによる感染症に成す術を持たなかった。
 感染症の特効薬やワクチンもなかった時代の不安と恐れは、
   前回に紹介した絵が如実に語っている。
 感染を防ぐ唯一の方法は江戸時代も現代も「人との接触を避ける」ことだった。
 既にこの時代には、
 感染者の隔離や接触の制限などの対応は存在したようである。
 人が集まる銭湯、髪結い床、芝居小屋、遊郭などでは、
 人が来なくなり商売が成り立たなくなる。
    現代のような「時短」「営業自粛」などの要請はなかったが、
 景気は悪化し、経済活動は停滞し、
 その日暮らしの多い人たちはたちまち生活困窮に陥ってしまう。

 コロナ禍と同じ状況が、江戸の街を不安と焦燥が襲っていた。

       

(図1)                                                                 (図2)
   
 図1
  【麻疹流行年数・一松斎芳宗 1862(文久2)年】(国会図書館デジタルコレクション蔵) 
  右上に麻疹流行の年が列挙してある。(平均20~30年に一回の流行)
    1650(慶安3)年
    1690(元禄3)年
    1730(享保15)年
    1753(宝暦3)年
    1776(安永5)年
    1803(享和3)年
            1824(文政7)年
               1862(文久2)年
  ワクチンもなく医療技術も低く、成す術もなく神に祈る人たちが描かれている。
 
 図2 歌川芳員画 幕末の浮世絵【諸神の加護によりて良薬、悪病を退治す】都立中央図書館蔵
    画面左下 やっつけられて悲鳴を上げているのは、疫病たち。退治している武装集団は
    海外から輸入された西洋医学による薬たち。瑞雲に乗った集団はお稲荷さんや神田大明
    神など庶民たちの神々が疫病退治を応援している。幕末に書かれた絵ですが、ここでは
    怪しげな民間療法の記述は姿を消し、薬が登場しているところに時代の息吹を感じま
              す。
    
   『御救金の支給』
 生活の基盤を失い、生活苦に陥った江戸庶民を対象に『御救金』を支給した。
 これは、感染の有無にかかわらず困窮者を対象に一律に支給された。
 無差別で一律10万円というばらまき人気取り支給ではない。
 
 現代の制度の『持続化給付金』が最も近いが、
 その財源は政府の補正予算と予備費でまかなわれた。
 一方『御救金』の財源は江戸の町会所(まちかいじょ)という一種の共同蓄積制度だった。
 寛政年間(1789年以降)にはこの町会所という一種の自治制度に近いものが制度化された。
 
 町人たちの積立金ををもって運営された自治組織で、
 現代に例えると自助でも公助でもない「共助」のシステムだった。
 町人からの積立金を預かるとともに、感染症流行時には給付金支給
 の窓口になったのが町会所だった。また積立金の一部を貸し付けに
 回すことで利殖をはかり、積立金の増資にも寄与している。
 積立金を資本に大量の米を買い入れて備蓄米とし、飢饉、火災、水
 害時には、御救米(おすくいまい)として町人に支給した。町会所は江戸
 災害時の食糧危機を未然に防ぐ役割も果たしていいた。
(歴史家・安藤優一郎氏) 

 『御
救金』の実践

   1802(享和2)年、町会所が感染症(インフルエンザ)流行を理由に御救金をした最初の年である。
   この年の3月、長崎から感染が始まり、感染の拡大は江戸へ。
   感染の流行に伴って生活困窮に陥る者が増加し、社会不安が波紋のように広がる。
   町奉行所は感染の有無に関係なく「御救金」を支給する。
   町人人口約50万人の内半数越えの28万8441人を対象に、
        独身者 …… …… ……  銭300文
        二人暮らし以上の家庭 …… 一人当たり銭250文と
   対象は「その日稼ぎの者」で、棒手振(ぼてふり)など、その日暮らしの日銭を稼ぐ、
   貧しい物売りや職人などが対象となる。稼ぎの少ない人々にとって感染症の流行はすぐに
   生活困窮に繋がる。
   八百八町と称された江戸の町には260程の役場があり、
   各町に置かれた名主によって自治運営されていた。
   各町の行政事務は町奉行所から名主に委託されたため、町役人とも呼ばれた。
   名主は小さな自治体の首長のような役割を持ち、名主の家が役場のような役割を担っていた。
   対象者のリストアップは、
   町奉行所の依頼を受けた町会所を治める町役人の行政事務となる。
   250文~300文の「御救金」は、現在の3000円~5000円ぐらいになるそうです。
   生活困窮者一人に対する給付金ですから、そこそこの給付だったのでしょう。
   狙いは感染症対策というよりも、
   社会の安定を計り、人心の不安を和らげるカンフル剤としての役割であったようです。

   十数年前の天明の飢饉で餓死者など多くの犠牲を出し、生活困窮に陥った人々が米屋や
   商家を襲い、数日間江戸の町は無政府状態に陥ったといわれています。
   当時の老中・田沼意次はその責任を問われ失脚を余儀なくされました。
   同じ轍(わだち)を踏まないように「御救金」で、生活困窮者へのカンフル剤としたようです。

 
 迅速な対応は小さな政府(自治組織)ゆえの対応か
   現代の場合は行政の執行は、閣議を経て国会の承認を得て決定し
   執行というのが一般の段取りで、
   政府の暴走を避けるためには仕方のないシステムなのでしょう。

   さて、上記の享和2年の『御救金』の場合はどうであったか。
   名主が奉行所から該当者の調査を命じられたのが三月十七日、
   早くも翌日の十八日には、「その日稼ぎの者」のリストアップは終了し、
   町会所は対象者に『御救金』の給付を始めている。
   十二日後の二十九日には給付が完了する。
   一日当たり二万人以上に給付した計算になる。

   次の事例は、約20年後の文政4年(1821)のインフルエンザの流行の時である。
   やはり、経済が低迷し困窮者が続出し、社会不安が増大した。
   一人当たりの給付金は前回と同じで、対応の早さが際立っている。
   「その日稼ぎの者」は29万6987人で前回より8千人多かったが、この時は
   わずか7日間で給付が完了している。
   一日平均42,
426人になる。
   これを260の名主の役場で担当するとなると、
   一人の名主で1日約163人に支給することになる。
   対応可能な人数です。
   このような迅速な対応は、
   細分化された自治組織が有効に機能したことを物語っている。
   組織は次のような仕組みになっている。
   町奉行所→町会所・名主(首長)→役場
   役場には町代(ちょうだい)・書役(かきやく)という現代の行政官のような者がいて、
   煩雑な行政事務を担当していた。
   人別改めといった戸籍事務も含まれ、
   町人たちの生活実態はよく把握されていたようだ。

   『御救金』、『御救米』という迅速な対応が江戸の町の人々を、
   社会の混乱から救ったことは間違いない。

   緊急一時宣言が解除されたとはいえ、コロナ感染が沈静化したわけではなく、
   むしろ増加の傾向も窺われ、第四波到来と警鐘さえ鳴らされている。
   政府が頑張り、医療従事者が瀬戸際で頑張ってもコロナ禍は収束しない。
   生まれ育った故郷を大切にする気持ちがなければ、コロナ感染を他人事と考えずに
   自分のこととして捉えなければ感染は収束しない。
   緊急一時宣言が解除されても、全てのタガがはずされたわけではない。
   段階的緩和期間を経て、感染者の統計上の数字が減少し、
   安全が確認されなければ、再拡大の危険性を増大させることを、
   一人ひとりが自覚しなければならない。
   
   政府分科会の指標は「必要な対策は、ステージ2以下」だと、その目安を示しているが、
   感染拡大は、増加傾向にある。
   
   桜の花が満開を迎えた。花見の自粛を政府や自治体が求めても、
   上野の山は花見客で混雑。聖火のリレー会場も人の群れが三密の要請を
   絵空事にしてしまう。

   友人が言った。
   「大都市は故郷を捨てたよそ者の集まりだから、こういう処をコロナ族のウイルスは好んで
   潜むのだよ。竹馬の友が存在しない集まりだから、意志の決定がなかなか取れないのだ。
   俺一人ぐらいは……と思う人の集団がいる街なんだな」と。
   当たらずとも遠からずの言葉に、なんだかうすら寒い風が吹いたような気がして
   マスクを掛け直した。

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   3月30日 コロナ再拡大鮮明。新規感染者 全国で増加。
          まん延防止措置 大阪府(政府に)要請へ。
                   夜の人出 3割増し 週末 大阪・名古屋・福岡も増加傾向。
                      (朝日新聞・一面トップ記事)
     3月31日 昨日と打って変わってコロナニュースの記事が少なく、
         関連記事でお茶を濁している。(まん延防止措置の政府対応を待っているのか)
         〇 厚労省23人 深夜まで会食 時短営業要請中 課長更迭へ。
           (野党は待ってましたとばかりに菅総理を責めるが、総理が謝罪してどうなるの。
          国政を預かる議員や官僚の皆さんに緊張感が欠如しているんだよ)
         〇 長野・聖火リレー一部無観客
           到着式典、善光寺近くの沿道を無観客に。(到着式典の無観客は初めて)
         〇 宅急便が急増 20年度 3社最多見込む。
              (「風が吹けば、桶屋が儲かる」コロナ禍のもと営業活動のままならない業種が
          悲鳴を上げている。「巣ごもり需要」で思わぬ好成績を更新する企業もある)
           〇 パルスキオシメーター(血液中の酸素飽和度を測る機器) 生産力20倍に。
           コロナで品薄、他のメーカーも増産体制に入った。当面、医療機関や自治体への
          供給を優先。
                                        (朝日新聞)
    4月1日 〇 まん延防止 大阪に適用へ。政府今日にも決定。(一面トップ)
            「まん防」は2月に施行された改正特別措置法で新設され、適用は初めて。
            緊急事態宣言を防ぐため、私権制限を可能とし、感染を抑えるための仕組み。
            「ステージ3(感染急増)」相当であることが要件。
         〇 関西解除1カ月で 急拡大「第4波」に危機感。官邸、慎重姿勢を一転
         〇 厚労省集計 異変株感染者1200人に 専門家「今後も拡大予想」
         〇 厚労省の大会食 誰も止めず
              午後9時以降も注文■マスクはずしたまま
           〇 鳥取県職員8人 送別会で感染
           ほとんどマスクをせず、カラオケで大声を発していた。
           (厚労省も鳥取県職員も、自分たちを何ものだと思っているんだ。
           私の友人がボソリと言った。「あいつ等、成り上がり者の馬鹿殿が、
           自分たちは天上人だと思っているんだよ。だから、何をしてもいいんだとうぬ
                                     ぼれているんだ。公僕という自覚がないんだな
」。
           相変わらず歯に衣着せぬ発言だが、
           異を唱える理由もなく私は黙ってうなずいた。 
    4月2日 〇 大阪・兵庫・宮城 まん延防止 5日からの31日間 (一面トップ) 
            「まん防」の初適用で、4月5日から大型連休の終わる5月5日までの31日間。
                                     諮問分科会の尾身茂会長は、高齢者へのワクチン接種が順調に進むことを
           前提に「この6月までが正念場」と訴える。
             施行者や関係者の思いがなかなか正確に伝わらずに、望むような結果が出せず
          に野党との間にギクシャクした関係が続く。言葉が足りない、不適切な言葉を
          使用しひんしゅくを買う場合もしばしばあり、コロナ禍で疲れ切った流れが
          政府や民衆の間に流れている。湿った火薬が徐々に燃えてきて、場揮発寸前にあ
          るような危険な状態を感じる。
        〇 大阪市聖火リレー中止へ調整(一面)
          苦渋の発言・大阪吉村知事。「大阪市内に不要不急の外出自粛をお願いすること
          になる。大阪市内の聖火リレーは中止すべきだ」。
          府内18市町村を走る聖火リレーの中止は、施政のリーダーとしては当然の判断
          だ。
             〇 「まん延防止」手探り。(2面
)
          中心となる対策は、飲食店などへの罰則付きの営業時間の短縮命令。だが、
          すでに時短営業なっている地域も多く、これで感染拡大を抑え込めるのか
          不安の声も聞こえる。     
                                      
(朝日新聞)                                   

        30日からのコロナの報道を、追いかけてみました。
       見えてきたのは、打つ手の無くなった政府と混迷する社会不安。
       勇気と決断をもって対処しなければ、コロナに負けてしまう。
       一般民衆もまた感染拡大を甘く見すぎていたのではないか。
       感染拡大の責任を政府に押し付けるのは虫が良すぎる。
       政府と社会の構成員の責任はヒフティヒフティなのだ。

                                       (おわり)
       (つれづれに…心もよう№113)        (2021.4.2記)

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