さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

原田喬『曳馬野雑記』より 短歌採集帖(4)

2017年01月20日 | 
 これは大正二年生まれの静岡県の俳人の随筆である。購入した理由は、次の齋藤瀏の歌が引かれていたからと、阿波野青畝のことを「せいほさん」と呼んでいる文章が目に入ったからだ。

戦は人間のことか大明湖の青蘆原になけるよしきり   齋藤瀏

 当時筆者が愛読していた改造社版の『現代短歌集』の中の歌だという。いまの大明湖(だいめいこ)は済南地方の観光名所だが、戦争と長く続く政治的な混乱によって荒れていたのだろう。これは、斎藤瀏の歌を当時の読者が、どのように読んでいたかがわかる資料として貴重である。筆者は書く。

「茫々たる青蘆原。「戦いは人間のことか」と自らと神に問う。兵もたくさん死んだろう。この青蘆原は実に凄まじい。真っ青に燃えている。」

 これに続けて筆者は、手元の「歳時記」では、青蘆原の景色が「涼しさを誘う」ものだと記してあるが、自分は青蘆原を「見て涼しいと感じたことは一度もない」と書いている。ここには、ただ審美的に自然に向かう態度を疑う感性がある。季題の持っている本意と、その本意からの外れゆきへの鋭敏な感覚が感じられる。

 筆者はもう一首斎藤瀏の歌を引いていた。

否と言はば火蓋きるべく整へて言やはらかに我が告げにけり       斉藤瀏

 この歌は、実にきな臭い。「否」というのは、こちらの勧告に従わない敵軍の事であろう。相手に軍事的な威圧をかけているさなかの指揮官の心中をのべた歌である。こういう歌が戦後読まれなくなったのは、無理もない。しかし、それをなつかしく思い出すのは、大正二年生まれの人の感覚ではある。

 とは言え「戦は人間のことか」という言葉を発するのは、軍人としては異例のことだろう。超越的な視点から自分たちの従事している戦争というものを俯瞰している。そうして人間の空しい戦いに無関係な「よしきり」に心を寄せる。二・二六事件を契機に軍の中央から外に出されたという経歴を持つ軍人の、脱俗の気風を見せた歌でもある。「否と言はば火蓋きるべく」というような具体的な事実に立脚して歌う手法は、戦時下の「アララギ」の戦争詠とも共通する。と言うより、こんなふうに戦地での心情をのべるかたちを斉藤瀏の歌は先行的に示すものだったのかもしれない。