life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「制裁」(著:アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム/訳:ヘレンハルメ 美穂)

2020-10-20 22:43:34 | 【書物】1点集中型
 「熊と踊れ」「兄弟の血」と読んで気になりつつそのままになっていたルースルンド作品。これも、捜査官として登場するグレーンス警部のシリーズものの第1作なのだそうである。
 護送中に脱走した少女連続殺人犯ルンドが、逃げおおせたあとに新たに同様の凄惨な殺人を犯す。被害者となった少女の父親フレドリックは、自分が娘の保育園で犯人のルンドを目にしていたことに気づき、執念でルンドを探し出す。そしてフレドリックの行動が、彼の娘の事件の周辺からさらにその外の社会へと大きな波紋を呼び起こす。

 常人には到底理解できない異常性を感じさせる(いわゆるサイコパスと捉えていいかと思われる)凶悪犯罪者ルンド。たった一度の過ちによって、社会から異常者として疎外されることになってしまったヨーラン。ルンドへのフレドリックの行動が、彼らとは全く接点がないヨーランの周辺の人々の行動を誘発する。フレドリックが起こした事件への最初の判決が引き起こす、新たな「制裁」。そして二度目の判決が引き起こす、別の「制裁」。
 ただ、それらは物語を追っている読者には、全くと言っていいほど意外な展開ではないのだ。この時代、この社会に生きていれば、こうなるであろうことは容易に予想できることが淡々と描かれている。フレドリックの判断は、すべてが間違っているとは誰にも言えない。だから裁く立場の人間も、法を司る者として取るべき道が明らかであっても、感情と論理の狭間で苦悩する。そこにその苦悩があるかどうかは、しかし外の人間はいささかも考慮しない。ひとつの客観と、大多数の主観のせめぎ合い。

 この物語には、「罪」は語られていても、「赦し」に向かう心を思わせるものはほとんどない。それが実は、人間の現実なのだろうという気がするのだ。
 人間の感情と司法の判断が時に相容れないものであることも、人は知っている。法に拠って立つ社会において正しいとされること、人間として超えるべきではない一線。論理や常識としては納得できるそれらを、当事者となったときに納得できるかどうかは別の話である。それがわかっていて、結末がわかっている物語を追って、そのうえで何を思うのか。たとえ自分がルンドではないということが確かだったとしても、フレドリックやリルマーセンにならないと言える人間はいないだろう。その行動に対しても、結末に対しても。
 著者があとがきで語った通り、「彼らは皆、どこかに、われわれの中に、存在している」のだ。「あまりにも不合理」であっても、その不合理はひとりひとりの人間の中にある。それを認めなければ、人は人とともに生きていくことはできないのだろう。
 
 訳者あとがきによると、原題は「怪物」「野獣」といった意味なのだそうである。なるほどと思うし、邦題が最終的にこうなったのもなるほどと思う。「制裁」の連鎖。司法の判断が引き起こす、人間の心理の中にある「怪物」「野獣」。このいわゆる”連鎖“に、個人的に思い出したのは高村薫「冷血」だった。もう一度読み直してみようかな。 

「野火」(著:大岡 昇平)

2020-10-03 16:56:37 | 【書物】1点集中型
 恥ずかしながら読んだことがなかった大岡昇平。たしか夏の読書感想文時期に各社から出てくる「夏の○冊」みたいなあれから拾ったような気がする。戦争ものを読むのも久しぶりである。
 第2次大戦中(であろう)のレイテ島、病を得たために所属する隊から追われた主人公。もはやどこにも属することができなくなったけれど、兵士であることだけは変わらない。どうやって死に向かうのか、その中でどうやって毎日、今日1日を生きるのか。前半は割と淡々と読めるんだけど、終盤になってきたら「ひかりごけ」をどうしても思い出してしまう展開が。もちろん描き方は全然違うし、それが醍醐味である。

 「あの空に焦れるのは、及び難いと私が知っているからであろう。私が自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は私はすでに死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか」――主人公は自らが死なない理由をそう悟る。体は生きている。だけど身体が動いているというだけで、精神は動いていない。
 ただ、生命の極限に近いであろうこの状況下に発したこの思いも、本当は戦時中だからという話では全然なくて、極端に言ってしまえばないものねだりで、人間の中で何ら変わることなくある思いなのではないかと思う。
 それでも人間は生き物として生きていく。生きるためだけに生きる、そのためになら、自らの血を吸った山蛭でさえ糧とするし、「猿の肉」をも食らう。帰りたいと叩頭しながら、死にゆく自らを差し出そうとする者がいる一方で。
 生きてきた右手と「怠けた」「美しい」左手。「働かざりしわが手」のもたらすそのせめぎ合いがたぶん〈私〉を人間たらしめている最後の砦である。「猿」を食って、それに心動かされることがもはやなかったとしても、けれど食うために殺すことに対してだけはそうではない。

 けれどこの〈私〉の〈手記〉は、体験のない者には「小説みたい」なものと受け取られるだけのものでもあった。
 太陽は見つからない。ただ野火だけが上がる。
 人間でありたいと意識して激しく欲したわけではない。それでも、一線を踏み越えることはなかった。おそらく人間を超えるものの力によって。
 けれど本当にそうなのだとしたら、信じるものがなければ、やはり人は人間たり得なくなってしまう暗い可能性を拭い去れないということなのだろうか。