雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

能登半島地震

2024-01-28 06:30:00 | ことばのちから

能登半島地震
   1日 午後4時10分 
     能登震度7 48人死亡 M7.6 200棟以上火災2.8万人避難 
                            ( 朝日新聞1月3日一面トップ)
天声人語では、次のように1日の能登地震を伝えている。

『北海道から九州まで津波の到達範囲は日本海側に広く及んだ』
 地震発生時のテレビの緊急避難警報では、「津波が来ます。危険です。すぐに逃げて下さい」
 アナウンサーの言葉が、定点カメラが映し出す画面から、繰り返し繰り返し流れてくる。

『冬の日没は早い。暗い中で避難を強いられ、寒さに耐える苦痛はいかほどか。
 停電や断水が続き通信状態も悪いという。倒壊した建物に閉じ込められ、助けを待つ人もいる』
  文章からは、尋常ではない被害の予測を懸念する天声人語氏の声が聞こえるようだ。
  一夜明けて見えてきた惨状を、
 「コロナ禍の一昨年も約20万人が訪れた観光地」の被災を次のように表現している。
 『道路は地割れでめくれ上がり、山肌はむき出しに。…輪島市では大規模な火災がおき、
  有名な朝市の一帯も焼失した』
 『季節を告げる自然は、時に牙をむく。災害はいつ起きてもおかしくないのはわかっている。
  それでも「正月になぜ」と思わずにはいられない』

  限られたスペースの中に、読みやすい短いセンテンスの文章が、災害の悲惨状況を簡潔に伝えている。

   2日 午後5時50分ごろ、日航機炎上 海保機と接触
      羽田空港 乗員乗客 全379人脱出。
      海保5人死亡 6人搭乗
                    ( 朝日新聞1月3日一面)
516便の乗員は 12人、乳児8人含め乗客367人で、計379人全員が脱出。
能登半島地震の対応で物質を搬送するために、新潟航空基地に向かおうとして、
滑走路に待機していたときの事故だという。

 能登半島の地震についての補足記事。(朝日新聞1月3日2面)
  能登半島での地震は2020年12月から活動が活発になった。
  23年12月までの震度1以上の地震は506回を数えるという。
  登半島では2007年にもM6.9、最大深度6強の地震が発生している。
  「壊滅的な被害だ。(普通に)立っている家がほとんどない。
   9割方、全壊もしくは、ほぼ全壊という状態だ」
  珠洲市泉谷満寿裕市長が県災害対策本部員会議での発言に、
  その深刻さと今後の困難さを予測するような発言だ。
社会31面に、規模の大きさを喚起するような大きな見出しが躍る。
  激震 崩れる民家 珠洲 川が逆流「津波が家の中まで」
  「壊滅的被害」全容見通せず  寒さ耐え 物資待つ 能登・穴水
  大きな揺れが起き、外に飛びたすと自宅が崩れた。
  「痛い」「助けて」。
  妹の叫び声が(瓦礫の中から)聞こえた。
  消防も市役所も電話がつながらない。
大きな活字の見出しを拾うだけでも1月3日朝刊の新聞は、
拾いきれない活字が躍っています。
被災した人たちの立場から浮かぶ言葉は「茫然自失」。
何をしていいかわからい。考えがまとまらない。
頻発する地震と、
寒さにおびえて眠れない夜を過ごさなければならない人たちの苦しみが伝わってくる。

 日常性の連続が、ある日突然断絶してしまうと、
 人は何をしていいかわからなくなってしまう。
 今日一日が無事であったように、
 おそらく明日も似たような日が訪れるだろう。
 昨日・今日・明日と連続した日常の中で、私たちは年を取っていく。
 今日、無事に生きられたから、
 予測のつかない明日であるけれど、
 おそらくは今日とさほど違わない明日を迎えることを予測する。
 だから私たちは安心して今日を生きられるし、
 明日を迎えることができる。
 だが、ときとして、
 事故や自然災害、脳梗塞やくも膜下出血などに遭遇し、
 日常の連続性が遮断されてしまう時があります。

 「予測のつかない出来事」が起きた時、
 私たちの思考は混乱し、
 行動そのものも活動を停止してしまうこともあります。
 いわゆる「茫然自失」という状況に置かれてしまうと、
 何をしていいかわからなくなってしまう。
 表現を変えれば、何もできなくなってしまう。

 つまり、今日が明日へとつながっていかなくなってしまう。
 「トラウマ」という現象が起こってきます。
 現実に起こったことを理解できない、あるいは認めようとしない。
 自分に降りかかった非日常のできごとから立ち直ることができず、
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)となって、
 心に傷を負ったまま、回復するには長い時間が必要とされます。
 人間はそれでも負けない。
 時間が必要かもしれないが、失われた日常を取り戻すために、
 心に負った喪失感や悲しみを、
 失われたピースの一つ一つを探して埋めていくような忍耐強い作業を重ね、
 日常を取り戻していく強さと、自浄作用で乗り越えてほしいと思います。

      (ことばのちから№2)         (2024.01.27記)





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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男 

2024-01-25 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男

 

捕虜になってから4年。
太平洋戦争で最終的に日本が敗れるまで、
酒巻はハワイを経てアメリカ本土に移され、6か所の捕虜収容所を転々としました。
この収容所の中で、
アメリカの民主主義や合理主義への理解も深め、
続々と収容されてくる捕虜たちのリーダー的存在となっていきます。
 
 
日本に帰ってから書いた「捕虜第一号」には、
収容所で死を望む記述がある。
 戦陣訓の中に『生きて虜囚の辱めを受けず』とあり、
捕虜になる事は最大の屈辱であると、教育を受けてきたからだ。
「撃ち殺してほしい」と米兵に懇願する。
しかし、願いがかなうはずもない。
また、顔写真をとられたとき、
彼は自分の顔にタバコの火を押し付け、人相を悪くした。
自分が生きていることが判明した時、別人になるための行為だったのだろう。
その写真は現存するが、顔面に押し付けられたタバコの火の火傷の跡がたくさん見られる。

自殺願望をもち、これが叶えられないと
やがて酒巻は、収容所を転々とするうち、
英語を習得し次第に捕虜のリーダーになっていく。
「何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言ひ得るのであろうか」と考え方を変える

帰国後の酒巻和男

4年間の米国での捕虜生活の後、1946(昭和21)年1月4日に無事帰国する。
翌1947(昭和22)年3月には「俘虜生活四 ケ年
の回顧」を出版。愛知県のトヨタ自動車工業に入社
続いて1949(昭和24)年11月には、「捕虜第一號」を出版する。
 戦後数年後の手記は、「なぜ死ななかった」「非国民、腹を切れ」などの誹謗中傷が絶えなかったという。
 
                   一千五厘の召集令状で、あるいは志願兵として、出征する人々に
                 日章旗に書かれた寄せ書きを贈り、のぼり旗で激励し、千人針を贈り、
                 万歳三唱で華々しく出征を見送った銃後の人々は、
                 手のひらを返したように帰還兵に冷淡なあつかいをした。
                 或る帰還兵は貝のように沈黙し、戦地での体験を忘れようと、
                 
心に封印をした。負傷兵として帰還した人のなかには、
                 傷痍軍人として白い服を着て、行きかう人々の冷たい視線にさらされな
                 がら、屈辱的な思いで、街角に立つ姿も珍しくなかった。
 敗戦を経て、人々の考え方は、一変した。
終戦、文字通り、敗戦ではなく終戦という言葉が多く使われていた、この時代に、捕虜の体験を発表する、しかも真珠湾攻撃による開戦のその日に、「捕虜第一号」という当時としては不名誉な体験記を発表した酒巻和男の勇気に驚きを覚える。
 
 昭和44(1969)年には、トヨタ・ド・ブラジル社長に就任し、トヨタの国際的発展に手腕を発揮したという。さらに、再帰国後は、関連会社豊田総建の社長や参与となり、トヨタでの職を終えた。
1999(平成11)年11月 死去 81歳
 
 
 (大東亜戦争九軍神慰霊碑・戦死した9人の慰霊碑・捕虜になった酒巻少尉は秘匿された)

 

戦後80年目の名誉回復
 
 2021年12月8日、愛媛県伊方町の三机湾に新しい石碑ができた、碑には旧日本海軍の若者10人の写真が埋め込まれている。10人を悼むため、有志がクラウドファンディングで費用を募って建立した。
                                  (朝日新聞2021年12月8日) 

                                         

     (史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑 10名の名前が刻まれている)

 実に、真珠湾攻撃から80年目の記念碑建立である。
紹介した酒巻和男の手記などによれば、1941年春から三机湾で約10カ月近くの訓練を仲間と共に小型潜水艦「特殊潜航艇」の極秘訓練に励んだ。全長24㍍の2人乗りで、2発の魚雷を積んでいた。攻撃後に母艦に戻るのは難しく、亊実上の特攻兵器だった。酒巻さんの艇は座礁し、同情の部下稲垣さんと脱出したが、海中ではぐれてしまう。酒巻さんは浜辺に流れ着き、米軍の捕虜となった。海軍は捕虜になっていることを把握していたが、攻撃に参加していたこと事体も隠ぺいし、「生死不明。機密の為口外をしないように」と家族に連絡、出撃前に10人で撮った写真から、酒巻少尉だけを削った。一方、戦死した9人は軍神としてたたえられ、戦意高揚のための自己犠牲の美談として、銃後の国民に流布された。
 戦後80年目にしてやっと酒巻和男の名誉回復がなされた。
                                                                  (おわり)
        (語り継ぐ戦争の証言№38)                    (2023.01.24記)

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④ そして捕虜になった

2024-01-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④そして捕虜になった

              前回まで。
                敵地まで近づいた酒巻和男少尉と稲垣清二等兵曹の乗艦した特殊潜航艇
                ジャイロコンパスが故障していたが、艦長に「いよいよ目的地(真珠湾の
                入り口近く)ジャイロがためになっているがどうするか」と問われ、決行
                することを艦長に伝えた。苦しい訓練の末にやっとたどり着いた命がけ
                 の実践だ。手記の中で酒巻は次のように記している。
                 『私は艦長の憂慮を吹き飛ばしたいと思いながら、力と熱を込め、「艦
                 長行きます」と答えた。艦長に注目しながら最後の敬礼をする艇付の稲
                 垣清二等兵曹の澄んだ目が、異様な閃光のように輝いて見えた』

 
 だが、ジャイロコンパスの壊れた潜航艇は迷走を続ける。
湾口があとどれくらいかともどかしそうに潜望鏡を除く酒巻。
しかし、酒巻の期待は微塵に砕かれてしまった。
酒巻の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原にすぎなかった。
 艇は盲目航走の結果、湾口方向より90度近くも方向を変えて進んでいた。
 方向を確認する方策は、潜望鏡露頂走行だが、
敵陣近くでのこの走行は、敵に発見される確率も高く、許されない。
予測されたようにジャイロコンパスは機能不全のままだから、
再三再四方向を軌道修正し、でたらめな走行をせざるを得なかった。

 東の空が白み南十字星が消えるころ、静かに明ける真珠湾がはっきりと出現し、
偉大なる艦隊を守る二隻の哨戒艇を走るのを認めた。
朝日はすでに東の空に昇り、洋上には波がきれいな光を反射していた。
嵐の名残の為か、波は幾分高いが、攻撃には上々の日和である。

 監視艇が大きく目前に現れ、甲板を走るアメリカ水兵の白服がはっきり見えた。

その時、ドドドーン。
ものすごい爆発音と共に私の乗った潜航艇が大きく震え、異様な音響が何度も聞こえた。
あっと思う瞬間、私の体は宙に浮き、潜航艇の隔壁に叩きつけられた。
敵は爆雷を投射したのだ。
至近爆発の爆雷を数個受け、
頭を打った私はそのまましばらく何もわからなかった。
               
               

                  エピソード 吉村昭が体験した12月8日真珠湾攻撃の2日後
                   
兄がやがて中国大陸に出征しまして、一年半ぐらいたった時、
                  戦死の公報が来ました。戦死すると階級が一つ上がるのですが、
                  なぜか二階級特進になっていました。新聞に出ていた記事によると
                  敵前渡河といって、クリークを渡るのに、兄と上官とが決死隊にな
                  って向こう岸に渡って、軽機関銃を打っていたときに弾に当たって
                  戦死したそうです。
                   昭和十六年十二月八日は太平洋開戦の日ですが、その二日後に兄
                  の遺骨と遺品とが帰ってきました。白木の箱に入っている遺骨を見
                  ますと、骨の一部であるかのように小石がこびりついていて、野外
                  で遺体が焼かれたことを示していました。
                  遺品袋には、つるの代わりに黒いゴム紐のつけられた眼鏡、母が編
                  んで送った毛糸のパンツも入っていました。
                                 (吉村昭 随筆集 『白い道』より)


その後気絶から目を覚まし、上げた潜望鏡の映し出す光景に、酒巻の眼は引き付けられた。

 胸の鼓動は高まり、体中が熱してきた。
狭い視野の潜望鏡に、大きな真珠湾に黒煙が立ち上がっているのを確認した。
ものすごい黒鉛の塊はまっすぐに中天に舞い上がっているのが見えた。
しかし、運命の女神は、勝利の女神とはならず、特殊潜航艇は敵の投射する爆雷に追われ、
ついに一発の魚雷も発射することもなく座礁してしまう。
潜航艇は傷つき動かなくなった。
              

座礁した潜航艇の中で酒巻は考えた。

私は潜航艇を捨てて逃げ出してよいのであろうか。
艇と運命を共にする。
それが海軍軍人としての生き方ではないのか。
と思いながらも生を求める本能的な叫びが私を呼んでいる。
私は人間である。
人には血があり、肉があり、将来の命と仕事が待っている。
兵器はいくらでも作れ、いくらでも代用できる。
しかし、人間はそう簡単に代用できるものではない。
人間は兵器ではないのだ。
私は立派な軍人でなくもよい、人間の道を選ぼう、そして次の使命を待とう。
私は思いきって潜航艇の爆破装置を作動させ、艇を去ることにした。
海水は思ったより冷たく、波は見たより高かった。
私は泳ぎ始める。
疲れ切った身体は自由に動かない。
思わずガブリガブリと海水を飲み、私はもう泳げなくなり、ここで死んでしまうかもしれないと直感した。
しかし、死にたくない、死んではいけない、死んでなるものかと、
隣にいるはずの艇付き(潜航艇の操縦者・稲垣 清二等兵曹)が心配である。
最愛の艇付きを死なしてはならない。
夢中で、稲垣二等兵曹の名を呼んだ。
「艦長」という声が聞こえる。
「おい頑張れ、岸は近くだ」。
だが、稲垣二等兵曹の声を二度と聞くことはなかった。
私たちは引き離され、稲垣との連絡は、永遠に立たれてしまった。

 疲れきって泳げなくなってから、あるいは失神して磯波に打ち上げられていたのだろう。

気がつくと、背の高い米国兵がピストルを差し向けて立っていたのである。
私の片腕は米兵に掴まれ、
ほとんど同時に他の一方の腕がもう一人の米兵によって掴まれた。
酒巻和男少尉が太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃での捕虜第一号となった瞬間でした。
                                    (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№36)       (2024.1.20記)

       参考資料:  
         真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組関連新聞記事 朝日新聞等

        

 

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未来の方向

2024-01-17 06:30:00 | ことばのちから

未来の方向  

① 進むべき未来はこっちだ、という人がいる。
  でも、きっと未来に方向なんてない。
  それはまっさらな地図のようなもの。
  どっちに向かってもいいはずだ。
  ひとりひとりが進んだ方向に、それぞれの道とそれぞれの世界ができていく。
  だから、全方向で考えよう。
  やれることは全部やろう。
  可能性はたくさんあるほうが、おもしろいから。
  さあ、みんなでつくろう。
  あなたが進む方が未来だ。
            (トヨタイズム)2024.1.1.朝日新聞広告キャッチコピーより全文掲載
トヨタ自動車が展開する企業イメージ広告。
新年を飾るいいキャッチコピーだ。
人それぞれの多様性を認め、
今日という窓から未来の希望が見える。明るい未来が見える。
宣伝広告と切り離しても鑑賞にたえられる詩文だ。

だが、優しく理解しやすい文言の裏に、私たちに託された重い責任があることを忘れてはならない。

バトンタッチした未来の社会が、手垢にまみれて修正しなければならない社会であったら、

それは、今を生きる私たちの責任だということを、私たちは忘れてはならない。

未来はいつも過去からのメッセージを伝える、反映する。


もう一つ、セイコー舎のキャッチコピーを見てみよう。

 

② 『はかり知れない未来を、測る』

  スタートを切るとき、その先はいつも白紙だ。
 
  未来ははかり知れないもの。

  どんな結果が待っているのか知ることはできない。

  けれど勇気をもって人は進む。

  だからこそ、その挑戦は尊いのだ。

  世界がまだ見たことのない瞬間に出会ったとき、私たちの心は動く。

  その感動を人々と共有するために。

  想像を超える未来を切り拓くために。
                (セイコー舎2024.1.1の朝日新聞広告のキャッチコピーより)

 
  
未来が少しずつ見えてくるのは、スタートを切って少したってからだ。
   足のさばきや、手や指の動きが、たった9秒間の先にあるゴールにどのように作用するのか、
   わずかながら見えてくる。
   あるいは、駅伝のように、いくつものスタートと中継をつないで、
   未来というゴールに向かっていく進めていくアスリートたちのひとり一人の息づかいが、
   修練の結果が未来というゴールに、様々な結果をもたらす。
   想像を超える未来を拓くために、私たちは今を一生懸命生きなければならない。
   どんな未来が提供できるかは、私たち一人ひとりの生き方に左右される。

③ 16年後の近未来社会
   
現在の日本の高齢者人口は、総人口が減少する中で高齢者人口は3627万人と過去最多だ。
  総人口に占める割合は29.1%で過去最高を更新している。

       我が国の総人口(2022年9月現在
)は、前年に比べ82万人減少している。
   65歳以上の高齢者は3627万人ですから、前年比6万人増加し、29.1%となった。
                                  (総務省統計局データ)
   さて、国立社会保障・人口問題研究所は16年後の2040年には、現役世代(15~64歳
)は2割
  減少し、全人口の8割に減少してしまう。
   65歳以上の高齢者は、約3900万人で、2020年の統計と比較するとたった20年で300万人増
  加したことになります。実に、3人に1人が高齢者ということになります。
   一方、リクルートワークス研究所の報告書は「2040」で
次のように推計しています。
  現役世代が減る一方、85歳以上は2020年の610万人から1千万人に達する(前述のように3人に
  一人が高齢者になる)

   大変な近未来社会が目前に迫っています。
  もし、このまま何の手も打たなければ、
  私たちの16年後の社会はどんな社会になっているのだろうか。

  もしも、政府や私たちが16年後の対策を何もせずに、
  安穏に過ごした時に、どのような社会が実現するのだろうか。
   朝日新聞が、財務省、厚生労働省、国土交通省、日本総合研究所の資料を駆使くして作成
  した2040年の社会は次のようななんとも暮らしにくい社会になってしまいます。
   1. 農業人口 益々衰退し、2020年比で7割減。これに伴い農作物の価格は高騰する。
   2. 労働力  
約1100万人が不足
   3. 住宅   3割が空き家になる。大工などの技術者の減少で廃屋が増える。
   4. 物流   労働力の不足で2030年度には34%の荷物が滞留する。
   5. 道路・橋 築50年以上の道路・橋が老朽化75%。修繕がとどこおる。
   6. 介護職員 69万人不足
   7. 路線バス 運転手不足で路線バス廃止
        
  来るべき16年後の2040年は、デストピア(反理想社会・暗黒社会)の出現する社会なのか。
  16年、待ったなしの時間だ。打つ手がなければ、デストピアは確実にくる。
   派閥に汚れた政治ではなく、国民の願いを託された一人の人間として、
   そして、社会を構成するひとり一人が、未来というバトンを責任をもって手渡さなければ
   ならない。そう言う覚悟をもって過ごすことが望まれる。
                            (朝日新聞2024年1月1日の記事を参照)

   (ことばのちから№1)    (2024.1.15記)

   
    

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス

2024-01-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス
                             前回は、五艇を乗せた特殊潜航艇の母艦が、ハワイ・オアフ島の海域近く
                         まで近づき、命を懸けた作戦を遂行する興奮と不安で緊張し、母艦の甲板
                         に仁王立ちする酒巻の姿を描いた。

       特殊潜航艇とは
             本題に入る前に、特殊潜航艇・甲標的について説明しておきます。
            甲標的は魚雷2本を艦首に装備し(前回の写真及び図を参照)、鉛蓄電池によって行動
            
する小型の潜航艇だ。
             乗員2名で、操縦士が座り、指揮官は立ったまま潜航する。開発当初は洋上襲撃
            を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載し、水中から発進して港湾・泊
            地内部に侵入し、敵艦船を攻撃する戦術に転換された。
             連合艦隊司令長官山本五十六に甲標的の作戦が具申されたとき、山本は奇襲案に
            は賛成だったが、甲標的作戦では、攻撃後の収容が困難なため、採用しなかった。
            しかし、改善策を作り、数回陳情し採用に至った経緯がある。
             甲標的の部隊は「特殊攻撃隊」と命名された。真珠湾奇襲攻撃には五艇の特殊潜
            航艇に計十名の隊員が乗り込んだ。結果的にみれば、真珠湾内に侵入できた艇は皆
            無で九名が戦死し、酒巻和男のみが、第二次大戦捕虜第一号として米軍に確保
            された。
酒巻和男の手記
  ジャイロコンパスが機能しない。しかし、いまさら……。
 
昭和16年12月、開戦前日の暁近いころである。
母艦の部屋に戻り、私は整備日誌に恐ろしい最後の記録を綴った。
それはいくら整備しても、ジャイロコンパスが動かないことである。
深い溜息が私の胸を圧迫し、そして大きく吐き出されると重々しい胸苦しさが取り残された。
ほとんど水上航走を許されない特殊潜航艇には、ジャイロコンパスこそ命の綱であり、
コンパス無しの出撃ということは、
常識では考えられないし、
出撃したところでそれは直ちに不成功と死を意味するからである。

 今日までの努力と挺身は、艇の完全装備であった。
しかるに、今となって故障を起こすとは、はたして整備努力の不足なのか、
決定的な運命のからくりのいたずらなのか、私はその判断に迷った。
私は固い強い拳で無心に机をたたいた。
「ジャイロが何だ、俺は魚雷を持っている。魚雷を命中させればいいではないか」。
そう独り決めして、私は憤然として立ち上がった。
    
    ジャイロコンパスが故障していることは、出港するときからわかっていたことで、
    上官から「酒巻少尉、いよいよ目的地に来た。ジャイロがダメになっているがどうするか」。
    上官の最後の念押しである。
    酒巻は『力と熱を込め「艦長、行きます」とこたえる』
    この時の酒巻の心の逡巡を酒巻は、
    苦しかった訓練や技術の取得や激励の見送りなどを振り返り、
    『いまさら攻撃中止なんて考えられない。大きい責任と使命が私を縛っていた』
    と手記に書いている。

 この後手記は出航の場面に移ります。
タンクのブロー音を残し、母艦はぶくっと浮上する。 
急いで潜航艇に乗り込む。シューブルブルッ。
タンクへの浸水音と共に私の乗った特殊潜航艇はすーっと波間に進水していった。

今や、日本の運命を決しようとする世紀の戦いは、あと数時間で始められようとしている。
特殊潜航艇のモーターが起動する。
母艦は速力を増していく。
太平洋のど真ん中に、粟粒ほどの特殊潜航艇が、
もんどり打って踊りだし、単独行動を始めたのである。
深度を浅くしながら湾の入り口があとどれ位かと大きな期待に手に汗して、
私はもどかしそうに潜望鏡の上がるのを待った。
しかし、私の期待は微塵に砕かれてしまった。
私の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原だった。
潜航艇は盲目航走の結果、湾の出入口方向より、
九十度近くも方向を誤り先行していたのである。
使用不能のジャイロコンパスを積んで潜行する特殊潜航艇は、
目隠しをして道路を歩くようなものだ。
湾内に辿り着こうとする焦燥感に追われながら、
再三再四方向を変えて走行を続けた。
しかし、運命はあくまで執拗に私たちへ味方してくれなかった。
結局はでたらめな走行と、徒労に過ぎなかったのである。
東の空が白み南十字星が消えるころ、
静かに明ける真珠湾がはっきりと現れ、
偉大なる艦隊を守る哨戒艇が走るのを認めた。
私は湾の入り口に向かって盲目の突入潜行を続けた。
                     (つづく)
    参考資料 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組 関連新聞記事等

  (語り継ぐ戦争の証言№36)                            (2024.1.12記)


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