ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




和光(旧服部時計店)。中央区銀座4-5。1986(昭和63)年12月30日

『日本近代建築総覧』では「和光K.K.(旧服部時計店)、建築年=昭和7年〈6月〉、構造=SRC7階建〈地下2階〉、設計=渡辺仁、施工=清水組」。
関東大震災が起こったとき、服部時計店では建て替えのため旧店舗を解体し、新築工事にかかったところだった。建物の被害はなかったのだから運がいいと言っていい。そのまま工事を続ければ大正時代のうちに竣工していただろう。帝都復興事業の道路整備は銀座地区においては晴海通りと外堀通りの拡張が主なものだった。下町の他地域と比べるとわりと小規模で済んだのだが、晴海通りでは北側が削られた。道幅が倍になったが、服部時計店のビルもその分だけずらすことになり、設計からやり直した。完成が昭和7年と遅れた理由である。『銀座 街の物語』(三枝進ほか著、河出書房新社、2006年、1600円)の年表では「1928(昭和3年)―現・晴海通り拡張工事開始。同年7月―数寄屋橋開橋式。1930(昭和5)年3月―銀座の町名変更(銀座八町誕生)。1930(昭和6)4月―三越開店。同年6月―区画整理が完成、地価が上がる。1932(昭和7)年6月―服部時計店落成。1934(昭和9)年3月―地下鉄京橋-銀座開通(前年1月着工)(6月銀座-新橋開通)」という具合である。
『震災復興〈大銀座〉の街並みから―清水組写真資料』(銀座文化史学会編、平成7年刊、1942円)では「設計=渡辺仁建築工務所(意匠)建築構造研究所(構造)、昭和5年6月11日着工同7年6月3日竣工」。同書には服部時計店の創業者服部金太郎と渡辺仁の関連が述べられている。服部は龍居頼三という人と親しかった。銀座人同士という関係にあったようだ。龍居は明治の政治家伊藤巳代治の秘書かなにかだったらしい。龍居の長男松之助は日本庭園史の権威になった人というが、渡辺仁は学習院高等科・東京帝国大学を通して松之助とは無二の親友。龍居頼三も渡辺の才能を知っていたので服部からビルの設計者について相談されると、即座に渡辺を推薦したという。道路整備と渡辺の腕がなければ銀座の象徴であるビルは今に残らなかったと思う。


和光。1986(昭和63)年8月24日

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