雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「JR上野駅公園口」  柳 美里著 ②

2020-11-30 06:30:00 | 読書案内

読書案内「JR上野駅公園口」柳 美里著 ②

    カズ が故郷に戻った7年後、カズは妻・節子を亡くした。
    雨の激しく降る夜だった。隣の布団に寝ていたカズが気づいたとき節子は
    すでに冷たい体になって、死後硬直が始まっていた。
    節子・享年65歳、カズ67歳。
    雨の夜だった。

    カズはわが身に降りかかる不幸に声をあげて泣いたに違いない、と思う反面
    働いて働いて、これから、というときに訪れたわが身の不幸に、泣くことさえ
    忘れてしまったのかもしれない。と、わたしは感情移入を膨らまし、
    この悲しい物語の先を読み進んだ。

    著者はカズの気持ちを次のように描写している。
「なんでこんな目にばっかり遭うんだべ」、と悲憤の怒りが胸底に沈められ、
 もう泣くことはできなかった。

「おめえはつくづく運がねぇどなあ」、浩一が死んだときお袋が言った言葉をかみしめ、
独りぼっちになってしまった男に、孫の麻里は優しく、足しげく訪ねてくれた。
しかし、年老いた自分のためにこの可愛い21歳になったばかりの孫を縛り付けるわけにはいかない。
いつ終わるかわからない人生を生きていることが、男には怖かった。

それは、浩一と妻が、
何の予告もなく眠ったまま死んでしまったための投影からくる不安でもあった。

 またしても、雨の朝、
 カズは小さなボストンバックに身の回りのものを詰め込み、家を出た。

〈突然いなくなって、すみません。おじいさんは東京へ行きます。
この家にはもう戻りません。探さないでください。……〉
あまりにも悲しい書置きを残して。
70近くなったカズは再び東京へと旅立つ。
家族のためにその生涯のほとんどを出稼ぎに費やし、
それでも一握りの小さな幸せさえ掴むことのできなかったカズ。

今度は、誰のために働くのでもなく、
カズが自分のために最後に選んだ人生の辿る道は、
JR上野駅公園口で下車することだった。

公園口を出て少し歩けば、都会の喧騒を逃れた上野の森が現れてくる。
ある人にとっては憩いの場であり、リフレッシュの場でもある。
しかし、男にとっては、上野の森に散開するホームレスへの人生最後の転落への哀しく辛い旅となる希望のない出発点だ。

 

家族のためにひたすら働き続け、
不器用にしか生きられなかった男の最後の選択がホームレスだなんてあまりに切なく悲しい。

『成りたくてホームレスになったものなんかいない。この公園で暮らしている大半は、もう誰かのために稼ぐ必要のない者だ』 
血縁を断ち切り、故郷を捨て、人によっては、過去や名前さえ喪って生きるホームレスの孤独。
だが作者はこれだけで物語を終わりにしない。

 東日本大震災、津波が人を押し流し、
   原発事故は故郷を汚染し男から帰る場所と過去を奪ってしまう。

最愛の孫・麻里はどうしたか。
今日もホームから聞こえてくる。いつもと変わらないアナウンス。
無常の声。

 「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、
  危ないですから黄色い線までお下がりください」


 カズのように、ただひたすら働き、
それでも底辺から這い上がることができない人。
表現を変えれば、社会の構造がもたらす競争社会の中から必然的に生み出される格差という
奈落に落ちてしまって浮かび上がることができない人は、少なくない。
具体的な社会問題として浮かび上がってくるのは、
孤独死、ひきこもり、適応障害、貧困、教育格差等々数え上げるときりがない。
祝福されるべき誕生の時から、
もっと遡れば、母の胎内に命の芽が宿り始めた時から
容易ならざる環境を背負わざるを得ない苦しみや、不幸せな芽を宿してしまう場合もある。

  カズは福島から常磐線で上京し、帰郷し再び常磐線で「JR上野駅公園口」にたどり着いた。
  人生逆戻りの辛く、孤独の旅だ。
  高台になっている上野駅公園口から改札口前の道路を一本渡れば、美術館があり、
  博物館があり動物園があり、木々の森の緑の中に噴水のある憩いの水場もある。

  行き交う人々からひっそりと隠れるように「ホームレス」の段ボールハウスが、
  樹々のあいだに存在する。
  目を凝らせば、もう一人のカズがいつものベンチに座り、誰かが捨てていった
  三日前の新聞を読んでいる姿に出会うかもしれない。
                                                                                    (2014.05.31のブログ記事を大幅に改稿しました)

          (2020.11.29記)    (読書案内№159)

 

 

 

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読書案内「JR上野駅公園口」  柳 美里著 ①

2020-11-27 06:30:00 | 読書案内

読書案内「JR上野駅公園口」 柳 美里著 ①
米国で
最も権威のある文学賞「全米図書賞」が18日夜(日本時間19日午前)発表され、
翻訳文学部門で福島県在住の作家、柳美里さんの小説「JR上野駅公園口」の英訳版が選ばれた。
     
河出文庫
2017.2.7刊(写真)  単行本初出は2014年

  哀しくて、切なくて、どうにもならない人生の孤独が、ひしひしと胸に迫ってくる。

 2014年にリアルタイムで読んだ小説です。
 当時のブログにも読後感を掲載しましたが、格差社会の中でどこにも身の置き所を失く
 し、社会の底辺にうずもれて行ってしまう男の人生の孤独が感じられ、
 いたたまれない気持ちになった記憶が残っています。
 受賞を機会に再読しました。
 以下の記事は過去記事(2014.05.31記)を訂正・加筆して再掲しました。
 

カズは福島の貧しい農家の長男として、
  1933(昭和8)年に福島県相馬郡の寒村に生まれる。  

  妻と節子との間に娘・洋子と息子の浩一を授かる。
  家計を維持し、子どもたちを育てるために大都市に出稼ぎに出るということは、
  当時の貧しい寒村で生活をする者にとって特別のことではなかった。
  カズもまた例にもれず30歳になって東京に出稼ぎに出る。


1963(昭和38)年、
  翌年に東京オリンピックを控えたその年、カズはJR上野駅公園口に下り立つ。
  カズ30歳。
  街には三波春夫の「東京五輪音頭」が流れ、建設ラッシュはピークを迎え、
  地方からの出稼ぎ者たちは、
  オリンピック競技場の建設現場の土方として働き始めます。

  カズは酒を飲むこともなく、博打や女遊びをするわけでもなく、
  月々の稼ぎの中から一人暮らしの生活費を除いた金を故郷の妻子に送り続ける。

故郷へ帰るのは一年のうち盆と年末年始の数日だけだった。
  当時の出稼ぎ労働者の多くが歩んだであろう人生をカズも、
  経済成長の波に押し流されない様に必死で頑張ったに違いない。
  長い出稼ぎの連続で、盆暮れに時々帰る男に、
  たとえ短い間だけでも、「幸せ」と感じる時を過ごせた時期があったのだろうか。
  だが、作者は、
  男のささやかな心の平穏には一切触れず、
  淡々と、「老いていく」男の生涯を記述していく。

長男の浩一が死んだ。
  東京のアパートの部屋で誰にも看取られずに、突然の死が浩一を襲う。
  
レントゲンの国家試験に合格しこれからというときの孤独な死だった。
  享年21歳。
  1981(昭和56)年3月。春浅い季節だった。
    福島の生まれ故郷にはところどころ残雪が融けずに、黒い肌を見せていた。
  カズ、48歳。
  

家に戻ったのは60歳になってからだった。
  出稼ぎの労働で肉体を酷使し、
  思うように体が動かなくなってしまったための帰郷であった。
  老いた体を労わりながら、妻と二人ささやかな暮らしを迎えたいと
  カズは小さな希望を持っていたに違いない。

結婚して37年、
  ずっと出稼ぎで妻の節子と一緒に暮らした日は全部合わせても一年もなかった。
  だが、カズに、
貧乏の中で生きてきた家族の不幸が重くのしかかってくる。

カズの妻が死んだ。
  カズが帰郷してから7年後の
激しく雨の降る夜だった。
  
隣の布団に寝ていたカズが、
  冷たくなっている妻に気づいたときにはもう死後硬直が始まっていた。
  
働き者で体が丈夫だったことが取り柄だった節子、享年65歳。
  カズ、67歳の雨の夜。

 「なんでこんな目にばっかり遭うんだべ」、と悲憤の怒りが胸底に沈められ、
 もう泣くことはできなかった。
                             (つづく)

   (2020.11.26記)                    (読書案内№158)

 

 

 

 

 

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読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 -時代に創られた偉人- ③

2020-11-03 06:30:00 | 読書案内

読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 -時代に創られた偉人- ③
   止幾子江戸に護送、そして故郷の錫高野へ

    
黒澤止幾子への容疑は、水戸の殿様・徳川斉昭九代将軍(十五代将軍・徳川慶喜の実父)の
    無実を訴えるための『長歌』を献上し、その下書きが露見したことに起因する。
    その長歌の内容はどんな内容だったのだろうか。
    長歌の冒頭を見てみよう。                           
      千早振る 神代の昔 神々の しつめ玉ひし 秋津島 実にも貴き
      日の本の 清き光は 古も 今も千歳の 末までも かはらぬ君が
      御代なるを…

    雰囲気を味わうために原文を載せましたが、理解するのに苦労を要します。
    現代文に直すと次のようになります。
      神代の昔、神々がお鎮めなさった、まことに気高いこの日本
      の国は、昔も今も更に千年の後の世までも、変わることのな
      い君が御代であるはずなのに、こんな有様では、まことに訳
      の分からないご時世だ… 
    (長歌の冒頭は次のように続いています)  
      白波が寄せ来るように外国の問題な舟がやって来て、異人らが
      強いる無理な要求を早々に引き受けたあの過ちは、井伊直弼と
      いう士が日本の俸禄を食んでいるくせに立派なことだとはとても
      思われない。
      なんの分別もない間部詮勝に命令して、手柄こそあれ何の罪科も
      ない我が主君を幽閉し多くのお金で買収して恐れ多くも皇室の方
      がたを言葉巧みに引きつけたことはあさましいことだ。知恵の浅
      い井伊掃部の頭のこんなからくりは、自然と世間の人々の言葉に
      上がり、こんな悪事を云え聞いてみれば、私は下賤の身であって
      も、神代の神の御子孫である勲功高かった藤原氏の末流の私であ
      るから、これを聞き捨てるわけにはいかない。

      この日記は安政6(1859)年の止幾子の日記(京都捕之文・茨城県立歴史観蔵)の要約です。
      この資料は、京都で止幾子が「水戸藩の間諜」容疑で捕縛された時から16年後の明治8(1875)
      年頃に70歳の止幾子が書いた文書を、止幾子の曾孫(峰三郎)が昭和になって原文を判読し、
      清書し、現代口語文にしたものです。これを郷土史家の所价二氏が桂村史談会発行の『黒澤
      止幾子特集』(平成16年)に発表したものをもとに作成されています。
                                 (「黒沢止幾子伝と渾沌」より引用)。
 止幾子が京都に上った安政6(1859)年前後の時代背景
      止幾子は斉昭の無実を願って「長歌」を献上し、勇気ある行動を讃え、錫高野の郷里では
     「幕末の女傑」と語り伝えられてきた。
     徳川の幕藩封建体制が、音を立てて崩壊し始めた「幕末」とは、何時の頃だったのだろう。
     ペリーが浦賀に、蒸気船2隻を含む艦船4隻で来航した嘉永6(1853)年を幕末の始まりとし、
     この時から明治元(1868)年の直前までが通例になっている。
ペリー(ウィキペディアより)

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という狂歌にも歌われ、
     幕藩の武士を中心とする太平の夢が崩れ去ろうとするきっかけになった「黒船来港」です。

     嘉永6(1853)年  ペリー浦賀に来航
     安政元(1854)年   ペリー、軍艦7隻を率いて江戸湾に進出 
                                                日米和親条約(神奈川条約)を締結。
              この条約締結は、朝廷の勅許を得ずに締結されたために、
              幕府に対する非難が湧き上り、社会不安が増大。討幕運動の魁となる。
(嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航)

     安政5(1858)年 井伊直弼大老となる。
           ~安政6(1859)年 大老井伊直弼による一橋派や尊王攘夷派への弾圧が始まり、
             安政の大獄と称され、幕政に批判的な者(橋本左内 吉田松陰等)を捕縛し、
             刑死や獄死とした。
             また、手柄こそあれ何の罪科もない我が主君と長歌で謳った前水戸藩主・徳
             川斉昭は永蟄居とされた。
 
              止幾子の長歌は、
これを事実無根であると朝廷に訴えようとした。
             「幕末の女傑」と謳われた所以である。
             安政5年井伊直弼が大老に就任して間もなく「安政の大獄」が始まり、
             幕末の日本は、攘夷か開国かで多くの人々が血を流した時代でもありまし
             た。
             安政6年には止幾子が自作の長歌を携えて「京」に上った年です。
             止幾子にとっては命がけの旅だったに違いない。
             安政7年3月3日、水戸浪士等による井伊大老暗殺事件が起こります。
             後に「桜田門外の変」と言われた大きな事件でした。
(映画・桜田門外の変より)
             幕府の最高幕閣が浪士たちに暗殺され、
             幕府の権威はますます地に落ちていきます。

             長歌に登場するなんの分別もない間部詮勝(あきかつ)とは、大老井伊直弼の下で
             首座老中を勤め、日米修好通商条約調印の勅許を朝廷から得るとともに、安
             安政の大獄での弾圧を進めた一人である。

             100人以上にもわたる受刑者の中に、黒澤止幾子の名も見える。
         中追放   とき……………宝寿院修験者
                      (止幾子は修験者の家に生まれた) 
                  ※ 中追放……江戸10里四方外に追放(10里四方立ち入り禁止)。 

        止幾子の長歌には、斉昭を擁護し、
        大老井伊直弼や首座家老の間部詮勝などを真っ向から批判している。
        安政の大獄の推進者である大老井伊に対しては、知恵の浅い掃部
        こき下ろし、大老井伊直弼も首座老中間部も敬称をはぶいた呼び捨てです。

         捉えられた止幾子は「水戸の女間諜(かんちょう)」ではないかと疑われたのでしょう。
         
しかし、どんなに詮議しても止幾子は水戸藩内に住む修験者の娘という意外に、水戸
         藩との繋がりは見つけることができなかった。
         大阪から
江戸送りになり、引き続きここでも詮議されたが、
         間諜としての罪状は発見できずに、故郷へ帰ることになります。

        余談ですが、NHKの大河ドラマ第一作は船橋聖一原作の「花の生涯」でした。
   
              開国か攘夷か!激動の幕末を舞台に、攘夷論に反対し、後に「安政の大獄」
              と恐れられた思想弾圧を強引に展開し、開国を主張した大老・井伊直弼
              だったが、安政7年3月3日、桜田門外で水戸浪士等の襲撃を受け暗殺され
              た。1963年、今から57年も前のドラマでした。
              このドラマに鶴江という偽名を使って黒沢トキ子が水戸の女間諜(スパイ)
              として、井伊の屋敷に女中として雇われる話が出ています。もちろんこれ
              は船橋聖一の全くの創作です。トキ子役には、山岡久乃という女優が演じ
              ていました。(NHKホームページ ウィキペディア参照) 
     一時の義憤を抑えることなく、果敢に行動を起こした止幾子であったが、
    その行動はあまりにも無謀で無節操な行動だったのではないか。
    処罰(中追放)を受けて、常陸国(止幾子の生誕地・錫高野)への立ち入りは禁じられていたのだが、
    密かに錫高野に戻り、私塾を開催する。
    
     明治5(1872)年に明治政府は学制を発布、止幾子の私塾は錫高野小学校の教場となり、
    止幾子は小学校教師に任命される。
    「日本における最初の女性教師」と言われる所以です。
    しかし、これにも疑問の点があるようです。
    時間はかかりますが、後日に稿を進めたいと思います。
                                  (つづく)
     (読書案内)№157                  (2020.11.2記)
    

          

             

         

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