life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「オリンピックの身代金(上)(下)」(著:奥田 英朗)

2018-06-23 13:49:18 | 【書物】1点集中型
 古本屋で上下巻セット100円で売ってたので買ってみた。そういえば奥田英朗はエッセイ2冊読んだきりだったか? 何か1冊読んだような気もする。そこそこ好きな方に入る印象があったので手を出した次第である。

 舞台は高度成長期真っただ中、昭和39年夏。1969年東京オリンピックを迎えるまさにその直前に起きた、警察幹部宅と警察学校の爆破事件。警察側はオリンピックを控えて何としても治安に疑義を抱かれるような事態にはしたくない。極秘扱いにされる中、捜査線上に浮かんだのは出稼ぎ労働者を兄に持つ秋田出身の東大院生・国男だった。兄が亡くなった飯場を訪れ、兄が経験した出稼ぎの日々を自分もなぞり始める国男。労働者の過酷な現実を目の当たりにし、その犠牲を許容する社会のありように不信感を募らせていく。
 昭和30年代は流石にリアルタイムではないし、表現も敢えて当時の言葉を使ってあったりでちょっと入り込むのに時間がかかったけど、東大院生の国男が、兄が命を落とした飯場に入るあたりからはそれが絶妙な臨場感に変わってきた。社会のヒエラルキー、ピラミッド構造の下層にある者たちの、ただその日を生きるためだけに肉体労働を積み重ねる姿。今で言うところのワーキング・プアの状態か。そしてその状況に疑問を持ち、やがて怒りに、行動に変わる。この時代の闘争は例えばこのようにして生まれたんだなと思いながら読んだ。地方に住んでいたら多かれ少なかれ、今の時代でも感じることが、この時代にはもっと大きくて強いものだったということなんだろう。

 警察全体を向こうに回して、国男はオリンピック会場の爆破を予告し、そのオリンピックを質に身代金を要求する。下巻ではいよいよ公安や警視庁との駆け引きや追いつ追われつの展開がスピードアップしていく。ヒロポンを常用するようにもなり、その先には破滅しかないのではないかと思わされるが、社会がオリンピックに向けて突き進むように、国男も進むしかない。事件も労働の悲劇者も、沸き立つ社会には遂に知られることはない。それぞれの立場や思いで国を憂い、あるいはその発展を守りたいと思った人たち。そんな無名の人たちを陰に置いて、社会は華やかな祭典に酔い痴れる。
 結局、警察は国男とその相棒となった村田を阻止するに至り、国男の行為は日本の社会には何をもたらすこともなかった。テレビマンの須賀も、ビジネスガール(という呼び方も時代なんだなあ)の良子も、それぞれに国男と関わりながらその行く末を見届けることはなく、輝かしい未来を手にしているようにも見える。国男と村田の計画は、まさにその陰に消えた。ただ、村田は自分はその日暮らしをしていても、日本の将来にはある意味では希望を持っていたんだろう。国男には「横に積む」人になってほしかったんだろう。切ないな。

「土の記(上)(下)」(著:髙村 薫)

2018-06-10 23:34:25 | 【書物】1点集中型
 久々の髙村薫もの。あまりにも大きな存在である合田シリーズから一転した前作から今作もまた一転。都会の喧騒から大きく離れた世界という舞台は近しいけど、コメディ要素は全くなし。奈良の片田舎でひとり米を育てる男やもめの日常と、その裏に静かに張りつく亡くなった妻への情と不確かな疑惑。人はそれぞれの日常に没頭しながら、何かを記憶の底に沈めて、時に何気なく浮かび上がってくるそれに困惑したり懐かしんだりする。主人公が農業をしていることと年齢のせいか、レディ・ジョーカーの結びのシーンも思い出した。
 刑事もののような派手な事件はないけど、一つの交通事故が物語のキーにはなっている。それ自体に事件性は全くなかったものの、しかしその背景にあったかもしれない男女の心情については、被害者である主人公の妻も、加害者もすでに亡い以上、誰も知ることができない、永遠に解決できない謎である。その謎と、農業を営む人間の日常の一つ一つが淡々と、かつ丹念に描き出される様子の交錯は、やっぱり高村ワールドだ。仏教のイメージもなんとなく感じさせられるなあと思う。

 米や茶の木を育てるための作業が本当に事細かに、それを知って何になるのかと思わされるほど緻密に描かれている。主人公のを目を通して、自分も稲の苗や茶の葉の様子を目の前に見ているような気になるくらいのリアリティ。思えばその昔、銃の分解や旋盤の作業もこんな感じで表現されていたなぁ。
 そういう、目に見えてわかる現実とから先を経験に基づいて予測する、いわゆる職業人としての視点と、個人として集落の中でどう身を処し、疎遠だった家族とどう向き合い、隣人たちに起きるできごとにどう関わっていくのか。人が生きる、暮らすということのすべてが描かれている。なんというか、もはや純文学だ。

 最終的に主人公は、疑問のままにし続けることで結論を避けてきた妻の事故の裏にあったであろう不義をはっきりと結論づけた。でもそれも生きる中の一つ。失意や諦念も日常が呑み込む。そして、実りを示しだす稲穂を見つめる。それは救いの一つではあるかもしれない。
 そうしてこのまま名もなき「にわか農夫」の物語を平穏無事に語り終えるのか、と思ったらそういうオチでしたか。最後の最後まで、米と茶と、少しの野菜と、ものを作り暮らす日々の一つ一つが非常に緻密なだけに、最後の1行の生む反動は大きい。この無常感はまさに高村薫だなと納得した。

 そういえば「とまれ、」「否、」今回も多かったけど前回ほど気にならなかったのは何故だろう(笑)