ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




日本大学本部。千代田区西神田2-6。1987(昭和62)年1月4日

白山通りの三崎町交差点から水道橋西通りへ抜ける通りの北側にあった。この通りの南側は三崎町2丁目になる。現在は2004(平成16)に竣工したガラス張りのビルになり、以前と同じ、日大法学部の図書館になっている。図書館としては使いにくくなったのだろうが、古い建物を残して大学の歴史を誇るための旗艦にはなりそうだが。一般には真新しいビルのほうが自慢で、古い建物は恥ずかしいのかも知れない。
写真のビルは1927(昭和2)年に竣工した。『近代建築ガイドブック』(東京建築探偵団著、鹿島出版会刊)では、設計:日大復興部、施工:中島辰造、である。「中島辰造」でネット検索したら、1件も該当するサイトがなかった。やたら変わった名前でもないと思うが、意外だった。


左:日本大学本部・東面。1983(昭和60)年2月24日
右:日本大学本部・北面。1987(昭和62)年1月4日

北側の正面中央には中庭のような広場を造って、奥に玄関を設けている。その玄関の右の柱にある表札は「日本大学法学部/図書館」。日本大学のHPでは「1927年、旧・法学部本館が落成」という記述がある。推定だが、日本大学の総本部として建てられ、本部が移転した後、法学部本部と法学部図書館が入った、という経過だろうか?



日本大学本部・西面。写真右には西神田小学校がまだ残っている。1992(平成4)年5月4日



日本大学本部・南面。手前の空地は取り壊された西神田小の跡。ちょっと離れて見ると、中央の塔屋がかなり大きい。1995(平成7)年6月25日

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コメント
 
 
 
中島組 (中島 薫)
2009-09-03 16:44:11
初めてメールします。
たまたま中島辰造をネットで検索したらこのブログを見つけました。
ほとんど資料は残ってないですが「中島辰造」というのは私の曾おじいちゃんにあたる人だと思います。
江戸時代から宮大工をしていた家系で当時中島組という名前で建築ををしていたと聞いています。
中国や東京に支店があって大学など建てたと聞いていますが戦争などでほとんど建物はなくなって資料もないみたいです。下請けに大林、鴻池がいたと聞いています。
実際当時のことを知らないのでなんともいえませんが
大阪の菩提寺や勝尾寺には名前が残っています。
現在私は父の中島辰雄のあとを継いで家業の建設会社をやっています。

資料があれば見てみたいし保存しておきたいと思うのですがなかなか難しいですね。曾おじいちゃんの名前を見て懐かしくメールしました。失礼致します。
 
 
 
>中島薫様 (流一)
2009-09-04 10:05:34
はじめまして。当ブログを作成している流一といいます。コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
貴社が江戸時代には宮大工をしていた人をご先祖にもち、戦前には中島組として大きいビルの建設を手がけていた、というのはすごいですね。あまり資料が残っていないようなのが残念です。
『日本近代建築総覧』という本は近代建築の基本的な資料としてたいていの人が使っている本で、そこには「日大本部(旧法文商部)、所在地=千代田区西神田2-6、建設年=S2、構造=RC4、設計者=日大復興部、施工者=中島辰造」となっています。
当書に載っている建物は大半が今は消失しているのですが、日大本部も残念ながら建て替わってしまいました。
 
 
 
中島組 (中島)
2010-01-16 11:43:27
ご無沙汰しています。
あれから日にちが経ちましたがいろいろと仕事のほうが忙しかったのでまだ調べることが出来ていません。
今年は協力して手伝ってくださる方ができましたので、がんばって調べようと思います。

大部分の建物がなくなってるのが寂しいですが、
もしそちらで何かわかることがありましたらまた教えていただけますか。

宜しくお願いいたします。
 
 
 
>中島様 (流一)
2010-01-17 10:19:24
お仕事をされながらの調査はもどかしいことも多いのでしょうね。中島組の仕事が日本大学本部以外になにがあったのか、その辺りの追求がひとつありそうですね。協力してくださる方の存在は心強いですね。結果を楽しみにしています。
 
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