ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



磯辺ビル。中央区銀座7-13
1987(昭和62)年5月5日

昭和通りの1本西の裏通り。写真左の工事用フェンスのところが交詢社通りとの角で、松沢商店がこれからビルを建てるのだろう。写真では磯辺ビルには田丸屋酒店が入っているが店舗ではないと書いてある。現在は「郷(さと)」というそば屋になっている。
昭和10年頃の火保図にRC3階で「山本」となっている建物だろう。ロマネスク様式を思わせるデザインを取り入れた小さな店舗建築である。昭和30年代の火保図では「磯部法律事務所」の記載。この大きさでは高層化も難しいので、今まで残ってしまったのかとも思うが、ビルのオーナーがビルに愛着をもっているのかも知れない。

ビルの前の通りの向かい側(西側)は、明治期までは三十間掘の河岸地だった。東豊玉河岸と西豊玉河岸である。大正期には飲食店や会社の木造建物が建ち並んでしまったかと思う。三十間掘には、交詢社通りに賑橋(にぎわいばし)、花椿通りに出雲橋が架かっていた。賑橋は関東大震災後に新たに架けられたもの。
「出雲橋」をネット検索したら「はせ川」という小料理屋が出てきた。以下は『 新潮社>雑誌> 新潮』の『 立ち読み>2011年11月号「吉田健一」長谷川郁夫』の一部。
 出雲橋のたもとに、“はせ川”という小料理屋があった。長谷川春草・湖代の俳人夫妻が昭和六年にはじめた小さな店である。春草は渡辺水巴の弟子。開店に際しては同年の久保田万太郎が、素人の春草を昔馴染の浅草の料理人に紹介して四季折り折りの鮮魚や野菜の見分け方や調理法、商売の方法を学ばせるなど、なにくれとなく世話を焼いた。
 窓の下は三十間堀。対岸の舟宿には貸舟が繋がれていた。「あの三十間堀は南北に通じてゐるから、『はせ川』のはうから見ると、西陽が向ひ側の舟宿にカンカン当つて、それが川波に反映してゐてね――あれは忘れられない風情ですね――」とは、河上徹太郎による回想である(「出雲橋界隈」)。
「厚板に丸太の脚、四、五人掛けのテーブルが四卓というこの小体な店」とあり、文士や文芸雑誌の編集者のたまり場になっていたという。
井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷 第一部』にも「はせ川」が出てくる。『荻窪風土記』は新潮文庫で持っているので開いてみた。「外村繁(とのむらしげる)のこと」の章に、「そのころ(昭和13年)旧市内では、私は出雲橋の長谷川か新橋の吉野家で飲んでいた」とか、戦後、三好達治のカッパの詩に清水崑の絵で暖簾を作って常連客にも配ったことなどが出ている。サイトには「昭和52年に店仕舞」とあり、当書には「長谷川は数年前に転業して画廊になった」(『荻窪風土記』の刊行は昭和57年)とある。
はせ川のあったのは出雲橋の西の袂らしいから火保図に出ていないかと見ると、昭和30年代の地図に、花椿通りの角から2軒目に「長谷川のみや」がある。現在は長谷川ビル(銀座7-11)で長谷川画廊が入っている。どうもこれが怪しい。

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